Give without irritating 『Give without irritating(2004年8月14日発行)』より
ジャケットを脱いだアルベルトの周りで静かな風が起こった。 ふわりと舞う風に混じった甘い香りがジェットの鼻腔を刺激する。 その香りを嗅いだだけで気分が悪くなり、ジェットは盛大に眉間に皺を寄せた。 知っている香水の銘柄といえば、フランソワーズが好んでつける数種類だけだ。それはフランソワーズ好みの香水ではなく、つまり、ジェットが名前を知らない香水ということになる。 実際、香水の銘柄などはどうでもよかった。 この香りの主がアルベルトと親密な関係に見えるような行為をしていたということが、ジェットにとっては問題なのである。 その甘い香りは、リゾート地として有名なタイのプーケット島のハイシーズンにはおよそ不向きであった。そう、あの女も別の意味でリゾート地には相応しくない女に見えた。 髪は綺麗に纏め上げ、ピンク色の大きな花の髪飾りが白い項と黒い髪とのコントラストを更に鮮やかにしていた。躯のラインを強調するドレスは鮮やかな彩りの花々が描かれていて、足元は赤い水玉のミュールで飾られていた。座っている姿しか見なかったけれど、華奢という印象もなかったが、太っているというわけでもなかった。豊かな胸の膨らみが女性であることを殊更強調しているようにジェットは感じた。 瞳の色は藍色に近い青色で、すんなりと通った鼻梁、やや分厚い唇の口角はきゅっと上を向いていて、それらが顔に収まると知性的な女性に見える。 通りを見渡せるカフェで、アルベルトと顔を寄せ合って、密談していますとの態度に、仕事だと理性では理解していても感情がついていかなかったのだ。 あの女性がいかにも尻軽な女という風体なら笑って済ませられたのかもしれないが、あの女性は決して若くはないだろうが、美しく知性的であった。アルベルトは知性的な女性に興味を覚える傾向にある。どんな形であったとしてもアルベルトが異性に対して好意を抱く場合は、ジェットが知り得る限り、知性的な美しさを持ち合わせている女性がその大半を占めている。 「そのジャケット、クリーニングに出せよ」 ジェットは窓辺に置かれている籐のカウチの上で寛ぎながら、アルベルトの背中に声を掛ける。 肩を竦めたアルベルトがジャケットをベッドの上に投げると、更にふわりと香水の匂いが部屋に微かに広がった。 ジェットは更に眉間の皺を深くする。 「なあ、香水臭いジャケット、オレのベッドの上に置かないでくれる」 アルベルトはいつになく突っかかるジェットに苦笑しながらも、一度投げたジャケットをクリーニングバッグに入れた。シャワーでも浴びて食事に出掛ける際にでもフロントにクリーニングを頼めば良いと考えたのだ。 気に障る匂いの元をシャットダウンしたのに、ジェットの不機嫌さは全く軽減されたようには見えない。 眉間の皺の深さは浅くなることはなかった。 籐のカウチに肘を着いて横になり、細い腰のラインを強調させた悩ましい姿はアルベルトの目に魅惑的に映る。ウエストがゴムで出来たカブリパンツと丈の短いタンクトップの狭間からちょうど腰のくびれが覗き、きつい言葉尻とは裏腹に、その姿だけを見ると誘っていると勘違いさせられそうである。 アルベルトはどうしたものかと肩を竦めて、ちらりとそんなジェットに視線を流した。 確かに、タイのプーケット島でのバカンスに誘ったのは自分の方である。仕事半分、バカンス半分になるが二週間程、一緒に過ごさないかとNYに帰る予定だったジェットを強引にこちらに呼び寄せたのだった。 ジェットは先だっての戦いに於いて生死に関わることはなかったが、かなりのダメージを受けていた。破損した部分の修復にはとにかく時間と根気が必要だったのだ。もちろん機械的な部分でデリケートな問題を含んでいた為、性的な行為も一切禁止されていた。 ジェットの快復祝いというのが表向きで、恋人同士の時間を取り戻すという下心がアルベルトにはあった。NYに帰って普通の生活に戻ってしまえば、簡単に会えなくなる。今までの例からして、一、二ヶ月に一度ぐらい、ジェットが飛行能力を駆使してベルリンにやって来てベッドの中で互いを確かめ合う為の時間を過ごすのが精一杯で、その程度しか逢瀬を重ねることは出来ない。 クリスマスやバカンスを調節して数日は一緒に過ごすこともあるが、毎年、それが可能かといえば決してそうではない。 二週間も二人っきりでのバカンスなど、下手をしたら最初で最後かもしれないのだ。 「仕事が一段落したから、明日の朝はゆっくりと出来そうだ。何か、上手いモンでも食いに行くか。そろそろホテルの食事にも飽きた頃だろう?」 アルベルトなりの心遣いだと分かってはいるのだ。 けれども、あの女性の姿が脳裏をちらついてジェットの精神状態は決して良いものではなかった。 「飽きたよ。あんたが、あの女と昼中から仕事と称して上手いモン食ってる間、オレは独りで寂しくハンバーガーだ」 何処までも突っかかる物言いは、仕事が一段落したアルベルトの機嫌の良さを研磨するかの如くに削いでいく。相手してやれないという負い目があるのだけれども、半分は仕事だということをジェットも了解していたはずだと思うと、アルベルトも多少は不機嫌になる。 「それも仕事だ」 そんな自分の感情を押し殺そうとすると、それ以外の言葉が思い浮かばない。 今現在、アルベルトは特殊な仕事を与えられる場合が少なくない。アルベルトの勤める会社は運送会社で、ありきたりな日用品や食料品はもちろんのこと、扱いに困る特殊な荷物の輸送も引き受けていた。そちらの特殊な荷物の運搬では知る人ぞ知る会社であったのだ。 ギルモア博士の古い知り合いが社長をしているという繋がりで、その会社に就職したのであるが、度胸の良さと腕っ節をかわれて、最近では特殊な仕事に就くことが多くなっていた。今回のプーケット滞在もそんな仕事の一つであった。 ある一定期間、とある人物から、とあるデータを受け取り、中身を確認してから暗号化し会社にそれを転送するというのが今回の仕事なのだ。彼女はデータを送付する側に雇われている、自分と同じ立場に居る人間である。例え相手が仲間で恋人のジェットといえども、仕事上の守秘義務が伴う為、仕事の内容を教えることは出来ない。彼女が仕事の関係者であるということを教えるのが精一杯であった。 そういう仕事の内容をジェットは理解していたはずなのだ。 「女とデレデレしてるのが仕事とはいい身分だな」 仕事としか言わないアルベルトにジェットは呆れると共に腹が立って仕方がなかった。最初にこの香りをまとわりつかせて帰って来た時は、そんな理由からセックスを拒否してしまった。仕事について自分にも話せないことがあるのは理解している。別に仕事上のことなら、女性と会っていたとしても腕を組んで歩いていたとしても、それは仕事なのだと強引に割り切ることぐらいは出来る。 これが日常という生活の中で起こった出来事だとしたら、ジェットもこんなには追い詰められてないだろう。 しかし、今回は最初の躓きを修復しようとはせずに、どう考えても自分に非があるようなことをしてしまっている以上、尚のこと二人の関係と自分の心を修復する方法が思いつかないのだ。 「ジェット」 アルベルトの口調が聊かきつくなる。 「確かに、誘っておきながら、仕事にかまけている俺も悪かったが……」 非を認めるアルベルトの態度が余計に気に入らない。どうせなら、もっと強引に自分だけを見ていろと抱いてくれれば良いのにとジェットはそんなことを思っている。ここに来てから、いや、前の戦いでジェットが破損をしてからアルベルトは妙に優しいし無理強いをしなくなった。 以前はかなり強引な傾向にあり、嫌だとごねるジェットを力にものをいわせてベッドに縫い止めたことなど数え切れないくらいあった。嫌だとごねていながらも、実はジェットはそんな強気なアルベルトが好ましいと思っているのだ。 ここに来てからの真綿で包むような愛され方に、ジェットは不満を覚えている。 だから、アルベルトが仕事で居ない間、あちこちをふらふらと遊び歩いていた。自分のような人種を好む知り合いも出来、良い意味でも悪い意味でも遊び相手にはことかかなかった。ジェットは自分の容姿が相手にどのような効果をもたらすのか熟知している。 それで食い繋いでいた時代もあるのだ。 自分に意味有り気な視線を送ってくる男に声をかければ、簡単に仲良くなれた。