愛に出会う街 『愛に出会う街(2004年月19日発行)』より
1 ジェットはパン屑で汚れたテーブルを綺麗に拭く。 通りに面した席では数分前まで、日本人のビジネスマンがコーヒーとエッグ・サンドを頬張っていた。 その日本人は窓際に置かれたメニュー立てに自分が読んでいた雑誌を置いていった。ここはNYのビジネス街の一角にある二十四時間営業のコーヒーショップである。ビジネスマンが時間を潰したり、気分転換にコーヒーを飲みに来たり、社内では出来ない密談をしにくることもある。 ジェットがこの店に勤め始めてから、一年半になろうとしていた。 ジェットは慣れた仕草でメニュー立てに故意に忘れていった雑誌を取ろうと、手を伸ばした。その間、ずっと背中にこびり付いている視線に溜息が出る。調理場にいるジェフの視線だ。年は自分よりも二〇も年上で、いつもこの店にやってくるビジネスマン達に対して面白くないのかウェイトレス達に当り散らす。当り散らすだけならまだしも、セクハラまがいのことまで仕掛けてくるのだ。 しかし、調理場の電話が鳴り、ジェフは奥へと引っ込んだ。 ジェットは、綺麗になった店内を見渡しながら一番奥のカウンター席に腰を引っ掛けるようにして座った。 ビジネスマンが置いていった雑誌は若いビジネスマンを対象に作られているライトな感覚の雑誌で、流行の背広やビジネスマンに人気のスポットだの、注目のビジネスグッズやビジネス界のゴシップ、経済界の大物や若手ビジネスマンとの対談等々が掲載された雑誌だった。 その雑誌をジェットはパラパラと捲るが、目的の人物について書かれた記事はない。客が忘れていったあるいは、置いていった雑誌を一括して入れておくボックスにその雑誌を座ったままの格好で投げ入れた。 スツールをくるりと回しながら外を見ると、僅かに夜の闇が濃い紫色に変化しているような気がした。 朝仕事に出てくる人達と、仕事を終えて帰る人達でごった返す時間が来るまでは店も暇なのである。もう少しすれば掃除のおばちゃんが来てくれる。 そうすれば、少なくともジェフのセクハラからは逃れられるだろう。 学も特技もない小娘が出来る仕事などいくつもない。ジェフのセクハラなど、何とか見つけてもらったこの仕事を辞める理由にはならなかった。 客もコーヒーショップのウェイトレスなどに興味がないビジネスマンがほとんどで、中には気晴らしに話し掛けてくる者もいるが、セクハラじみた行為はしないし、表向きは紳士的に振舞ってくれる。 自分の仕事が成功したと機嫌よくチップをくれるビジネスマンもごく稀にいる。 決して、コーヒーショップのウェイトレス如きを恋愛の対象にはしないが、その方が興味を持たれるよりかはずっと良い。 たまに、ビジネスマンと恋仲になり結婚する運の良い子もいる。 一ヶ月前に辞めた子は、韓国人のビジネスマンと恋仲になり、帰国するから一緒に来てくれないかとプロポーズされたのだ。 コーヒーショップのウェイトレスで一生を終えるよりも、他の国で暮らしたって温かな家庭を築ける生活の方が余程マシなのである。シフトの半分は夜勤を入れていた彼女に代わってジェットが夜勤のシフトに入ることになったのだ。 少し前まで、ジェットは昼間はこのコーヒーショップで働き、夜はストリップバーでウェイトレスをしていた。ストリップバーといってもピンキリで、ジェットが勤めていたのはキリに近い方で客層もこのコーヒーショップと比べ物にならない。 ウェイトレスの身体を触るのは当り前で、中にはセックスを強要しようとする客もいる。決して行儀が良いとはいえない類の仕事場だったが、自給はコーヒーショップよりは良かったのだ。 一年半前に死んだ父親の残した銀行やクレジット会社への借金のほとんどは、父親の生命保険と会社から出た保証金や見舞金でなんとか完済したのだが、友人知人達にも借金をしていた。その額は、ジェットが高校を卒業したら独立しようとアルバイトをしながらこつこつと貯金した金を叩いても足りず、昼はコーヒーショップで自分の生活費を稼ぎ、夜はストリップバーでウェイトレスをして借金を返したのである。 中にはその程度の額など気にせずともと言ってくれた人もいるけれども、父親の借金を楯にしてジェットに関係を迫ってきた人もいたのだ。借金の為に身体を開くのなら、ストリップバーでウェイトレスをしても借金を返すことをジェットは選択した。 それがようやく終ったのが、二ヶ月前のことだった。 父親が死んでから、一年半ただ必死で働いた。 女の子らしく買いたい物もあったけれども、慎ましい生活を心がけてようやく父親の残した負債の全てが無くなった時に、ぽっかりとジェットの心に大きな穴が開いた。 父親の負債を完済することを目的としていた為、これからの目標を見失ってしまった。 ちょうどその時期に、ジェットは彼に出会ったのだ。 2 「ミスター」 その日は、父親の借金を完済してから一週間程経った頃だった。 ストリップバーで働く必要のなくなったジェットは、新しい仕事を探していた。コーヒーショップのウェイトレスより給料がよく、安定した職業を探して、色々と面接を受けたのだが、父親の死により高校へ通うことを諦めなくてはならなかったジェットは、容貌や人当たりはともかくとして、学歴という点で断られることも多かった。 そうでない場合は、ジェットの身体が目的だというスケベ親父の態度に耐えられず、自分で辞退したものも少なくない。 ――――どうしてなんだろう。―――― ジェットの周りの男達は、面接をしたスケベ親父どもと同じ視線で嘗め回すように見てくるのだ。 そんな視線に晒されることにも慣れたし、そういう人達をあしらう方法も覚えたけど、嫌だと思う気持ちは消えるわけではない。今日の面接官は、学歴に問題はあるけれども、君のやる気次第では雇ってあげても良いよと言いながら、ジェットのスカートから覗く膝頭を舐めるように見ていた。 さも残念ですという顔をして、慌てて逃げるように事務所から出てきたばかりだったのだ。 溜息を吐きながら、地下鉄の駅に向かって歩いている途中に彼が居たのだ。 ――――ああ、道に迷っている人がいるんだ。―――― しかし、近付いてきてジェットは驚いた。 昔、母親が生きていて父親もまともで一生懸命仕事をして、家族三人で仲睦まじく暮らしていた頃、母親と一緒に通った教会の神父に良く似ていたのだ。いつも穏やかな笑みを絶やさずに、ジェットを見るとキャンディーをくれた。幼くして母親を失った後、随分と支えてもらったものだ。しかし、別れは来るもので、アリゾナの教会へ赴任することになり、それ以来彼とは会ってはいない。 似ているといっても、どことなく雰囲気が似ているだけで、顔立ちは然程ではなかった。しかし、そんな彼に知らぬ顔は出来なかったし、じっと不躾な視線を送っていたのだろうか、不思議そうに自分を見たその男にジェットはバツが悪くなって、声を掛けたのである。 「どうかしましたか?」 「ああ、道に迷ってしまって。この場所に行きたいのだが」 と彼は地図を指差した。 行き先はジェットがこれから向かうコーヒーショップに近いビルだったのだ。 「あたし、今からそのビルの近くまで行くんですけど、一緒に行きます?」 そう誘うと、男はありがとうと礼儀正しく頭を下げる。 着ているものも、コーヒーショップにやってくるビジネスマンの中でも上等な部類に入る人達と同じようなビジネススーツだし、鞄も使い込まれているのにもかかわらず古臭い感じは全くしない、そして靴もぴかぴかに磨き上げられていた。 並んで歩くには、襟の擦り切れそうな白いブラウスに鼠色のスカート、よれよれになったパンプスでは恥ずかしい。ジェットはついて来て下さいねと、早足で男より二歩先を歩いて行く。 時折肩越しに、男の存在を振り返り二人は地下鉄の駅に辿り着いた。 切符を買い、深い地下へと潜っていく。 地下鉄は昼間では一番混む時間になっていた。 学校が終ったのと、早朝勤務だった人達が帰宅するからである。 人に押されて電車に乗り込んだ為、男の胸に凭れ掛かるような格好になってしまった。ジェットは顔を赤くして、彼から距離を置こうとするのだが、背後から押されて更に動けなくなってしまう。ここから目的の駅までは三〇分くらいかかるのだ。次の駅で人が降りてくれることを願ってジェットはじっと身を堅くしていた。 ゆっくりと走り出した電車がスピードに乗り始めた頃、ジェットの尻を性的な目的で触る手があった。 腰を振って避けようとするが、その手は執拗に張り付いて離れない。そうこうするうちにスカートの上からだけではなく、膝上のスカートの中にまで手を差し入れて来たのだ。ジェットは更に身を堅くする。 混雑した地下鉄に乗るのは初めではないし、こういう目にあうことも初めてではないが、自分の前には知り合ったばかりの男が居て、彼を駅まで案内すると言った手前逃げることも出来ない。 どうしようかと、目の前の男の顔を見上げると、綺麗なアイスブルーの瞳に自分の姿が映っているのが見えた。一瞬、痴漢に襲われていることを忘れて深い綺麗な湖のような瞳に見惚れた。 「どうした」 耳元で囁く男の声は、今までに恋愛をしたどの男の声よりも甘く感じられる。 「あのっ……」 しかし、痴漢にあっているとは言えずに首だけを後ろに回し、怪しい男を捜すが見当もつかない。その間にも男の手はジェットの太ももを這い回りパンティのウエスト部分から手を差し入れようとした。 「いゃっ」 つい声が出てしまう。 しかし、地下鉄は次の駅の手前に差し掛かり減速した反動で車体が揺れ、乗客たちはバランスを崩した為、ジェットの声は誰にも届かなかった。 いや、ジェットは届かなかったと思い込んでいたのだ。 次の瞬間、身体ごと太い腕に抱き込まれた。後ろからスカートの中に差し入れている手を自分を抱き込んだ逞しい腕が払い退ける。彼はジェットの頭を自分の肩口に寄せさせた。頭の上では『この下司がっ』と呟く声が聞こえてきた。 車体が次の駅に滑り込み次第に速度を落としていくのに合わせるように、困惑していたジェットの気持ちも落ち着いていった。 真っ暗だった窓の外が急に明るくなり、駅に到着したと車内アナウンスが流れる。 「下りるぞ」 男はジェットの腰を抱いたまま、自分の身体を楯にして人波を掻き分けて駅に降り立った。 その直後、扉が閉まり、電車は発車していった。 構内には降りた乗客数人と、彼とジェットだけが残される。 彼はジェットを抱きかかえるようにしたままベンチまで歩き、ジェットをベンチに座らせた。そして、僅かな空間を空けて隣に座る。 「大丈夫か」 その声はあくまでも優しい。 男性にここまで優しくされたことのないジェットは、痴漢に触られたことよりも困惑してしまう出来事だったのだ。 父親は母親が死んでから人が変わった。 