桃瀬海様 『sugarbabe』
喧嘩した。 今、思うと何処をどうしたら喧嘩になるのか分からないくらい些細な事で。 窓から出て、このままニューヨークまで飛んで帰ろうかとジェットは思ったが、さすがに昼間は目立ちすぎて止めた。 だが怒りが治まらず、勢いだけで部屋のドアを力一杯閉めて階段を下り、何にも考えずに路を歩き続ける。 オレは悪くない、アルベルトが悪いんだ!と頭の中でぐるぐるとそれだけ考えつつ真っ直ぐずっと歩いていく内に、 いつの間にか郊外にある広場にまで来ていた。石畳のこの場にはジェット以外は誰も居ない。ゆっくりとベンチに腰を下ろした瞬間、口から思わず溜息が洩れる。が、 それも寒気によって白く濁って消えてしまう。余りにも深く息を吐き出したので、肺の酸素が全部無くなるかと思う程の溜息だった。 それなのに、胸のつかえは軽くならない所か重くなる一方で余計辛くなる。落ちこんでいく気分を紛らわそうとジェットはぐるりと周りの景色を見た。 冬枯れの樹や地面に張り付いている枯葉、そして遠くに見える薄くて灰色の雪空は間も無く降り始める雪を連想させる。 まいったな、とジェットは舌打した。感情が昂っていて上から何かを羽織って外に出ることまで頭が回らなかったのである。 雪が降れば今よりもっと寒くなるのは確実だった。いくらサイボーグでも皮膚は人間より耐性があるだけの話で寒ければそれなりに寒い、と感じる。 このまま此処に居れば体が冷え切ってしまうのは分かっていたが、帰るのは余計に癪だった。 「ゼッタイ、謝らねぇ」 ジェットは呟くと、そのままベンチに座り続けた。 ジェットがベンチに腰掛けた丁度その時間。アルベルトは、部屋で一人くつろいでいた。 彼の同居人が腹を立てて部屋を飛び出してから既に3時間は経過している。アルベルトからすれば、ほんの言葉の行き違いだったような気もするが微妙なニュアンスを 捉えることが上手ではないジェットにとって神経を逆撫でするものだったらしい。勝手に怒り、怒鳴った挙句にドアに派手な音を響かせ外に行ってしまった。 「すぐに帰ってくるだろ」 そう思って大して気にも止めずに部屋で彼の帰宅を待つことにした。その内に時計は既に6時を回り、夜の足音が町並みを彩り始めていく。 夕飯の支度を始めてもジェットが帰ってくる様子は無い。当初、アルベルトものんびりと構えて料理をしながらテレビを見たりしていたが次第に苛々が募り始め、 それは程なくして心配に変わっていった。秒針が動くにつれ、落ち着きが心から失われていくのを感じる。 まさか、何かあったのか アルベルトは、何気なく視線を窓に向けて思わず固定した。 「−雪」 ドイツの町並みを白い結晶が音も無く降り注いでいくのが視界に映る。いつの間にか降り始めた雪は窓辺で分かる限りの屋根をすっかり白く覆っていた。そして、それはまだ 重く、灰色をした雲から絶えず注がれている。そんな美しくも冷たい情景をしばらく呆然と眺めていたが突如ハッとした。 「あいつ、何処をうろついてるんだ!」 未だ帰ってくる気配の無いもう一人の部屋の主の存在を思い出したアルベルトは、怒りにも似た台詞を自分以外誰も居ない空間に向って叫んだ。 そして急いで部屋から出て行く。外では既に暗い闇が広がりつつあった。 「やっぱ、降ってきた」 ジェットは空から質感も無く降り続ける雪を感慨深げに見ている。 ふわりと地面に積もるそれは明らかに広場の空気を冷やしていた。それでもベンチから彼は動こうとはしない。 今となってはもう喧嘩をしたこと等どうでもよくなっていた。ただ、勢いだけで此処まで来た以上中々帰りにくかったのである。 仮に帰ったして、ごめん、と言うのも今更気恥ずかしい。大体何に対して謝ればいいのかジェットは訳が分からなくなっていた。 そうこうしている間にも夜の広場は白い粉雪で染め上げられ、広場に設置されている灯りが点ってぼんやりと彼を照らし出す。 「何してるんだ?」 突如ジェットの耳に聞きなれた声が刺さったのは辺りがすっかり雪に覆われた頃だった。彼がおそるおそる声のした方を見ると、 不機嫌な表情でアルベルトがすぐ近くに立っていた。怒っている、そう感じたジェットは相手の視線を避けるように目を逸らす。 一方のアルベルトはベンチに座るジェットを真っ直ぐ捉えた。随分前からこの場に居たに違いない彼の服や髪は全て粉雪に覆われている。 それを見たアルベルトは白い絨毯と化した石造りの床をさくさくと音を立てながらジェットに近づき、彼の前に立つと頬に手を伸ばして触れた。 「冷たくなってるじゃないか。何でもっと早く帰って来なかったんだ」 心配するだろう、と言われてジェットは俯いていた顔を上げてアルベルトを見る。そこには雪より冷たい瞳が暖かな色を浮かべて彼を見返していた。 「・・・ごめん」 さっきまであんなに言えそうも無かった言葉が声になってするりと流れ出たことにジェットは自分で驚きを隠せない。アルベルトも一瞬だけ意外そうな顔を 見せたがすぐに口元に微笑を湛えて気にするな、と言う風に頭を振った。 「もう、いいから早く帰るぞ」 促されたジェットは漸く立ち上がる。その動きだけで膝や腕に積もっていた雪がさらりと落ちて大地の雪と交じり合った。それでもまだこびりついている 雪をアルベルトは丁寧に払ってやった。ジェットの格好はまるで砂糖に埋もれた少年のようで自然と可笑しさがこみ上げる。とはいえ、今笑い出せばジェットが また怒り出すのは目に見えていた。笑いたくなる衝動を必死に堪えながらもふと別の事を思いついたアルベルトは、先ほどとは違った意味の笑みを浮かべる。 その人の悪そうな笑みが気に障ったらしく口を歪めてなんだよ、と訊いてきたジェットにアルベルトは何でもない、と答えてから彼の肩を抱き寄せた。体温を持たない筈の体に ジェットのぬくもりを感じて安堵感が胸に広がっていく。 雪は益々降り積もっていく。この様子では明日の朝になるまで止む事はない。 それなら夜の間中、自分はこの砂糖まみれの少年を溶けるくらい温めてやろう、と思ったアルベルトはジェットと一緒に広場を後にした。 |
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