下心が見える相手ならなおのことジェットの我侭にも大抵は付き合ってくれる。そんな男達を数人侍らせて遊ぶのは楽しくないといえば嘘である。 けれども、ちやほやされるよりもアルベルトに強引に抱き締められていた方がジェットにはずっとよかった。 取り巻き達からちょっとお洒落なカフェでランチをしないかと誘われた。他にも変わった柄のTシャツや、アクセサリーを売っている店もあるから、午前中をそこで時間を潰して、ランチを取った後にエレファント・トレッキングに行こうと、彼等に連れられてあまり足を運んだことのないプーケットタウンにやって来たのだ。 偶然にもというか白人の好みそうな店などそう何百件もあるわけではなく、狭い島のこと、必然的に行き先は限定されていくので遭遇する確率も通常では考えられない程に上昇しているというわけだから、プーケットタウンにいたアルベルトとジェットがカフェの中と外といえども遭遇したのは然程特別なことではなかった。 アルベルトが仕事として会っていた女性は、心配したくなるくらいにはアルベルトの好みだったけれども、自分という恋人がいながら女性に気持ちを傾けるような男ではない。 でも、ジェット側の事情がいつもとは違ったのだ。 いかにも見目の整った、体格の良い男達を侍らせて女王様の如くに振舞っているジェットを見たアルベルトは仕方ないなという顔をしたのだ。嫉妬の彩りなど、全く見せずに笑ったのだ。 ジェットも浮気をしたいとか考えていたわけではない。 仕事だとしても女に会ってるんなら、自分だって遊んでやる、という安易な行き違いから生まれた行動だった。 男達に囲まれた自分を見たアルベルトが嫉妬を露わにして、余所見してんじゃねぇと、以前の様に強引に抱いて欲しかった。 その笑顔を見た瞬間、ジェットは言い様のない気持ちに支配され、原因の見当たらない怒りが静かに心を浸食していったのだ。 理不尽な喧嘩を売っている自覚はあるが、それを止める術をジェットは知らない。 「悪かった? へっ、誰もあんたが悪いなんて言ってないぜ。それとも何か、オレに対してすまなかったっていうようなことをしたのか」 その台詞の何処かがアルベルトの怒りに抵触してしまったようだった。今までの困惑した表情は消え失せ、ぎろりと鋭い視線でジェットを睨む。ジェットはその視線の切っ先が肌を傷つけていく感触に身を震わせた。 「仕事のついでに、サービスしたってんだったら、オレはオレで好きにさせてもらうぜ」 勝手に台詞が、思考とは別の領域で生産され口から垂れ流されていく。口の動きをオフにするスイッチが壊れてしまったようだ。 黙ってジェットの言葉を受け止めていたアルベルトだったが、ゆっくりとジェットの座っているカウチへと移動してきた。重量級の躯が移動する度、毛足の長いラグマットがまるで中途半端に刈り取った小麦畑の如くに、アルベルトが歩いた場所の毛だけが弾力を失って深く沈みこんでいく。 「なんだよ」 「言いたいことはそれだけか」 「まだ、色々とあるさ」 見下ろすアルベルトに対して、ジェットは下方からねめつけるように見上げた。二人の視線が宙でぶつかり合うが、最初に視線を逸らしたのはアルベルトの方だった。そしてそれ以上はなにも言わず、何もしようとはせず、ジェットに背中を向けると、ドレッシングエリアへと向かって歩き出す。 「おいっ」 向けられた背中に声を掛けたジェットに返って来たのは、ただ手を上げただけで何も答えないアルベルトの態度だけだった。 「おいっ、って呼んでるだろうっ?」 ジェットは余裕があるとのポーズを作って、カウチに横たえていた躯を起こした。足を床に着けてカウチから腰を浮かすが、アルベルトはその気配を感じているはずなのに振り返ることもしない。 その態度に、燻り続けていたジェットの説明のつかない感情が爆発してしまった。 「呼んでんだろうがっ? あの女のマンコ拝んだのかって聞いてんだ。答えろよ。それとも、オレはあんたの暇つぶしのベッドの相手で……、どうだっていいってことかよ」 口に出してしまえば、止まらない。何処かで愚図っている自分を滑稽だと思っていたもう一人の自分も何処かに消えてしまっていた。言葉を綴れば綴るほど、理性が沸騰して感情が激昂していく様が手に取るように分かっていたけれども、止められない。 「馬鹿馬鹿しいことをいうな」 「ああ、あんたにとっちゃ、馬鹿馬鹿しいことだって、オレには大切なことなんだよ。オレをあんた専用のケツマンコにしてぇんなら、それなりの代償を払えよ。どんなにランクの低い男娼だって、貸切にするにゃ、それだけの金がいるってもんだ」 しかし、ジェットの台詞には壁にぶつかっただけで戻っては来なかった。何も言わずに、ドレッサーエリアへと続くドアをアルベルトは閉めてしまったのだ。 怒りの矛先が消え、ジェットは高まった感情をぶつける的を探す。しかし、ここには何もなかった。 南国のリゾートを意識して造られたこのコテージの内観が、妙に白々しく感じられてならない。 恋人同士が仲良く過ごすバカンスだったら、とても素敵なシチュエーションであろうが、こんな状態の自分にはとてもそうは見えない。 ハンドクラフトによるチーク材の床も、椰子の葉を編んだ羽目板も白々しく瞳に映るだけである。 ここに居ること自体が場違いなのではと、いたたまれない気持ちになってしまう。 アルベルトがこのコテージを用意してくれていたのだ。 身の回りの荷物だけを持って飛行機に飛び乗り、アルベルトの元に来ただけなのだから、出て行かねばならないのは自分の方だ。 どうしてあんな言葉が口から出てしまったのか、ジェットにも自分が理解できなかった。 しかし、修復の段階から奇妙な感覚が僅かにあった。肉体的な問題ではなく精神的な問題だ。肉体は違和感がなく動くし、以前より多少ではあるが性能もアップした。反射速度は変わらないが、やや耐久性が増したと博士は説明してくれた。確かに、訓練では以前なら破損してしまう程の衝撃にも新しい躯は耐えてみせたのだ。 その結果にも、以前と変わらぬ外見にも満足していた。それとは反対に、拭えない何かが心にべっとりと張り付いていた。 何であるか未だにわからない。 しかし、その張り付いた違和感がジェットの心をささくれ立たせていたのだ。 本当は二人で、ゆっくりと互いの存在を確認することだけに熱中していたい。少なくとも仕事に行かなくても良い時間はそうしたいと願っているのに、それを以前のように素直に口に出せないでいる。 「頭、冷やしてくるわ」 ジェットは聞こえないことを理解した上で、ドアの向こうのアルベルトにそう語りかけると、何も持たずにサンダルすら履かずに、ベランダから夜の闇にすっかり染まった世界へと足を踏み出した。 下方から吹き上げる潮の香りを含んだ海風を躯に受けながら、ジェットは浜辺に向かって長い階段を下り始めた。 今回の仕事は受け取ったデータを暗号化し会社に転送するという仕事であった。 そのデータは一日に数度に分けられて届けられることもあったが、全く届かない日もある。ただデータを運んでくる配達人からアクセスがあるまで、指定された区域で時間を潰して待たなくてはならない。無駄に思える行為だが、それでも仕事として指示されているのだから従わなくてはならないのだ。 待つことは苦手ではない。 サイボーグ00ナンバーとして幾度も、密林のジャングルで、水中で、あるいは砂漠でひたすら訪れるチャンスを待ったこともある。そんな状況に比べればマシというものであろうが、リゾート気分で浮かれている人達の中で、不自然に見えぬよう振舞うのは聊か骨が折れる仕事でもある。 ジェットが一緒に居てくれれば、自然に振舞えたのであろうが、仕事の性質上、先方と接触する人間は少ないにこしたことはないのだから、仕方がない。 指定されたカフェに陣取ってから既に一時間が過ぎようとしていた。 アルベルトに接触してくる人間もアルベルトと同様に雇われた人間である。雇われた者同士余計な詮索をしないのが鉄則だが、待ち合わせてデータの受け取りだけをして去って行くことが不自然に映る場所での接触に於いては、オプションで食事をしたり、お茶を飲んで談笑することもなくはない。 カフェで待ち合わせをしている男女が例え恋人同士でなくとも話しもせずに別れるのは不自然極まりない行動で、あたりさわりのない会話をしなくてはならない労力にアルベルトはゲンナリもしている。 相手もそうであろうが、雇い主の意向には逆らえないというところなのである。 「遅くなったわね」 アルベルトの目の前に待ち人が現れる。 