朝は素面で仕事に出掛けるけれども、帰宅するとアルコールに溺れた。最初は呑んだくれて眠ってしまうだけだったのだが、年を追うごとにそれは悪化していった。酒を買って来いと言いつけ、断ると殴ったり蹴ったり暴力を働くようになった。 次第に仕事にも支障がでるようになり、転々と職を替え、亡くなる一年前からは働きもせずに酒浸りの毎日だった。周りの大人たちも見て見ぬ振りだったし、ジェットが住んでいる場所は低所得者達の多い地区で、そのような事は当り前にジェットの周りで起こっていた。 親切なことをいう大人はジェットの身体が目的で、何の見返りもなく優しくされたことは、覚えている限りあの神父だけしかいなかった。 「あっ、大丈夫です。NYの地下鉄じゃ珍しいことじゃないし」 とのジェットの台詞に、彼の眉間に深く皺が寄る。 「いつものことなんだけど、ごめんなさい。ちょっと、いつもと違うからびっくりしちゃって……」 ジェットが何でもないとの態度を取ると、男は怒っているかのように不機嫌な表情をする。 「ごめんなさい。時間大丈夫ですか? ビジネスの約束があるんですよね。今からでも、間に合いますか」 ジェットは、自分が案内するといった責任感から男にそう言った。 こんな暮らしをしてきたけれども、ジェットは真っ直ぐで心根の優しい娘なのである。どんな環境にあっても、その環境に負けずに一生懸命、生きてきたのだ。それは、綺麗に輝くスカイブルーの瞳が教えてくれる。 「時間なんか関係ない」 決して大きくはないが、怒鳴りつけられるより迫力のあるうなるような口調が男の口から漏れる。 暴力を受け続けていたジェットはその口調に思わず身を堅くしてしまった。五年間父親の暴力に耐えていたのだから、仕方のないことだった。 男はそんなジェットの姿に驚いたのか、困ったような顔をする。 「すまない。時間は大丈夫だ。それは心配はない」 男が怒っているのは自分のせいではないとわかると強張らせた肩の力を抜いた。 「よかった」 「俺の心配より君自身の心配をしたらどうなんだ。まだ若いのにあんな男に勝手に触られて……。悔しくはないのか」 男は痴漢にあったジェットの心配をしているらしい。 確かに、嫌なことだけれども、まだ触られるだけの方がレイプされるよりもずっとマシなことだ。ジェットもレイプをされたことはないが、されそうになった危険な事態に陥ったことは幾度かある。 その時の恐怖を思えば、耐えられないことではないのだ。 「大丈夫です。レイプされるよりまだいいし、ちょっと我慢すれば……、今みたいに次の駅で降りちゃえばいいんです」 と言いながら、勝手に涙が零れてくる。 スカートの上にぽたりと黒い染みが出来るのを、不思議な思いをして見ていると目の前に綺麗にプレスされたハンカチが差し出された。綺麗なシルクのハンカチで涙なんか拭けないとその手を押し戻そうとすると、男は優しくジェットの肩を抱き寄せてくれた。 そんなことをされたら、余計に涙が止まらなくなりそうだ。 「泣きなさい。泣けば、少しは楽になる」 ――――神父と同じことを言う。―――― 母親が亡くなった時に泣くまいと口唇を噛みしめていたジェットにそう言って、優しく抱き締めてくれた。その時、ジェットは初めて泣くことが出来たのだ。そして、泣きつかれて眠ってしまうまで、ずっと神父は傍に居てくれたのである。 「大丈夫……です」 「大丈夫なものか」 押さえていたものが溢れてくる。押し留めることが出来ず、ジェットは彼の腕の中で泣いてしまったのだ。 初めて会った人なのに、彼の寄せる好意は温かかったし、抱き締める腕にはジェットに対する下心など一編も感じられなかった。まるで、神父様が自分の代わりに彼を使わしたのではないかとジェットはそんなことを思えてしまう程であった。 3 そうあの後、自分は真っ赤に泣き腫らした目をしていた。 泣き止むまで彼はずっとジェットの傍に居てくれた。道を教えただけの女の子を相手に、大人の彼が真剣に付き合ってくれたことが、例え、恵まれない状況にある自分に対する同情であったとしても嬉しかった。 ジェットが泣いている間、数本の電車が通り過ぎていったのだ。 二人は次に停車した電車に乗った。 泣き腫らした目のジェットと、どう見ても成功しているビジネスマン風の男は好奇の視線に晒された。しかし、男は動じることなく、その好奇な視線からもジェットを守るようにしてくれた。 ジェットは、そんな彼を思い出してくすりと笑う。 すると、ジェットと擦れ違うビジネスマンがジェットを振り返る。 夜勤を終えたジェットは帰宅する為に地下鉄の駅に向かっていた。今から出勤するビジネスマンの集団がジェットとは反対の方角からやって来る。 ジーンズ生地の丈の短いスカートに臍が覗けそうに短い丈のシャツ、足元はスニーカー、肩から薄汚れたトートバックを掛け、赤味のかった金髪を無造作に流して歩くジェットはとても魅力的だ。大きくはないが形の良いバストが身体にフィットしているシャツを押し上げ、タイトスカートは、ジェットの細い腰と豊かなヒップ、綺麗な曲線を描く足のラインを際立たせる。 男達は皆、ジェットの躍動的でセクシーな身体のラインに見惚れる。 地下鉄で泣いた翌日、仕事を終えたジェットを待っていたのはあの男だった。 仕事が終わって帰宅するジェットを暑い中、外で二時間も待っていたのだ。