葦原惣様 『言えない事』



 ゆうべ、ジェット達と飲んだんだけど、いえないことってあるかって話が出たんだ。
 居間で寛いでいる最中に、ジョーが不意に話を振って来た。
「ジェットは、二桁も生きたら人間、言いたくないことの一つや二つあるのが普通だろって、言うんだけどね。ハインリヒは、何か言えないことってあるかい?」
 フランソワーズが置いていったコーヒーを啜りながら、少しばかり間を置いてハインリヒは答えた。
「…まぁ、それが普通ってのは、同感だな。言えないことってのは…またちょっと質が違う気もするが。」
「ふぅん。…で?ないの?」
 ハインリヒは思わず苦笑した。
「おいおい。俺の『言えない事』なんて詮索して、何になるんだ?」
 ジョーも、苦笑を返す。
「確かに、何にもならないね。ちょっとした、好奇心っていうのかな。」
 君って、僕らより大人だしさ。
 そう言ってジョーは席を外した。
 至って軽い調子の質問だったが、『言えない事』というフレーズが何故かハインリヒの中に居残って、カップの淵に唇を乗せたまま、つい物思いに埋没する。
 言いたくないこと。過去に傷を持つ者なら、誰だって山ほど持ち合わせている。故国でのこと。BGに囚われていた時のこと。
 改造。恐慌。自棄。絶望。
 様々な負の感情に翻弄された日々。
 しかしどれも、それは『言いたくない事』の範疇で、言えない事ではない。
「意外とないもんだな、『言えない事』、か…。」
 ふてぶてしく生き抜いてきた自分には、外に出せば壊れてしまうような繊細なものは何も残らなかったのではないか、と自嘲気味に思う。
 外に出すことで誰かを傷つけたり、自分自身に傷を負わせてしまうような、危うい何か。
 誰も居なくなっていた居間のドアが開いた。
「おや?あんた一人なのか?」
「ああ、フランソワーズは買い物だし、ジョーも今しがたここから出て行ったばかりだ。…夕べ、ジョー達とおしゃべりしてたって?」
「ゆうべ?…ああ、飲みながら話したっけかな。」
「お前の『言えない事』ってのは、何だったんだ?」
「さぁて、なんだと思う?」
 悪戯っぽい笑みを浮かべてジェットが言った。
「『言えない事』なんて殊勝な言葉が似合う柄でもないな。」
「ひでえ言われ様だな。」
「言いたくないことの一つや二つ、長く生きていれば有って当たり前なんだろ?」
「俺達なんて、それこそ山の様に後に降り積もってるんじゃないのか?」
 くすりと笑いながら続ける。
「自分に自信がない時、何か畏れているものがある時…虚勢張ってたって、そんな時はいえない言葉が山とあったさ。失くすんじゃないか。失敗するんじゃないか。死ぬんじゃないか。」
 ジェットと視線が合う。
「徒に恐れるぐらいなら、見極めて動く。見極める為の方法も、いい加減うんざりするほど経験して覚えてる。『言えない』ほど畏れなきゃいけない言葉なんか、今の俺たちにどれほどある?」
 ハインリヒが口元を歪めて笑い返す。
「『言えない』ほど畏れなきゃいけない言葉…か。確かにな。」
 見極めと割りきりのよさはメンバー一と言っていいジェットの言葉は、なるほど端的で明快だった。
「そんなに気になるんなら、『言いたいこと』を探して見れば?」
「言いたいこと?」
「どっちも意識してしていて、まだ言わないでいることってのには変りないだろ?あんた、ぐるぐる考え事するの好きだしな。」
「ひどい言われ様だな。」
 ジェットが一つ肩を竦めた。
「いやいや、感心してるだけだぜ?俺が自分の中にそれだけ関わり合おうなんてしたら、とっくに溺れ死んでる。」
「なるほど、空をかっ飛んでるお前らしい台詞だよ。」
「どうとでも言いな。」
 そう言ってジェットは席を立った。
「ああ、コーヒー入れようと思うんだけど、あんたは?」
「ん、上に戻るつもりなんだが、」
「O.K.。持ってってやるよ。」
 最初のうち、他のメンバーはこんな喧嘩腰にも聞こえる会話に驚いたらしい。馬鹿馬鹿しい話だが、こんな掛け合いじみた会話が成り立つのは、BGではジェットだけだった。まるでそれは人間の証明でもあるように感じられて、未だそれは変わらない。
 もともと、口が悪いもの同士。
 相手のそれが、自分のものと変わらない他意のないものだと解って以来、もっとも居心地のいい相手と言っても過言ではなかった。