光を青く反射させる藍に近い瞳に、黒い髪、南方アジアの血が流れていることを彷彿とさせる彫りの深い顔立ち、女性らしさを損なわぬ程度に躯を覆う筋肉、マニキュアで飾られているものの短く切り揃えられた爪、それは少なくとも彼女が軍事訓練を受けた経験があり、拳銃を扱うことが日常だという立場にいることを示唆しているに他ならない。 「いや」 そっけない返答を押しのけるように、目敏いウェイターが早速オーダーを取りに現れる。女性はにこやかにナーム・マナオというレモンジュースを注文し、お釣りはいらないわと一〇バーツ札をウェイターに渡した。ナーム・マナオは緑色のレモンを絞ったジュースで、口当たりがさっぱりとしているのが特徴でプーケット島では人気がある。 氷を沢山入れた大振りのグラスにたっぷりと注がれたナーム・マナオのグラスを、つり銭という名前のチップが効いたのかすぐに持ってきたウェイターが立ち去るのを確認してから、彼女はようやく口を開いた。 「ごめんなさいね。出掛けにちょっとしたトラブルがあって……」 彼女はそういうとナーム・マナオをストローではなく直接グラスに口をつけてごくりと半分程一気に飲み干した。口の端についた滴を人差し指の腹で軽く拭うとそれをべろりと舌で舐める。 自分の唾液のついた指をどうしたようかと考えるように指の腹を見詰めてから、バックに手を入れてハンカチを取り出すと指先を拭った。そのハンカチを仕舞うついでにOAをテーブルの上に置いて、アルベルトの手前まで滑らせた。 アルベルトは黙ってそれを受け取るとテーブルに置いてあったノート型パソコンに挿入し、キィボードを叩いて幾つかの操作を行なう。彼女はそれを視界の端に入れながら通りを歩く人達をぼんやりと見ている振りをしていた。 このカフェの南側は大きなストリートに、西側は細い路地に面している。南側に面した出入り口は大きいが、西側の細い路地に面した扉は出口専用で一人が通るのがやっとであった。アルベルトが座っていた席はこの出口専用の扉の傍で、このテーブルは店内と通りを見渡せる場所にある。特異な仕事をしている身としてはありがたい場所をセレクトしてくれたものだと、女性はアルベルトにちらりと視線を送る。 無愛想で面白味のない男というのが第一印象であったが、付き合ってみると以外とインテリで文学や芝居にも通じていて、外見はゲルマン民族そのものという容姿をしているにも拘らず、流暢なフランス語を話す。更にはバレエにも通じているらしく、面白くもない、然程危険でもない退屈な仕事に派遣されるには趣味の広い男だと、今では良い意味で評価が変わった。 しかし、奇妙なことが一つだけある。 武器を携帯しているようには見えないのだ。 少なくとも、危険度の低い仕事ではあるのだが、自分達のように決して表立ってこんな仕事をしていますとはいえない類の人間にとって、自分を守る為の武器の携帯は常識的なことである。 彼女もワンピースのスカートの下に、護身用のデリンジャーを隠している。 身のこなしも決して普通の男ではなく、非常事態慣れした動きが見受けられるのに、自分自身の危険に関しては何処となく頓着しないアンバランスさに彼女は興味を覚えていた。 「終った」 アルベルトはOAをノートパソコンから取り出すと彼女に返す為机の上を滑らせた。彼女はそれを受け取ろうと腕を伸ばす。OAに指が触れようとした瞬間、殺気が彼女を貫いた。その視線を探すとその先には男達に囲まれた年若い青年というよりもまだ少年と呼んだ方が良いのではと思わせる赤味のかかった金髪を持つ男がいた。 誰であったかと過去に自分の関わった人物のリストを頭の中で括ろうとした瞬間、隣で息を飲む音が聞こえた。 「……」 その視線の主はジェットであったのだ。 神のもたらした悪戯ともいうべき偶然にアルベルトは歯噛みしたくなる。自分が手渡そうとしたOAを彼女が受け取ろうとして、腕を伸ばした。通りから見れば自分達がテーブルの上で手を重ね合わせているように見えなくもない。 しまったと思うが、慌てて手を引っ込めてはジェットに対して後ろめたいことだと認めてしまうことになるのでないかと、殊更ゆっくりとした動作でOAから手を離して、ノートパソコンを片付けながら視界の端でジェットを捕らえる。 赤味のかかった金髪は太陽の光りを受けてキラキラと輝いている。 ほっそりとした白い手足を惜しげもなく曝け出して、素足にはサンダルを履いていた。男にしては薄い肩も剥き出しになっている。それだけで自分は、ジェットの姿を他人に見せたくないと思うのに、ジェットは体格の良い数人の男達にかしずかれるようにして立っていた。 ただでさえ細いジェットが華奢に見えてしまう。 しかも、着ているシャツに見た覚えがなかった。今朝まで、ジェットの荷物の中に入っていたものではなく、つまり今朝から今までの間に何処かで購入したものだということになる。ということは、彼等と一緒にそれを買った、あるいは彼等の誰かに買ってもらったということだろう。 きっと彼女が居なかったら、カフェを飛び出していって、ジェットを問い詰めていた。 しかし仕事という枷があるからそれは出来ない。仕事中であったことにアルベルトは反対に感謝したくなった。少なくとも、とっちらかった嫉妬にまみれた醜い男の姿を晒さなくて済んだというのはありがたいことだ。 ジェットもこちらを見ている。 ジェットはアルベルトの隣にいる女性を、アルベルトはジェットを囲んでいる男達を見ていた為、二人の視線は重ならなかった。 立ち止まっているジェットに、黒い髪の男が耳元で囁いた。くすぐったそうに肩を竦め笑うジェットをさりげない仕草で促して、彼等は通りを東に向かって歩いていった。 しっかりと握り込んでいた右手は汗をかかないはずなのに、じんわりと汗をかいたような感触がある。 怒りと嫉妬で血管が破裂してしまう程に、血液が沸騰している。 自分が仕事で奮闘している間、ジェットは男達と遊んでいたというのだろうか。夜もこちらでできた友達と出掛ける時間が日を追うごとに増えていった。 しかし、仕事でジェットを一人にしてしまっている以上、ジェットにもこのプーケット島でのバカンスの間だけだとしても友人が必要だと思っていたから、行かせたくはなかったけれども、大人の顔をしてジェットを送り出していた。従って、一緒に過ごす時間も日に日に減っていったというわけだ。 それに、今のアルベルトには行くなとは言えない心情的なものがある。 今までの自分はジェットを束縛してしまう傾向にあり、窮屈だと思えるほどの要望をジェットに突きつけていた。しかも自覚できているのだから、ある意味性質が悪いのかもしれない。 しかし、ジェットはその要望も受け入れてくれていたから、満足といわなくとも自分の気持ちを多少なりとも理解してくれているものだと思っていた。 けれども、先の戦いでジェットは右手を肘から、右足を大腿部から失った。速やかにドルフィン号に回収され、博士により応急処置を施されたから命に別状はなかったのだが、修復するのに時間を要したのはいうまでもなく、その間ジェットは不便な生活を余儀なくされた。 新しい手と足が出来上がるのを不自由な躯で待っていたそんなある日、ジェットはぽつりと漏らした。 『オレの躯がこのまま、だったらさ。あんたはオレを簡単に縛り付けることが出来るぜ。あんたが望むみたいに……』 その一言を聞いた瞬間、自分の過ぎる想いがジェットには負担であったのだとそう感じられ、それ以来、無理強いが出来なくなった。こうして欲しいとジェットに告げられなくなってしまったのだ。 少なくともジェットは自分との関係を解消したいと思っているわけではないが、束縛しすぎることに聊かの不満を持っていたのだとしたら、今後、このような状態が続けばジェットの心も変わっていくのではないか。 戦いの中でジェットを失うのだとしたら、覚悟は出来ている。けれど、互いに生きていながらも、恋人という関係を解消されてしまえば立ち直れないだろうアルベルトがいる。 他の男達と戯れているジェットを見ただけで、腸が煮えくり返るような嫉妬心に苛まれる。それでも、笑顔を取り繕わなくてはならない自分が哀れだし、愛するが故に自分だけのものにしたいと願う執着は凡そジェットの意思を尊重したいという気持と相反するものである。 ジェットの過去すらも受け入れて、それでも愛したいと願ったあの気持ちとは全く違う何かが自分の中で育まれていたのだ。 