そして、お礼の代わりに食事を奢らせて欲しいと申し出てきた。ジェットは、一緒に食事に行けるような上等なドレスなんか持っていないというと、そのままでも大丈夫だよと笑う。 そして、最近オープンしたばかりの若者向けのレストランへとジェットを連れていってくれた。 ウェイターやウェィトレスが幽霊や怪物の格好をし、ホラーハウスのような造りの店内のあちこちでは、様々なショーやアトラクションが催されていた。ジェットは目を輝かせて喜び、よく笑い、食べ、そして飲んだ。 男はこのレストランの出店にあたって色々と協力したから、このレストランの存在は知っていたけれども、NYに来たばかりでこの街のことを知らないから、もし迷惑でなければ、時間が空いている時で構わないから、案内してくれないかとジェットに持ちかけてきた。 デートしてくれとか、付き合って欲しいとか言われれば、ジェットも警戒したのだけれども、縋って泣いてしまったという負い目もあったし、ニューヨーカーの端くれとして、この街の良いところも悪いところも知って欲しいと思った。 それ以来、忙しいはずのビジネスマンのくせによくとジェットが呆れる程に彼はジェットを誘ってきた。三日に一度は出掛けていたくらいだ。 本当に色々な場所に行ったものだ。 観光スポットと呼ばれる場所はほとんど制覇した。ジェットも何処にあるかは知っていても、観光地には足を踏み入れたことがないのだ。子供のようにはしゃいで、笑って、二人は楽しんだ。 ジェットの短い人生で母親が生きていた頃と同じように笑えたのは、彼と一緒だった一ヶ月の間だけだった。 最初は、神父が使わしてくれた人だと思っていた。 ジェットの知らないことを沢山知っているのに、学校もろくに行けなかったし、高校も中退してしまったジェットをバカにすることもなく、様々なことを教えてくれた。 けれども、彼に恋をしている自分にジェットは次第に気付いていった。 優しくて、ハンサムで、ビジネスマンとして成功している彼に恋人や妻がいたとしてもおかしくはない。そんなことわかっていたし、彼が自分を妹のようにしか扱わないことに安心もしていた。 住む世界が違うことは、ビジネス街のコーヒーショップで働いているから身に沁みていたことだし、少しの間の思い出だけでジェットには十分だった。 けれども、それは違ったのだ。 コーヒーショップから地下鉄に向かう途中にある公園。 ジェットはふらりとその公園に足を踏み入れた。 昼間は休憩を取るビジネスマンが集うこの場所も早朝や夕刻になれば、人もまばらだ。 彼とジェットは、出掛ける約束をしていたレストランの予約時間までの時間を潰す為にこの公園のベンチで語らっていた。 そう今、ジェットが座ったベンチだった。 この場所で、好きだと言われた。 「俺には婚約者がいて、日本に明日から会いにいかなくてはならないんだ」 初めて聞かされることだった。 「この右手を造ってくれた人の娘……なんだ。その人は親が決めた婚約者で」 「おめでとう」 ジェットは泣きそうになる自分を抑えながらそう言った。彼と付き合ううちに彼が普通のビジネスマンではないことはわかっていたし、ジェットが想像もできないほどのお金持ちであることも知った。 もちろん、彼は極力そういった面をジェットには見せなかったし、お金でジェットをどうこうしようとはしなかった。 だから、ジェットも見ぬ振りが出来たのだ。 「右手のメンテナンスに行くことになって、連絡してみたら、そういうことになっていたって初めて知ったんだ」 彼の右手は精巧な義手である。 まだ若い頃、一度結婚したのだそうだ。互いに学生で、夏の休暇に二人は結婚式を挙げた。二人は車で気ままにあちこちを巡る新婚旅行に出掛けたのだが、その途中で事故にあったのだと教えてくれた。 ヒルダという名前の結婚相手は死に、彼は重傷を負った。 しかし、右手と引き換えにしたかのように彼は一命を取り留めたのだが、薔薇色だった人生は一変して灰色に塗り替えられたとそう語っていた。 父親の友人で世界的にも著名な科学者が彼の右手を造ってくれた。いつも手袋をしていれば、右手が義手だとはわからない程に、なめらかな動きをする。 「おめでとうございます。何かお礼をしてあげたいけれども、何もないし、あたしが買えるようなものじゃ……」 とジェットは無理矢理笑顔を作るしかない。 ――――行かないで欲しい。―――― と本当は言いたいし、結婚したとしてもいいから自分と時々会って欲しい。彼が妻を娶って、かつ情人も愛せる人ならば、毛色の変わった情人の一人でもいいのにという考えも掠めるけれど、彼は不誠実な男ではない。 死んだ妻であるヒルダを今でも愛しているのは分かっているし、結婚したのなら他の女性のところにいくような男ではない。一ヶ月しか一緒にいないけれどもジェットが彼の誠実な心が理解できていた。 「君は……」 彼は、台詞を飲み込んだ。 「あたしに出来るお祝いはないの」 「俺が結婚しても構わないのか?」 搾り出すような声だ。それでも、ジェットは笑顔を変えないで、俯いてしまった彼を覗き込むようにする。 「だって、そりゃぁ、色々なところに連れて行ってくれる兄さんみたいな頼れる人がいなくなるのは寂しいけど」 と恋愛感情はないのとポーズを崩すことは出来ない。どうがんばっても、自分は彼のような人種とは結婚できないのだ。