  前触れもなく扉が開き、わざときちんと締めていなかったそれをジェットは開けた時と同じように肩で押して締めた。
「ほら。」
「ああ。…豆、挽いたのか?」
「二人分ぐらいが一番面倒がないからな。」
 思いのほか時間がかっかたことに対する質問だったのだが、ジェットはそう返して来た。
 確かに、自分の分だけの時はキチガイの様にインスタントを突っ込んだブラックを平気で飲むし、食後用にフランに頼まれて挽く時は量が量だけにかなり面倒くさそうだった。
「一人で飲まない時ぐらい、贅沢するさ。」
 ハンドルを自分に向けて差し出すジェットから、カップを受け取る。
「出かけてたのか?」
「ああ、バイクのオイルが少し粘り出してね。」
 替えてきた所だ、と言わんばかりに指を鼻先に突き出して寄越す。
 鼻筋に皺を寄せてハインリヒがその手を押し退けた。
「せっかく豆から入れたコーヒーを前に、何をするんだ、お前は。」
「豆には直に触ってないから安心しろよ。」
 あたりまえだ、と短くハインリヒが切って捨てた。「じゃ、満足行くまで自分の中ひっくり返してな。俺は他のパーツのメンテナンスしてくるから。」
「一人で飲まない時だけの贅沢じゃなかったのか?」
 ジェットの瞳が少しばかり見開かれて、軽く口の端を引き上げるとハインリヒの隣に座った。
 黙ったまま、肩が触れ合う位置にいることの自然。
 節目がちにカップに視線をやるジェットの瞳を縁取る睫毛が、瞳の色を微妙に隠して意外に長いことを改めて知る。完全に閉じている時と違って、見えるようで隠された瞳の色が、つい気になる。
「なに?」
 視線に気付いたのか、ジェットの視線がこちらを向いた。
 自然、手が頤に触れる。
 違う体温で違う香気に昇華したコーヒーの香りが交じり合う。
「…いいのか?真昼間だろ?」
「誰もいないんだろ?」
「…なるほどね。」
 それだけ挑発的に呟いて、ジェットは唇を返して寄越した。



 …言えない事、か。
 シーツの上に体温だけ残して行ってしまった背中を思い起こして、ハインリヒは一人密かに苦笑した。
 飽きるほどに夜を重ねあって、吐息に触れてきた。
 際どい会話をした事すらある筈なのに、今まで一言も言わずに来た言葉がある。
 …愛している。
 ずっと、傍にいてくれ。
 簡単な言葉だった。かつては、何度も口にした。
 本当に失くしてしまうこともある現実と、そしてなにより、”沿う”ことよりも自分の足で立つ事を望む彼生来の気性を思うと、言葉として思いつく以前に自分で抑え込んでいたのかも知れない。
 失くしたくないもの…ジェット・リンク。
 言うことで変わってしまうんじゃないか、変わる事で失くしてしまうんじゃないか…そんな無意識の畏れを抱いていた自分。
 言えない、言葉。
 言わずとも伝わっていると思う。
 同じ思いを持っていてくれているのでは、とも思う。
 だが、それが言葉にする事で、束縛に変わったら?
 彼の残していった体温をシーツから感じ取りながら、低く笑う。
 失くすことを、嫌われる事を畏れている。
 引き際など弁えず、束縛にかかる自分が眼に浮かぶ。
 「どうする?ジェット。お前さん、相当俺に入れ込まれちまってるぜ…?」
 馴れ合いでもなく、何かの身代わりでもなく。
 お前を。
「愛してる。」
 一人で口に乗せてみた言葉は、ひどく熱く舌を焼いた。





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