この地にジェットを呼んだのは男一人のバカンスも不自然だろうと、もし仕事に対して理解のある友人や恋人ならば連れていっても構わないとのお達しが出たからである。そうなればアルベルトはジェット以外の誰もを呼ぶつもりもなかった。 ゆっくりと二人で過ごして、今後の自分達のことについて考え、語り合いたかったのだ。 しかし、そんな時間も取れないまま仕事は終わりを迎えようとしていた。 「どうかしたの?」 彼女はアルベルトにそう声を掛けてくる。 おそらく彼女が不自然だと思う行動を自分はしていたのだ。いいやと照れ隠しのように無愛想に答えると、彼女はアルベルトの不審な行動の原因は分かっているのよという類の笑顔を零しながらも、それ以上の追求してはこない。 「三日後ぐらいに次のデータを渡せると思う。多分、それが最後になるはずよ」 氷が融け随分と薄まってしまったナーム・マナオを彼女は飲み干すと、席を立った。 メールするからと一言残して、小さく手を振ると彼女は陽光が照らす通りへと出て行った。彼女が出て行った反動で扉についていたベルがちりんちりんと涼しげな音を響かせる。 まるで、その音色に合わせるかのように、色鮮やかなドレスの裾がゆったりと揺れ、ベルの音が聞こえなくなる頃に、彼女は人込みの中に消えた。 アルベルトは口に湧いた苦い思いを気が抜けて生温かくなったビールで流し込むと、ノートパソコンを黒いビジネスケースに仕舞い自分も立ち上がった。 何処かゆっくりと考えられる場所で気持ちを落ち着けてから、今夜、ゆっくりとジェットと話し合わなくてはならないだろう。 この今までに遭遇したことのない事態は互いにそうしようと思ったことではなくて、偶然によって生み出された状況であるから、自分の考えていることをきちんとした形でジェットに伝えなければいけない気がしたのだ。 しかし、自分のジェットに対する気持ちをどんな言葉で伝えたらよいのか、アルベルトには検討もつかず、深い溜息が零れるばかりであった 「そいつは……、ジェットあんまりだぜ」 分厚い肩をわざとらしく下げて、ついでに口角もへの字に曲げた男の姿をジェットが笑い飛ばすと、周りに居る数人の男達も一緒なって口を大きく開けて笑った。笑われた男がいいんだと拗ねた風体で背を向けると、ジェットはわざとらしくその頭を撫でる。 ごわごわとした髪の感触は恋人の髪と何処か似通っていた。 数ヶ月前、戦いで破損した。 長いリハビリや微調整の後、NYに戻ろうとした矢先、恋人から仕事半分だが良かったら一緒にタイのプーケット島で二週間ばかりのバカンスを楽しまないかとの誘いが来た。NYに帰国する為の準備を始めていたジェットはまとめかけていた荷物を鞄に放り込んで、プーケット島に最も早く到着できる便で恋人の元へと急いだのは十日程前のことだったはずだ。 胸をときめかせて、空港に迎えに来た恋人と二人っきりで過ごすコテージへと向かった。戦いの為に色々な国や地域に行ったけれども、プラベートでこのようなリゾート地を訪れるのは初めてのことだった。 帰国すればNYはハロウィン一色に染まっているだろう季節であるのに、この島はちょうどハイシーズンの真っ最中だ。 青い海と空、白い海岸線に、豊かな緑。 アルベルトが運転するレンタカーの窓からは涼やかな海風が吹き込んできて、これから始まるバカンスをジェットは偽りなく楽しみにしていた。 しかし、甘い恋人の時間は長くは続かなかった。 ジェットが到着した翌朝にはアルベルトは仕事だと出掛けてしまったのだ。それから、ジェットと二人で様々なスポットに出掛けていたとしても、連絡が入ると仕事だからとすぐ姿を消してしまう。 かと思えば、深夜に部屋を抜け出すこともあった。 思う程にアルベルトと過ごすことが出来ずに、ジェットの欲求不満は溜まる一方だった。仕事絡みだということは誘われた時点で分かっていたし、このような状況は想像してはいなかったけれども、半日ぐらいは仕事にとられてしまうんだろうという覚悟はしていた。 けれども、日に日に一緒に居る時間が短くなっていく。 ジェットも鬱々と独り部屋に過ごすことに嫌気がさして、夜の街に出てみた。 ハイシーズンはナイト・スポットも充実していて、あちこちの屋台やバーを覗いては独りで愉しんでいた所に彼等が声を掛けて来たのだ。 彼等は古くからの友人同士で別荘をレンタルしているとのことだった。 国籍はバラバラでもちろんアメリカ人もいたし、イギリス人にフランス人、様々な国籍や人種の集まりだった。年齢こそは三〇前後だと思われる人達であったが、その多種多様な集団にジェットは何処か自分達00ナンバーを重ねていた。話題の豊富さや紳士的な態度に親しみを覚え、独りきりであったジェットは彼等とすぐに親密になっていった。 彼等の別荘にも招待されたし、遊び友達として様々なところへ出掛けていった。 もちろん、彼等が男性が好きな人達の集まりだということは薄々気付いていたし、男性だけではなく年若い青年が彼等の恋愛の対象であることはジェットには理解できていた。そして、誰が最初に自分を落とすかと賭けをしていることぐらいお見通しだったけれども、気付いていない無邪気な一八歳の男の子を演じてみせている。 その方がトラブルにならないと考えたからだ。 「でも、次の店はバッチリなんだろう?」 そうジェットが拗ねている男に声を掛けると男はもちろんと胸を張る。じゃぁ、エスコートしてくれよと、その鍛え上げられた太い腕に自分の腕を絡ませ、背後にいる他の男達を振り返ろうと視線をぐるりと後方に流した。 その途中で視線が止まる。 其処には通りに面したテーブルに座っているアルベルトと同じ年頃の美しい女性がいた。しかも女性の手はアルベルトの手に添えられる形で差し出されていて、少なくとも、ジェットの位置からはそう見えたのだ。 顔が歪みそうになる。 走り寄って行って、嫌味の一つでもプレゼントしたい気持ちに駆られるが、どうしたんだと腕を取られた男がジェットの顔を覗き込んで来た瞬間、沸騰しかけた気持ちに歯止めがかかった。 自分だって、どっちもどっちだ。 あちらは仕事だが、こちらは遊びだ。 自分に気がある男達を侍らせている状態で、確かに嫌味の一つもないだろう。 そもそも分かっていてわざわざ彼等の罠にかかった小動物の振りをしてまでも、アルベルトの気を引こうとしたのは自分ではないのか。 怪我をして以来、アルベルトの接し方が変わった。 以前はかなり強引なところもあったし、ジェットがセックスに対して躊躇したとしても構わないとばかりに求めてきた彼はなりを潜めて、ただジェットの意思を尊重しようとする。ともすれば自分を取り巻いている男達のように自分を扱うアルベルトは、仕事だからと自分を独りにしておく彼以上に腹立たしいものだった。 本当に嫌だと思っているわけではない。 アルベルトに少し強引に組み敷かれて、動けなるくらいに抱擁されるのがジェットは好きなのだ。プーケット島で再会して、破損後、初めてセックスをしたけれども、物足らないと思えるくらいアルベルトの手は優しすぎた。 我侭だとは分かっているけれども、アルベルトの目を自分に引き付けておきたい。時折ストーカーの如くにまめに連絡を寄越すアルベルトに対して、五月蝿いと強気なことを言いながらも、素肌にこびり付いて落ちない浜辺の砂のようにアルベルトにまとわりついてもらいたいのだ。 自分にこんなに濃厚な愛情を注いでくれる相手などいなかった。 躯だけの関係であったり、相手が特殊な状況にいるジェットに恋していることに酔っていたり、深くここまで相手に働きかけようとすることなど皆無だった。相手が別の誰かと浮気をしたとしても嫉妬の気持ちも湧かない。ダメなら、次に乗り換える程度のモノでしかなかった。 アルベルトはそんな連中とは違う。 「さあ、行こうぜ。ジェット」 腕を絡ませた相手ではない男がジェットの背中を軽く押す。ジェットは後ろ髪を引かれながらも、逆らうことはしなかった。してもどうしようもないからだ。アルベルトとのことを彼等は知らない、いや伝えるつもりもない。 ジェットは自分の宿泊先を教えてはいなかったのだ。 その辺りのあざとさは伊達に経験しているわけではない。もっと早くこの事態をアルベルトに知られても構わなかったのだが、アルベルトの仕事に影響を及ぼすことは嫌だったのだ。仕事絡みの滞在でなかったのならジェットはとっくに彼等に宿泊先を教えて、アルベルトの出方を窺っていたであろう。 自分のこの状態の一端でもアルベルトに知られたことに安堵していた。