彼がドイツから来た普通のビジネスマンだとしたら、自分も彼の台詞に結婚しないでと言えたかもしれない。 でも、普通のビジネスマンではない。 毎日見ているビジネスマン以上のものが彼にはあったからだ。 「兄か」 彼は自嘲した。そんな表情を見たのは初めてだった。 「俺は君が俺を好いてくれていると思った。正直に言うと、俺は君に恋をしている。彼女との婚約を破棄しても構わない程に君と居たいと思っている。君が迷惑だったとしても……」 「そりゃ、あなたと出掛けるのは楽しいし、お喋りするのも好きだけど、でも……」 ジェットは声が震えてはいないか、彼に自分の言うことが疑われないかそう演技することで必死だった。 確かに、彼が大好きだ。 許されるなら一緒に居たい。 抱き締められて、キスされたい。 そう願ったことは幾度もある。 彼に愛されることを想像して、抱かれる夢を見たこともある。ここ数日、彼に愛される夢ばかり見ている。現実にありえないと知っていても、少なくとも夢の中の自分は幸せだった。 「恋愛の対象じゃないか」 溜息の如くに声が零れた。 彼の意気消沈した姿に腕を伸ばして自分が慰められた時のように抱きしめたい衝動にかられるがジェットはぐっと膝の上でスカートの生地を握り締めた。彼に掛ける言葉が見付からない。 ジェットはただ静かに、少し俯いた彼の背中のスーツの皺を見詰めていた。 「お祝いのプレゼントをくれるといったな」 「ええ」 突然の問いに彼の真意を測りかねながらも、ジェットは小さく微笑んで頷いた。何が自分に出来るというのだ。生活していくのがやっとの稼ぎしかない十八歳の女が彼にしてやれることなどあるのだろうか。 あるのは自分の身体だけだ。 ひょっとしたらという考えが頭を過ぎる。例え、一晩の一回限りであったとしても彼に愛されるのだったらそれでも構わないとジェットは思う。地下鉄で抱き締められたあの逞しい胸にもう一度抱き締められたい。 でも、彼は決してそんな人ではないこともまたジェットはよく知っていた。 「キスを、祝福のキスをしてくれないだろうか」 キスと聞いて安堵すると同時に、軽い失望を覚える。 彼にとって十八歳の何もない自分は、性的な対象にもならないほどの魅力しかないのだ。ジェットを取り巻く男達は自分をそういう目で見ている人が沢山居た。高校に通っていた時、相談に乗ると調子のよいことを言ってジェットにセックスを求めてきた男性教師もいたくらいだ。 でも、住む世界の違う彼にとっては単なるベッドの相手としても価値がないということなのだろう。 「ええ、いいわ。おめでとう」 ジェットは顔だけを彼の頬に寄せた。 彼が愛用しているコロンの香りがする。 頬に自らの口唇を寄せて、小さな親愛の情を示すキスをした。 彼から離れようとした瞬間、強い力で抱き寄せられる。上体を彼に向けてひねった形で抱き寄せられた為。上手く力が入らない。 逃れようとしても彼の力は強かった。 「ジェット」 苦しそうな彼の呟きに気を取られ、彼の顔を見ようと視線を漂わせていると口唇に生温かいものが当たり、煙草の匂いがジェットの口の中に広がる。 いつも愛煙している彼の煙草の匂いだ。滅多に、ジェットの前では吸わないが、彼の身体にまとわりついている煙草の匂いと同じものであった。 強く抱き締められて息が出来ないくらいだ。必死で空気を吸い込もうと口を開けるとそこから彼の舌が遠慮なく侵入してくる。 逃げるジェットの舌に彼の舌は絡み付いてくる。 貪るような熱い口付けにジェットの身体は力を失っていく。 息苦しさから頭が朦朧して何も考えられなかった。 夢と同じだ。 例え、どんな理由があったとしても夢の中で彼に抱き締められて熱い抱擁と口付けを受け止める自分は幸せだった。今も一緒だ。そして、想像していたよりも彼のキスは情熱的だ。こんな情熱的なキスをジェットは知らない。 「っああ」 ジェットは甘い吐息をキスの合間に漏らしていた。 自然と腕が彼の背中に回る。もう、彼から逃れようとする気持ちなど欠片も存在してはいなかった。流されても構わないとジェットが本気で思い始めた頃、彼は突然ジェットを熱い抱擁から解放した。 「……?」 「すまなかった。つい悪ふざけが過ぎたようだ」 その台詞にジェットは打ちのめされた。 彼が自分を恋愛の対象に出来ないことは知っている。ただ、自分を慕ってくる年下の何も知らない娘に同情しただけなのだ。キスをしてその想いが恋愛でないことを彼は悟ったのだと思うと、ジェットは悲しくなる。 「いいの」 涙が溢れそうになる。 泣いては駄目と自分に強く言い聞かせると、ベンチから立ち上がった。このまま一緒に食事をしたら泣いて縋ってしまいそうだった。それだけは嫌だった。彼の思い出の中の自分は、綺麗でありたい。 何も知らない純粋な娘と誤解されたままでいたいと、強く願う。 「あたし、帰る。婚約者のいる男の人と一緒にいて誤解されるのは困るわ。こんなあたしでも、デートをしたいって声を掛けてくる素敵なビジネスマンもいるのよ」 そう笑うと、ジェットはバイバイと彼に手を振った。 引きとめようと手を伸ばした彼をひらりとかわすと次の瞬間走りだしていた。 もう、振り返ることなんて出来なかった。泣きたい自分を必死で堪えて走り続けた。地下鉄の駅を目指して心臓が壊れそうなくらいの勢いで走り、口唇を噛み締めて涙を堪えて電車に乗り、また、駅からボロアパートまで必死で走った。 