少なくともアルベルトからのアクションが何らかの形であるはずだからだ。どんなものかは分からないけれども、少なくとも今の紳士的なアルベルトとは違うアルベルトが自分の前に現れるだろうことは予測できる。 最後に一度カフェを振り返ると、立ち上がった女に対して軽く右手を上げて見送るアルベルトの姿が辛うじて目視できた。 女性を見送るのに気安い仕草でアルベルトが右手を上げたことに、ジェットの心は強い不安で揺さぶられたのだった。 あの後、何をしていても心が晴れることはなかった。 期待していたエレファント・トレッキングも思う程、楽しめなかった。 ジェットがアルベルトと宿泊しているホテルはコテージタイプのホテルである。プライベートビーチを眼前に抱え込み、長期滞在向きで他人に煩わされない点では、二人にもってこいのホテルだ。 ホテルのロビーで時間を潰していた時に、何気なく手に取ったパンフレットに掲載されていたのがエレファント・トレッキングであった。他にも、いくつかのデイトリップが紹介されていて、どれも都会暮らしでリゾートなど楽しんだことのないジェットには魅力的なものばかりであった。 アルベルトを誘ったのだが、仕事との兼ね合いでなかなか予約をすることが出来ずに、二人で一度も出掛けることはなかった。 こちらで出来た友人達を誘って、いくつかのデイトリップにも出掛けた。確かに、純粋に楽しめたし、新しい発見や出会いに心を躍らせた自分がいた。けれども、今日はアルベルトの影を吹っ切って楽しむことが出来なかったのだ。 ジェットは飛行タイプのサイボーグなのだから、上空から見下ろすことはあっても、見ているそのものに手が届く距離に近付くことは稀だ。少しだけ高い位置にいて、地上に立っている人達に手が届く距離に居ると、優雅な王侯貴族にでもなった気分になれると思ったし、象という動物に触れられるのも楽しみにしていた。 なのに、象の背中で揺られていても楽しくはなかった。 彼等が自分を楽しませてくれようと必死だったのはわかっていたけれども、いつもの無邪気な自分を装うことは難しかった。 付き合ってくれている彼等が、自分に対して下心があるからこそ遊び相手になってくれていることも理解している。彼等が誰が最初に自分を落とすかと賭けの対象にしていることも知っているが、自分も遊び相手をさせているのだから、彼等の行為を責められない。 もちろん、彼等の誰かとベッドを共にするつもりは毛頭ない。 強引に関係を求められたとしても、その相手が自分より体格の良い人間だとしても所詮は生身の人間だ。束になっても戦うことを叩き込まれたジェットの相手ではないだろう。でも、利用しているという点で全く心が痛まないわけではない。 彼等と一緒にいる場面を見られただけでなく、仕事の相手が妙齢な女性でアルベルトと二人で座っていると似合いの二人に見える状況に苦いものが込み上げてくる。 愛しているし、アルベルトも愛していてくれると、それは確信であり、ジェットにとっても事実であった。 でなければ、のこのことこんな場所に来たりはしないし、またアルベルトも誘ったりはしないだろう。 一緒に過ごせる時間がないからといっても、自分のやってることは褒められたことではない。 そんな罪悪感と、彼女の香水の残り香を漂わせたアルベルトを見たことにより、それ以外の理由全てが心の化学反応を起こし、爆発してしまったのだ。 どうとも表現しようがない。 ただ、感情が収まらなかったに過ぎない。 嫌いになったわけではない。いや、多分、好きだからこそ、自分を求めて欲しいと願う反面、自分で良いのかというずっと心の奥底に持ち続けていた疑問が鎌首を持ち上げたのだろう。その原因はアルベルトと一緒にいたあの女性の存在だった。 アルベルトはもてるし、アパートに遊びに行った時も食事や買い物に出掛けた折には女性から声を掛けられることはある。でも、所詮は戦いや生臭い日常を知らない女性にアルベルトを受け止められる度量はないとたかを括っていたが、あの女性は少なくとも違う。 自分達と同じ火薬と血の匂いがした。 命のやりとりをすることに慣れた人間特有の、嗅覚では感知できない類の臭いを持っている。 そんな女性だとしたら、アルベルトを理解することは出来なかったとしても、一時の慰めの相手なら務まるかもしれないとそう思ったのだ。 アルベルトがそんな男ではないことは自分がよく知っているはずなのに、信じられないわけではなく、自分の存在に自信がもてないからこその疑心でしかない。 心にもないことを言ってしまった。 部屋を飛び出した後、行く宛てもなくビーチをそぞろ歩いた。 ただ、波打ち際にそって歩き続けた。 やがて海岸線は入り組んだものとなっていく。 小さな入り江を見付ける。 ホテルの明かりも海岸沿いの道路を走る車の音も届かない静かな入り江だった。 ジェットはその入り江に誘われるように入っていき、砂で汚れた足を海水に浸した。ひんやりとした水の感触が足を包む。 ジェットの皮膚は僅かな刺激すらも敏感に知覚できるように造られている。それは飛行する為に必要な能力で、皮膚の触感によって気圧や温度の変化を感じ取っているのである。従って、通常の人間よりも寒暖の差に対して敏感であるけれど、サイボーグだから人間とは反応が違う。 寒いと脳では判断していたとしても、体内の温度調節機能により、洋服を着なくても耐えられるのだ。それは奇妙な感覚で、おそらくは00ナンバーの中でもジェットはその感覚が特に顕著なのである。 本当に静かだ。 この島に自分以外の誰もいない感覚に囚われそうになる。 「馬鹿だな」 そう独りで呟き、足を動かすと波紋がゆっくりと広がっていく。入り江を囲むように生えている木々がかさかさと海風に揺さぶられ音を立てる。 都会にはない風景だ。 アルベルトが誘ってくれなかったら、自分では見に行くこともない場所だ。 何よりも、誰よりも自分に最初に声を掛けてくれたことは嬉しい。 一緒に過ごした数日間は幸せだった。 強引さがないアルベルトに引っ掛かりはなくはなかったけれども、純粋に一緒に過ごせた時間が嬉しかった。 破損部分の修理をしたとしても、アルベルトと触れ合う感覚に何ら相違のないことを確かめられた貴重な時間でもあった。破損やメンテナンスの後のセックスはいつも緊張してしまう。もし、今までとアルベルトを感じられる自分の躯が違ってしまっていたらどうしようかと、アルベルトが触れていつもの自分と違うと思われたらどうしようと不安になる。 特に今回のような大掛かりな修復の後は、そんな不安が大きくなる。 強引に抱かないのはそんな自分に対するアルベルトの優しさだと思いたいけれども、感情が理性と迎合するのをよしとはせずに騒動を起こしては心の中をかき乱すのだ。自分の心であり、改造を受けていない部分のはずなのにままならないことに、ジェットは困惑を隠せなかった。 ごろりと横になり、夜空を見上げると半分くらい欠けた月が綺麗な濃い青色の空に浮かんでいる。 ジェットはNYの月とは違うのだなと、そんなことをぼんやりと考えながら白い砂浜にその身を横たえたまま、飽くことなく夜空を見詰めていた。 冷たいシャワーで頭を冷やして部屋に戻ってみれば、想像していた通りにジェットの姿は消えていた。財布も、ここに来た初日にホテル内の店で購入したビーチサンダルもそのままになっているから、遠くには行っていないだろう。 サイボーグなのだから襲われて怪我をするということは心配していなかったが、昼間、数人の男達に傅かれた姿の方がアルベルトには気になって仕方がなかった。 何処のどういう連中かは知らないが、ジェットが言っていたこの島で知り合いになった友達という連中だろう。ジェットが彼等のことをどう思っているかまでは知らないが、彼等がジェットを性的な対象として見ているのは聞かなくても、自分も同じ目でジェットを見ているから、よく分かることだった。 ジェットが彼等と肉体的な関係を持っていないのは明白で、確認する必要もないが、心が騒いで仕方がない。 自分と一緒に居て、楽しそうに笑っていたジェットを見たのは最初の二日だけだった。 仕事で一日の半分以上はジェットと別行動をしている自分に、最初の五日間はあそこに行った、何処で知り合いになった人がいた、知り合いになった人達と何処で食事をしたと、顔を会わせる度に楽しそうに話してくれていたが、やがて何も語らなくなった。 自分は決して話題が豊富なわけでも、口が上手いわけでもない。 ジェットが楽しそうに話すのを聞くのは嫌いではないのだが、自分の知らない人達の話をされると聊か面白くなかった。ジェットは自分の感情に聡く、どうしてか悟られてしまう。アルベルトの外見からはあまり想像できないほどに激しい感情の起伏を、ジェットは理解してくれていた。 仏頂面な自分に対して、大抵の人は何を考えているのか分からないと言う。楽しいのか楽しくないのか、怒っているのかそうでないのかすらも見当がつかないことがしばしばあると、会社の同僚達にはそう言われることも少なくない。 そんな自分を自覚しているからこそ、ジェットに簡単に笑顔をもたらした彼等に嫉妬していたのだ。ジェットの口から彼等の話を聞くのが面白くはなかった。 けれども、もっと話しを聞けばよかったと思う。 そうしたらジェットの行き先がわかったかもしれない。 ジェットのここに来てからの知り合いが、何処に滞在しているのかすら知らない。もし、ジェットが彼等の滞在しているホテルや別荘に行っていたとしたら一晩で、しかも一人で突き止めるのは骨が折れるだろう。 取り敢えずジェットが歩いていったと思われるプライベートビーチに続く階段を下りる。 そのまま真っ直ぐ行けばビーチへと辿り着き、右はホテルのロビーに続いている。ジェットが裸足だったことは、そのまま置いてあったビーチサンダルと、履いてきたスニーカーが部屋に残されていることからも察しがつく。だとしたら、ジェットの性格からしたらビーチに行ったような気がアルベルトにはしていた。数十秒迷っていたが、アルベルトはそのままビーチへと下りていく。 ホテルのプライベートビーチでは数人の滞在客が夜の海を楽しんでいた。 その中にホテルのロビーで何度か擦れ違った老夫婦がいたのをアルベルトは見つけた。さり気なく寄っていって、赤みのかかった金髪の年の若い青年を見なかったかと尋ねると、夫人があちらに歩いて行ったと柔らかな微笑みを浮かべながら教えてくれた。うちの人も昔は似た髪の色をしていたから気になって覚えていたのよと、そう添えた。 アルベルトは礼儀正しく老夫婦に礼を述べると、夫人が教えてくれた方角に向かって歩き始める。 既に陽は落ちて、まわりは濃い青色の闇に支配されている。 ホテルから少し離れれば、光源は月のみとなってしまう。 しかし、サイボーグであるアルベルトにしてみれば、然程不便を感じる暗さではない。フランソワーズのように暗闇でも視えるわけではないが、普通の人間よりは夜目がきく、この程度の暗さなら昼間のようにとは行かないまでも、研ぎ澄まされた戦いの感覚によりある程度の状況判断は可能な領域だ。 何もないビーチをひたすら歩き続ける。 右手に海、左手には生い茂った木々、時折ちらりちらりと木々の狭間から車のヘッドライトの灯りが見え隠れする。 ジェットが身を隠せるような場所はない。 ひょっとして、何処かに飛んでいってしまったのだろうかと考え始めた時、視線の先に人の足跡を見つけた。 裸足で砂浜を歩いた跡だ。 海から上がって来たように見える足跡だったが、アルベルトにはこれがジェットの足跡だとそう思えた。何故なら、土踏まずの辺りに僅かに丸い跡が見える。ジェットの噴射孔によってつけられた跡に違いなかった。 おそらく波打ち際を歩いたジェットは何を思ったのか、砂浜を横断しようとしたのだ。足跡を消さないように用心深くアルベルトはその行方を追った。 そこにはごつごつとした岩場があり、それらの間を抜けると、小さな入り江があった。 ホテルのプール程の大きさしかない入り江だ。 海岸線に伸びる道路から聞こえる車のエンジン音も、ホテルから聞こえる人々の声もここには届かない。 岩場が遮断しているのか、静かな波の音すら聞こえてこない。 白い砂浜の上に赤味を帯びた金髪が広がっていた。 ジェットは其処にいたのだ。 天を仰いで、何処かぼんやりとした表情をしている。無造作に投げ出された長い手足は白い砂浜と同化していて何処からがジェットの躯なのか判別が難しい。まるで手足を失った状態にすら見える。 そんな姿を見て、先だっての戦いで右手と右足を破損したジェットの姿を思い出してしまっていた。 ジェットの手足は飛行する為のバランサーの役目も担っている。右手を破損したから右手だけを新しくすれば良いというものではないのだ。ミリグラム以下の単位での精密さを必要としているのだ。だからこそ、ジェットの修復には時間がかかったのだ。残っている右手と左足とのバランスを考慮しなくてはならないため、微調節が何百回と必要だった。 破損した手足を外し、不自由だと笑っていたジェットの姿を思い出した。 珍しく手を貸すという自分の申し出を素直に受け入れて、身を任せて来た。そして、このままならば自分を縛りつけることも可能だ。望むのなら自分はこのままの姿でも構わないとそう言ったジェットが思い出される。 あの一言は、アルベルトには堪えた。 本意が何処にあるのかすらジェットに問うことが出来なかった。 もし、アレが自分がジェットを過剰なまでに独占しようとしている行動の全てを否定しているものだとしたら……と、正直聞けなくなってしまっていた。 ジェットが欲しい。 全てを把握は出来ないが、知り得ることは全て知りたい。 会えない時間をどう過ごしているのか、NYでどんな生活をしているのか。部屋に帰って来てどんなタイミングで鍵を開けて、どうやって鍵を部屋の何処に置くのか。仕事から帰ってきて、一番に何をするのか。そんなことが知りたかった。 一緒に過ごすジェットのことは知っていても、一人で過ごすジェットの姿を知らない。 知り得るはずもないが、そんな独占欲で心が支配されている。 過ぎた欲望だと自分でも自覚しているけれども、それでもジェットを己の腕で囲ってしまいたい。 だから、押し付けがましいことを我慢すればジェットは自分に対してあの台詞とは別の言葉を綴るか、あの台詞の意味を教えてくれるのではないかと、アルベルトは確定的ではない独りよがりの行動に出てみたのだ。 けれども、かえってジェットが遠くなったように思えてならなかった。 ここにいられるのも、そう長くはないだろう。 今回の仕事の報酬として一、二日程度滞在を延長することは可能だろうが、それ以上はやはり無理だ。それが現実社会というものである。自分達はサイボーグで、例え現代の科学水準をもって考えれば非常識な存在であったとしても、社会の枠組みの中で生きている。 それを無視しては生きてはいけないのだ。 それは人間として存在する為に必要な因子の一つでもある。一人の社会人として仕事をし、その報酬をもって生活をするという当り前のことをしていないと、社会から取り残されてしまったという絶望に近い感覚が心を浸食しようとするからだ。 だから、恋もしたいと思うし、恋人と喧嘩をしたいとも思う。抱き合い、キスを交わして、社会の有り方に憤り、上手くいかない仕事に愚痴をこぼす。普通の人であるのなら誰もが経験をすることをしていたい。 アルベルトは自分の存在に気付かないのか、気付いていて知らぬ顔をしているのか、どちらとも判断できない様子のジェットを視界にしっかりと納めると、足音をたてないようその傍らを目指して歩いていった。 横たわる愛しい人の傍らにアルベルトは膝を着いた。 さらりと砂が動き、窪みが出来る。 「ジェット」 アルベルトが小さな声で呼ぶと、ジェットは困惑の表情を乗せた顔をふいと逸らせた。それは、いつも喧嘩してアルベルトの方から仲直りをしようとした時に見せるジェットの仕草だった。 自分も悪いと思っているのだが、素直にごめんなさいと言えない何処か意地っ張りな部分があるからなのである。 アルベルトも意地っ張りな部分はあるけれども、ジェットとアルベルトの意地の張り方が違うから、二人して同時に肘鉄を食らわせるということは幸いにして一度もなかった。それは二人が似合いだということになるのだろうか。 アルベルトは膝を着いたままジェットの髪についている砂を指の腹で優しく落としてやっている。ジェットはされるがまま動こうとはしなかった。 数分が過ぎた。 何も動いたようには見えなかった。 静かな時間だけが過ぎ去っていく。 「友達は……どうしたんだ」 アルベルトはどうして彼等と一緒にいることを選ばずに、独りでこの場所にいるのかが知りたかった。彼等と馬鹿騒ぎをして憂さを晴らせばよかっただろうにと、半分だけそう思ったのだ。 友達じゃねえと、ジェットはそっぽ向いたままそう答える。 「あんたこそ、どうして探しに来たんだ。仕事はいいのか」 今日は店仕舞いだとアルベルトは笑って答える。 