震える手でキィーをバッグから取り出し、自分の部屋に入る。 内側からロックをすると、そのまま床に座り込んでしまった。 我慢していた涙が次から次へと、溢れてくる。 ジェットは玄関のドアに凭れたまま、子供のように泣き続けた。 4 朝、帰宅する途中で彼のことを思い出したらいてもたっても居られなくなった。公園を出発点にして、バカみたいに彼との思い出を探してふらふらとNY中を歩き回りジェットはヘトヘトだった。 最寄の駅を降りて、自宅アパートまで徒歩で二〇分ほどの距離だ。 駅の北側がジェットが住む街だ。あまり治安の良い場所ではなく、道路もどこか薄汚れている。いくらNY市が躍起になって恥部を改善していたからといって、全てがなくなるわけではないし、そこかしこにこういった場所は未だに残っている。 ジェットはこの街で生まれ育った。 だからこの土地以外の場所での生活を知らない。 ここには友達もいたし、知り合いもいた。家族はいないけれども、決して孤独感に苛まれるようなことはない場所だ。身寄りのなくなったジェットにとってただ一つの居場所であったのだ。 自分のアパートに向かって、とぼとぼと薄暗くなり始めたストリートを歩いていく。 「ジェット」 小さな車一台がようやく通れる広さの路地へ入っていくと、背後から見知った男達に声を掛けられた。 「あっ、ネッド」 この界隈に住む同級生である。 彼は小学校の頃から少年ギャング団に出入りしていて、中学もろくに通ってはおらず、今では少年ギャングの立派な幹部にまでなっていた。幼い頃は、よく一緒に遊んだし、ジェットの最初のボーイフレンドだった。 ネッドの父親は窃盗で何度も逮捕され、家族と過ごすよりも刑務所で過ごす時間の方が長いような男だ。今も刑務所暮らしをしている。そんな父親を見て、いつも自分は真面目に働いて家族を大切にしたいと夢を語っていたけれども、そんなちっぽけな夢すら簡単に破壊できてしまうような、ここはそんな場所なのである。 コーヒーショップのウェイトレスという仕事であったとしても、真っ当で安定した実入りのあるジェットはこの界隈ではまともな部類に入る。 父親が死に、必死で働かなくてはならなくなったジェットはこの界隈の友人達との交流は少なくなっていた。時折、仕事の行き帰りに擦れ違って挨拶するか、数分立ち話しをするのがせいぜいであった。昼も夜も働いていたから、家には数時間眠りシャワーを浴びる為だけに帰宅していたようなものだ。 こうしてネッドに声をかけられるのは一年ぶりのことだった。 それは、父親に身体を売ってでも酒を買って来いとアパートから叩き出されて行くところがないジェットに、終夜営業のコーヒースタンドでコーヒーとホットドッグを奢ってくれて以来のことだった。 以前より、ギャングとしての凄みが増したように見える。 「ジェット、水臭いぜ」 一年前に助けてくれたネッドとは全く違った口調にジェットは警戒する。 「随分、羽振りが良くなったんだな」 にやにやと笑いながら、ジェットの腕を掴み更に細い路地へと連れ込んだ。ネッドの背後は手下達が固め、ジェットの背後は行き止まりの壁で逃げ場はない。 「ネッド」 ネッドは壁まで後ずさったジェットに覆いかぶさるようにする。赤味を帯びた金髪を指で弄びながら、耳元でくちゃくちゃとガムを噛む音をさせ、酒臭い息をジェットの顔に吹きかける。 「随分、いい女になったもんだぜ」 そう言いつつ、ジェットの頬に口唇を寄せるとますます酒臭い息がジェットにかかる。ついジェットは我慢できなくて眉を顰め、顔を背けてしまう。父親がアルコール中毒だったせいか、酒の匂いは好きになれないでいる。自分も、ほとんど酒を呑んだことはなかった。 ネッドはくいくいっと指を動かして手下に向かって何かを出すように合図する。スパニッシュ系の少年はズボンのポケットから写真を数枚取り出し、ネッドの手に握らせる。 ネッドはそのままそれをジェットに見ろよとばかり手渡してくる。 その写真を見て、ジェットの動きが止まる。 それは、彼と自分の写真であった。 腕を組み笑いながら歩いている写真、階段で転びそうになったジェットを抱きとめている写真、二人で食事をしている写真、最後は二人がベンチでキスをしている写真であった。写真を握った手が震えるのが止められない。 「ゴシップ雑誌に売るか? それともこの男に買い取ってもらうか? どっちが得だと思う。ジェット」 ジェットはごくりと唾を飲み込んだ。答えられるわけないじゃないのと叫びたいが、声が出てこない。 「まあ、お前も晒しもんにしちまうわけだからな。昔のよしみでよ。オレの女になれ。そしたら、忘れてやってもいいんだぜ」 ネッドは更に身体をジェットに密着させてくる。 舌を出してべろりとジェットの頬を舐める。思わずジェットは身体を硬くして、目を瞑った。例え、ネッドの女になったとしても、忘れるわけはないのだ。金に困ればきっと彼をこの写真をネタにゆすりに行く。 せっかく日本人女性との婚約が決まるのに、迷惑がかかってしまう。 彼は大富豪なのだ。 彼と最初で最後のキスをした翌日、コーヒーショップでビジネスマンが置いていった雑誌をパラパラ捲っていると、それには彼の記事が出ていたのだ。EUで成果を上げた企業体がビジネスマイスターと呼称される若きリーダーをNY市場に送り込んできたという内容で、彼の華麗なプロフィールも掲載されていた。 そして、日本人女性とのロマンスも囁かれていて、結婚は近いのではないかとその記事は結ばれていた。 ジェットはその記事を読んで、正直驚いた。 お金持ちだとは思っていたけれども、これ程だとは思ってもみなかったのである。つりあわないどころの相手ではない、出会う切っ掛けもない相手だし、こんなコーヒーショップに来ることすらない相手ではないか。 彼が示そうとしていた愛情がどんな形であったとしても、断ってよかったと心底思った。 思い出があるだけで、幸せだと自分にジェットは言い聞かせていた。そして、その雑誌をそっと自分の鞄に忍ばせて帰って来たのだ。彼の写真を切り取り、小さく折り畳んで財布に入れてある。 それが唯一のジェットの宝物であったのだ。 その思い出すら蹂躙されてしまう運命にジェットは口唇を噛み締めることしかできない。 「なあ、ジェット……。楽させてやっからよ。オレの女になれ。オレ、もうすぐ昇格するんだぜ。少年ギャングじゃなくって、ホンモノのギャングになれるんだぜ。そしたら、しょぼい稼ぎじゃなくなる。お前に店の一軒ぐらいもたせてやる」 ギャングの女になって結局、この街から出て行くことはできないのだろうか。一度、ギャングの女になってしまえば、その世界から出ることは容易ではない。周りにはそんな女性が沢山いたから、ジェットはそれを反面教師にしてなんとか犯罪行為だけはせずにまともに生きてこられたのだ。 アルコール中毒の父親も確かに、自分に暴力は振るったし、ひどいことも言ったけれども、決して犯罪行為には手を貸さなかった。それだけが、ジェットの小さなプライドであったはずなのだ。 ネッドが彼を脅迫すれば自分も、知らないでは通らない。立派な脅迫罪の共犯者になる。そうしたら、自分のプライドよりも彼に対して申し訳が立たない。 でも、ここで逆らえばどうなるかも、この街に住むからこそジェットはいやというほどに知っていた。 懇願など無駄とわかっていたけれども、それ以外にジェットは出来ることを思いつかなかった。 「ネッド、お願い。そんなこと止めて、警察に捕まるわ」 「けっ、サツが怖くてギャングになれるかってぇの」 「でも」 ジェットが懇願を続けようとすると、ジェットの頬をネッドは平手で叩いた。 「下手に出てりゃぁ、お高く止まりやがって、何なら、ここでオレの女にしてやってもいいんだぜ」 ジェットはその意味を察して、壁伝いに逃げようとしたが、ネッドが腕を取り突き飛ばすようにジェットを地面に転がした。スカートから剥き出しになった膝が荒れたコンクリートに擦れて、血が滲む。 逃げようとじりじりと尻で後ずさるが、それは追い詰められるだけの行為だった。 「オレが大事にしてやるって言ってんだ。さっさと股開きやがれっ」 ネッドがジェットに圧し掛かろうとしたまさにその時、彼等に声を掛ける命知らずがいた。 「お前達、何をしている」 5 「アル……、ミスター・ハインリヒ」 今まではアルという愛称しか知らなかった。教えてもらえなかったからだ。しかし、雑誌で彼の名前を知った以上、以前のように軽々しく呼べなくなってしまった。 「どうして」 突然現れた彼は、素手で数人のギャングを叩き伏せる。地面に蹲る彼等を黒い服の強面の男達が手際よくワゴン車に回収して、彼に頭を下げ無言で姿を消した。 ジェットは、彼が少年ギャングを地面に叩き伏せている間に立ち上がり、壁伝いに移動していたのだ。正直、逃げようとしていたのだ。全てが怖かった。この事態を彼に知られるのが怖かったし、軽蔑されるのは耐えられないと思ったからだ。 しかし、逃げようとしたジェットの進路を黒服の男達が邪魔をしたし、再び逃げようとしたジェットを彼が壁に縫い止める。ジェットは彼に逆らうことは出来なかった。 「怪我をしている」 彼は跪くと剥き出しになった膝にある擦過傷を舐めた。丁寧に舌で砂や汚れを取り除いてくれる。 「止め……」 ジェットは彼にそんなことをさせてしまっている罪悪感と再会できた喜びと、触れられた場所から湧き上がる甘い疼きに身を震わせている。どれが本当の自分の気持ちなのかジェットには分からない。 ようやく思い出として心に仕舞って生きていけると決心したばかりなのに、どうして彼は自分の目の前に現れるのだ。 「汚いから」 彼は構わずに、膝の砂をあらかた落とすと白いハンカチで膝を軽く縛った。 「これでよい」 そう言うと彼は立ち上がる。 「どうして……」 ジェットは呟くように問い掛ける。 彼は以前二人で楽しく過ごしていた時のように晴れやかな顔をしていた。別れ際の彼の苦悩した顔など何処かに置き忘れてしまってきたようだ。 それは婚約者と上手くいっている証しだと思うとジェットの心は痛む。 「間に合ってよかった」 安堵した口調に、ジェットは自分とのスキャンダルが表ざたにならなくてよかったとの意味だろうと思った、彼がここに現れたのはきっと、自分との出来事を誰にも話さないようにと釘を刺しに現れたのだと思い込んでいた。 「大丈夫、あなたとのことは誰にも言わない」 ジェットの台詞に彼はわけがわからないとの顔をする。 「とにかく、ジェット、君に何もなくてよかった。もし、何かあったら俺は愛しい人を二度も救えなかった苦しみを背負っていきていかなくてはならないところだった」 「お金が欲しいとも言わないし、あなたが望むのなら、違う土地に行って……。