「プライベートな時間ぐらいは恋人とゆっくり過ごしたいんだがな。食事にも付き合ってもらえないし、肝心の恋人は何処かに消えてしまうし……」 アルベルトが珍しくそんな恨みがましいことを言う。いつもの彼らしくない言動にジェットはどうしたのだろう、と逸らしていた視線をアルベルトに戻した。 濃い青色の闇の中にアルベルトの顔が浮かび上がる。 南の島でのバカンスなんだからこれくらい着ろよとジェットが露店で買い求めてきた原色の花が咲き乱れる半袖のシャツと、白い綿のパンツにサンダルというアルベルトには珍しい軽装だ。仕事だと出かける時はいつも長袖のシャツとジャケットを着用していた。 自分が推奨した服装をしてくれたアルベルトの姿にジェットは少しだけ嬉しくなる。 嫌がっていたくせに、自分でもやりすぎたと思う色合いのシャツを着てくれているアルベルトが、やはり好きなのだ。 「あんまり、焦らしてくれるな」 ジェットは寝転がったままアルベルトを見上げる。その背後には月があり、ジェットの視界の中に月とアルベルトが一枚の絵の如くに綺麗なレイアウトで配置されていた。 「焦らしてるのは、そっちだろう」 アルベルトはようやくジェットの隣に腰を下ろした。 「焦らしてねぇよ。誘ってる」 ジェットはそういうと、隣に座っているアルベルトのシャツの裾を掴んだ。柔らかな生地の感触を楽しむかのように指を肩口に向かって滑らせる。 じっとジェットの様子を見ていたアルベルトの口唇にその指先をそっと触れさせた。 「誘ってるって……、ひょっとしてお友達って奴等もお前のやり口の一つなのか」 確信は持てないが、アルベルトはひょっとしたらと思っていた。自分にとって、そうだったら嬉しいと思える答えの一つを何事もなかったように披露してみせるが、それを自惚れだとジェットに返されるとは、ジェットの様子を見ている限り考えられなかった。 「分かってんジャン」 ジェットは苦虫を噛んだような顔をしたあと、無理矢理に笑顔を作った。しかし、顔の上半分は渋い顔、下半分は笑顔というとても奇妙な表情になってしまう。そんなジェットにアルベルトは小さな笑みを零した。 本当だ。 嫉妬させたかったにしか過ぎない。 彼等と一緒に過ごして全く楽しくなかったわけではない。純粋に楽しめたこともあるけれど、心の奥に何処か自分を許せないと思う部分がバスルームのゴムパッキンにこびり付いた黴のように離れなかった。 嫉妬させて、もっと自分にアルベルトの目を向けさせたかった。仕事を放り出せとは言わないし、思ったこともない。最初は一緒に過ごせないアルベルトに対する些細な意地悪のつもりだったはずなのに、あの女性といたアルベルトを見た時、決してそればかりではなかったことに気付いてしまった。 苦しいくらいに束縛して欲しかったのだ。いや、今でもアルベルトに心も躯も束縛されたいと願っている。 「全部、餌。あんたっていう大物を釣り上げる為のな。それくらいしねぇと、内気な大物はかかってくんないじゃねぇか」 アルベルトが薄々気付いているとジェットは思っていたし、敢えて隠し立てするつもりもなかった。自分から言うつもりはなかったが、アルベルトに聞かれたら素直に答えるつもりでもあったことだ。 「内気な……ね」 少しジェットを束縛しすぎたのではと反省したから距離を置いていたわけで、あの台詞は逆の意味だったのかと思うと、聊かジェットに対して勉強不足だった自分にアルベルトは苦笑する。 ジェットは、『オレの躯がこのまま、だったらさ。あんたはオレを簡単に縛り付けることが出来るぜ。あんたが望むみたいに……』という台詞の中に、そうなってしまいたいくらいに束縛して欲しいと訴えていたのだ。 だとしたら、アルベルトに迷いはない。 「結構な釣り餌だったな。で、食いついた内気な大物には餌を与えないのか。せっかくの大物が餓死しちまってもしらねぇぜ」 「大物は何が好みなんだ?」 行き違いが解消されると、互いの心が更に深く繋がった気になる。久しぶりの恋人らしい甘い当り前の、端から聞いていたら赤面してしまうような睦言の一つ一つが強固な磁場となり二人の世界を構築していくのだ。 「赤みを帯びた金髪で、活きのいい、細身の……、まあ、俺の隣で寝そべってる奴……」 アルベルトはそのまま上体だけを動かしてジェットの頭の両脇に手を突いた。ジェットは笑いながらアルベルトを見上げている。 「料理はしなくっていいのか?」 「いらねぇよ。俺は活きがいいままが好物だし、ソースは自前のがあるんでな。たっぷり掛けさせてもらうさ」 アルベルトがそう宣言すると、ジェットは静かに目を閉じた。 ゆっくりとアルベルトの上体がジェットと重なった。 口唇を合わせる小さな音が鳥の鳴き声のように静かな入り江に響き渡る。 啄ばむような口付けを何度も交わしながら、アルベルトの掌はジェットの躯のラインを確かめるかのように肩から腕を通り、再び脇の下へと戻り、更に腰から大腿部にかけて丁寧に辿っている。 ジェットはアルベルトの掌が自分の躯を確認するのを邪魔しないように不要な動きはせずに、アルベルトの口唇と啄ばむような口付けだけを繰り返す。 アルベルトの掌は大腿部から離れて、ジェットの頬を包み込んだ。 顔を動かせないように強い力で固定し、僅かに開いたジェットの口唇の狭間から強引に舌を捩じ込むと、綺麗に並んだ歯列を舐め、ゆっくりとアルベルトの舌を探し求めてきたジェットの舌を絡め取る。 軟体動物同士の如く、濃密にねっとりと舌を絡ませる。 ジェットは腕をアルベルト頭の後ろに回し、逃すまいと自らの顔にアルベルトの顔を押しつけて、下半身を浮かせてアルベルトの下半身と擦り合わせた。 内股にアルベルトのスラックスの生地が擦れて、そこから発生する快楽が下半身を浸食していく。サイボーグだから酸素不足にはならないけれども、長い激しいキスに頭が朦朧としていくような錯覚がジェットは嫌いではない。 「たまんねぇ」 アルベルトは名残惜しそうに絡み付くジェットの舌に別離を告げると、自分の行動を青い潤んだ瞳で追いかけるジェットに、口唇が再び触れるか触れないかの至近距離でそう囁いた。 突然、アルベルトは跳ね上がるように起き、ジェットの腰を掴んで躯を反転させた。うつぶせの体勢にさせると、どうしたことかとじたばたしているジェットの肩甲骨辺りを片手で砂地に押さえつけ、片手でジェットのカブリパンツを膝の辺りまで下ろしてしまう。それでもまだ諦めが悪くじたばたとしているジェットを更に強い力で押さえつけ、先刻の甘い睦言を囁いた男とは別人のような強い口調で一喝する。 本気で抗っているわけではないことは、双方が了解している。抗ってみせれば、アルベルトは征服欲を満たそうと萌えるし、ジェットもまた抗うことによって、自分は本意でないのに力で征服されるというシチュエーションに酔うことができる。 「さわぐんじゃねぇ。お気に入りのパンツをずたずたにされたくなかったらな」 その台詞に動きを止めたジェットの足から器用に左手だけでカブリパンツを脱がしてしまう。薄いブルーのビキニスタイルの下着に覆われた尻が露になる。普段、ジェットはボクサースタイルを好んでいるのだが、時と場合によってはビキニスタイルも愛用している。特に、今回のバカンスではラフなスタイルで過ごすことも多い為、肌の露出を調節できるビキニスタイルのアンダーウェアーを身に着けていることが多い。 しかもハーフバックなので、ジェットの小さな尻の半分程が露出している。 アルベルトは下着の上から、きゅっとしまっていながらも硬すぎず、適度な弾力を保っているジェットの尻を撫でる。 「アルッ?」 強く押さえつけられて苦しいのかジェットが声を上げるが、アルベルトは解放するつもりなど毛頭ない。 「逃げねェから……」 ジェットが腕を伸ばしてどうにか楽な体勢を模索しながら哀願するが、その姿にアルベルトの牡は興奮を覚えてしまうのだ。ジェットだとて、アルベルトが解放してくれないことぐらいは分かっているけれども、つい哀願してしまう。 そして、その後、乱暴に扱われると感じ入ってしまうのだ。 優しく抱かれるよりも、強引な獣じみたセックスの方がアルベルトらしくてイイなんて思ってしまうのだ。変態なのかと悩んだこともあったけれども、それでなくてはエクスタシーが感じられない、既にアルベルトの毒にすっかり染められてしまっている自分がいるのだ。 でも、それは嫌なことではなく、反対に愛されているのだという幸福感へと転化されていき、心を麻痺させる効果を発揮する。 