何もなかったっていったって、あたしみたいのと一緒にいたのが……」 「何を言っているんだ」 彼はジェットの台詞を遮ると、黙っていろと優しく口唇に左手の人差し指を当てる。 「婚約といっても元々正式なものじゃない。まあ、見合いみたいなものだったんだ。君に振られてしまったから、もうどうでもいいと自棄になっていた俺に、その女性は好きな人がいるから結婚は出来ないと言ったのだ。例え、報われなかったとしてもその男性と一緒にいられるだけでよいと、彼女は迷わずに俺にそう言った。そして、俺は自分の不甲斐なさと情けなさに気付かされた。君が僕を好いてくれるまで、君の傍に居ようとそう誓ったんだ。探したよ。家にもいないし、コーヒーショップにもいない。怪しげな連中が君のアパートの傍でよくない相談をしていることを聞きつけてやってきたら、この様だ」 普段はあまり話さない。 一方的にジェットが話して、時折相槌と的確なフォローを入れて寄越すだけだ。こんなにも彼が必死で話している姿を見るのはジェットも初めてだった。 「ミスター・ハインリヒ」 「アルだ。それ以外の呼び方は許さない」 ジェットが、彼の肩に震える手を伸ばして触れると、彼はその手をぎゅっと握り締めてくれる。怖かった。どうすることも出来ない自分の非力さに腹が立つと同時に、ネッドに衆人監視の元でレイプされるかもしれなかったのだ。 ジェットが頑なに握り締めていた写真をアルは取り上げると、ちらりと視線を走らせてふんと鼻であしらうように笑う。 「こんなもの、ばら撒きたいなら好きにするがいい」 「でも、そうしたら、迷惑が……、ごめんなさい」 彼はその写真を二つに破いて、路地に投げ捨てた。風にふわりと舞い写真が飛んでいく。走って追いかけようとしたジェットを、彼は鍛えられた胸の中に強く抱き締めた。 「あんなものほうっておけ」 「ごめんなさい」 「そんなに、俺にすまないと思うなら、結婚してくれ」 突然のプロポーズにジェットは、それが彼の本気には思えなかった。 強く抱き締められたまま彼は、言葉を続ける。 「結婚して欲しい」 彼の言葉には嘘がなかった。本気なのは自分を抱き締めている腕の震えがジェットには伝わってきたから分かる。彼が望むなら何でもしてあげたいけれども、結婚は出来ない。 「でも、あたしは、そんな……、父親はアル中だったし、学校だってロクに行ってないし……。そんな美人でもない」 彼は関係ないと、言い放つ。 「ヒルダを失って全てが色彩を失った。生きることに意味などなかった。ただ悲しみから逃れる為に、ビジネスに打ち込んだが、得られたのは金だけだった。でも、君に出会って全てが変わった。笑える自分がいることに気付けた。世の中が美しい彩で溢れているのだと知った。人にはそれぞれの人生があって、皆それらと戦っている。苦しいのも哀しいのも決して俺は一人ではないのだと教えられた。自分の傲慢さに気付かせてくれたのは君だ。君の心が俺の枯れていた心を蘇らせてくれたのだ。そんな君が居ない人生など、二度と過ごせない。もう、あのモノクロで味気ない世界に俺は戻りたくはないんだ。ジェット」 「あたしは、何も知らない。あなたを助けてあげることなんて……出来ない」 ジェットの心は揺れ動いていた。自分がこの男の気持ちを救えるのならば、何でも出来るだろうけれど、彼の住むビジネスの世界のことをジェットは何も知らない。そんな彼を支えていける自信などはない。 「君が僕の傍に居て、笑ってくれるだけでいい。俺が欲しいのはビジネスのパートナーじゃない。本当に愛し合える人生のパートナーが欲しい。それは君以外には考えられないし、君でなくては駄目だ。ジェット」 自分よりずっと大人の彼がティーンエイジャーのように自分を必死になって口説いている。見栄もプライドもかなぐり捨てて、ただの小娘である自分を求めていてくれる。もうそれだけでジェットには過ぎる幸福だった。 「結婚してくれ」 「アル」 けれども、ジェットはイエスとは言えなかった。 言ってしまえば、魔法がとけるように夢から覚めて、現実に引き戻されてしまう気がしていた。けれども、彼の決意と愛情はそんなジェットのわだかまりをも破壊してしまうパワーが秘められていた。 「なら、誘拐犯になるまでだ。このまま君を連れて帰って、幽閉する。俺以外に会わせない。俺だけを見詰めるだけの生活をさせる。君が嫌だといっても許さない。俺はNYにノーとは言わせない覚悟で戻ってきたんだ」 本当に自分を誘拐してしまいそうな彼の本気に、ジェットにはもう反論する言葉も、彼を拒む気力も残ってはいなかった。 「一つだけ約束して」 ジェットは彼の腕の中で小さく呟いた。 「あなたのモノになるけど、あたしを黙って捨てないでくれる。嫌いになったらちゃんと嫌いになったって、言ってくれる? 義務や惰性で愛される振りをされるなら、ちゃんと」 それは無理だなと、ジェットの台詞をまたも彼は遮ってしまう。 「それは心配ないし、その約束が果たされることはないだろうが、約束だけはしよう。俺は意外としつこい性質でね。君が嫌だといっても離しはしないよ」 「ええ、あたしを放さないでね」 ジェットはそう言うと彼の広い背中に腕を回して、自分から初めて抱きついた。 彼もそんなジェットを離すまいと強く抱き締めたのだった。 「ああ、この街に来て本当によかった。君という愛する女性を 見つけられたのだから……」 |