「うるせぇ」 アルベルトはそうとだけ返すと、尻の半分を覆う下着を中心へと寄せて尻の間に挟んでしまった。白い尻が濃い青色の闇に薄らぼんやりと浮かび上がる。挟み込んだ下着を背中の方にぐっと引っ張るとジェットは呻いた。 勃ち上がり始めているペニスが布地で押さえつけられて、その痛みで呻いたのだ。 生地が伸びる限界までアルベルトは思いっきり引っ張った。手を離したとしても伸びきったそれは下着としての役目を果たさないほどになっているだろう。 「っい……くっ」 下着に引っ張られる形でジェットの腰がクレーンでリフトされたようにぐっと持ち上がった。しかし、肩甲骨辺りを右手で押さえつけられている為に、尻だけがいやらしく強調される体勢になった。 「いい様だなジェット……。夜中で人が来ない場所とはいえ、外でこんなことされる気分はどうだ?」 ジェットにその体勢を強要させたまま、揶揄するような口調で悦楽という海中に引きずり込もうとしているアルベルトは、まるでシャチのように獰猛な、性欲を満たそうとするだけの男になってしまっている。 ジェットは快楽とも苦痛ともとれる表情を浮かべたまま、視線だけで背後のアルベルトを振り返る。 「嫉妬に狂った男のやることだ。気にしてたら、付き合いきれねえよ」 と先刻の哀願している姿とは全く違う自分をアルベルトの前に晒す。 アルベルトがこの様な行為に及んだということは、あのジェットを賭けの対象にしていた連中に嫉妬していたということなのだ。それだけで、ジェットは幸せだった。そして、求められるのならば、何にでも応えたい。 だからこそ、こんな憎まれ口を叩いてみせたのだ。 そうすれば、アルベルトは更に征服欲を膨らませて乱暴で強引で淫靡なセックスでジェットを征服しようとするからだ。それこそがジェットが待ち望んでいたことだった。 「ほう」 片方の眉と、片方の口角を上げ、獰猛なシャチのような笑みを浮かべたアルベルトは容赦なくジェットの腰を更に吊り上げる。 そして次の瞬間、アルベルトは下着から手を離した。引力の法則にしたがってジェットの下半身は砂地に叩きつけられる。下着はもちろん伸びきっていて、辛うじて腰や股間にまとわりついているという状態になっている。 しどけなく開かれた足の間からは、落下したショックできゅっとその姿を縮めてしまった玉袋が見え隠れする。 ジェットが体勢を整えるまもなくアルベルトは後方に回り、細い腰をがしっと掴んで持ち上げた。中腰のまま両肩にジェットの足を乗せて、ジェットの股の間に顔を埋める。ジェットは再び、下半身だけを捉えられた格好のまま顔を砂地にダイブさせる羽目に陥った。キスによって濡れた口唇に砂がついて気持が悪い。唾を吐いても、手の甲で拭っても一向に口のざらつきが取れない。 口についた砂に気を取られた少しの合間に、アルベルトは舌先をジェットのアナルへと伸ばしていた。 「ひっ……、ヤメッ?」 その感触にジェットは身を竦ませる。 アルベルトが肩と腕と手でしっかりとジェットの下半身を固定している為、動かせない。 アルベルトのペニスを咥え込むことを覚えたアナルはそんな感触ですら拾ってしまい、ひくひくと収縮を繰り返しているのだ。 アルベルトは遠慮せず更に顔を深く埋め込んだ。 唾でじっとりとアナルを濡らしている。 時折、アナルの中にアルベルトの唾液が注ぎ込まれる感覚がある。 一度として触れられていないのに、ジェットのペニスの先端から悦びを表す液体がぽとりと砂地に落ちていった。 それを見計らったかのようにアルベルトは顔を離して、右手の指をジェットの湿ったアナルに挿し入れた。 アナルは待っていましたとばかりにアルベルトの指を咥え込む。 「ふふふん」 アルベルトは鼻歌でも歌い出してしまいそうなくらいの上機嫌さで、収縮を繰り返すアナルの感触を確かめると、ジェットの足を肩に担いだまま自らのスラックスのジッパーを下ろしてペニスを取り出した。既に誇張していたペニスはスラックスの隙間から勢い良く顔を出した。 アルベルトはジェットの足を肩から下ろし、立ち上がりながら腰を左手でしっかりとホールドすると右手をペニスにあてがってジェットのアナルに先端を捩じ込んだ。 その衝撃に、すらりと伸びたジェットの背中の筋肉が強張る。 「アルッ……、ヤメッ」 「やめねえよ。俺の指に喰らいついてきたくせに……」 アルベルトはジェットの言うことには取り合わず、更にペニスをジェットのアナルに捩り込んだ。 「あっ、い……イッ、痛い」 それでも構わずに、出し入れを何度か繰り返し、ほとんどをジェットのアナルの中に埋没させてしまった。リズミカルに何度も突き上げれば、ジェットの声はすすり泣くような嬌声へと変化していく。 頬に当たる砂地が痛いと思いつつ、ジェットは強引に押し入られたアナルの熱い快楽に酔っていた。 こうして欲しかった。 強引に、自分のことすら考えないほどにアルベルト本位のセックスをして欲しかったのだ。曖昧な優しいセックスもたまには刺激になるけれども、基本的にこういうセックスの方がジェットは好きだった。 支配されることを厭っていたけれども、アルベルトだけは違うのだ。 全てを動かせないくらいの力で押さえつけられ、奪われると、愛されているという気持になれるのだ。暴力や権力による支配ではなく、愛情に拠る支配をジェットはずっと望んでいたのかもしれない。 不思議だけれども、そう感じる。 腰だけを高く持ち上げられて、伸びきった下着をまとわりつかせながら、アルベルトに犯されているのかと思うだけで、ぞくぞくと快楽が背中を這い登ってきて、更に声が上がってしまうのだ。 アルベルトの腰が強く打ち付けられ、躯が振られる。 伸びきった下着がペニスに触れる感触すら拾ってしまっていてどうしようもなくなっている。タンクトップの内側では乳首が入り込んだ砂に擦られて固くなってきてしまっていた。先刻までは口の周りについた砂の感触が嫌だったのに、今は全身に塗されたようについている砂が齎す摩擦が肌の上のあちこちで小さな快楽の静電気を起こしている。 「いくぜっ?」 アルベルトは低く唸るような声を出した。 達する寸前でジェットのアナルからペニスを取り出すと、タンクトップが肩口まで捲くれ上がって青い闇に晒された白い背中に精液をぶちまけた。そして、持ち上げていたジェットの腰を砂地に落として、精液を背中に満遍なく擦り付けてやる。 ぬちゃり、ぺっちゃり……。 淫猥な音が背中越しに、ジェットの耳に届く。 「アル」 そのヌメル感触にもジェットは悶えてしまうのだ。 ジェットはじっとなすがままになっている。 こういったときのアルベルトは積極的な態度に出られることを好まない。あくまで自分に従順なことを望むからだ。 綺麗に背中に満遍なく自らの精液を塗ったアルベルトは満足気な笑みを浮かべた。 「全身、ザーメン塗れにしてやるよ。そうしたら、部屋に戻って……」 アルベルトはうつ伏せになったままのジェットの顎を背後から持ち上げて、自分の方に向かせてそう言う。甘美な誘いにジェットはうっとりとした瞳でアルベルトを見上げる。全身、アルベルトの精液で汚されて、彼の所有物としてマーキングされたい。 愛により支配される、快楽により征服される、その歓喜にふるりと全身が震えた。 「部屋に戻ったら?」 台詞の最後を濁したアルベルトにジエットはそう問い掛ける。 「お前が、もう二度と、俺以外の奴と出かけようなんて考えたくなくなるくらい……、ミルクタンクが空になるまで可愛がってやる」 甘い睦言を囁いたアルベルトに戻っている。 けれども、甘い睦言を囁くアルベルトと、獰猛なシャチの如くにジェットに襲い掛かるアルベルトは表裏一体で、ジェットを愛する男の特性であるから、どちらもアルベルトであるとジェットにはいえる。 ジェットはくっすんと甘えるように鼻を鳴らすと、顎を持っているアルベルトの手に頬を擦り付けるような仕草をした。まるで次は顔を汚してくれと言っているような仕草でもあった。 アルベルトもその様子を見て、笑みを深くした。 嫉妬しても良かったのだ。 嫉妬してもらいたいと思ってよかったのだ。 互いが互いを求めていて、互いに苦しい程に束縛し、束縛されたいと願っていたのだ。もっと深く躯だけでなく心も束縛して欲しいとジェットは訴えていた。 だとしたら、もう迷う必要はないのだ。 アルベルトは、そう考える。 そして、薄く開いた口唇に自らのペニスを近づけていった。 全身を自分の精液に塗れさせるという、動物的行為を続ける為に……。 |