家路
茜色の夕陽が、前方に長い影を作る。 左にひょいと動くと影もゆらりと付いてくる。右に動いてもまた同じように動く。 何が楽しいのかと聞かれると答えに困るが、少し愉しい気分になる。左手に持ったケーキの箱を上げると影も同じように動く。 『幹也さん。何をしていらっしゃるの?』 背後から声を掛けてきたのは妻であった。 久保園幹也は困ったなと、いうような顔をして、妻を見つめた。 肩の辺りまで伸ばした髪にはパーマを当てている。流行りの髪型らしくとても似合うと褒めたら、はにかんだ様に笑い。それ以来、同じ髪型にしている。 『今日は、早く終わってね』 というと、手に持ったケーキの箱を軽く上げた。 『ひょっとして、モンブランを買ってきて下さったの?』 嬉しそうに妻は笑う。妻は、いつも笑っている。ころころと鈴を転がしたような涼やかな声で笑う。文学的で気障な表現かもしれないが、久保園は正直にそう思っている。 でも、妻がこの時間に何故ここにいるのだろうか。 おそらく夕食の準備をしている頃合いだと思うのだが、そんな久保園の疑問などお見通しとばかりに、妻は、また楽しそうに笑った。 『今日、名古屋の伯母様がいらしたの。従妹の文子さんが結婚するとかで、東京に来たついでに寄って下さったの。でね。貴方の好きな押寿司をお土産に頂いて、今夜は、頂いた押寿司とお吸い物でよろしいかしら……』 久保園に不満などあろうはずもない。 妻の料理は絶品で、何を食べても美味しい。 『もちろん。お吸い物にはとろろ昆布を入れるわね』 久保園の好物も心得ている。申し分のない妻だ。 『食後のデザートに、一緒にモンブランを食べよう。コーヒーは僕が煎れるよ』 まあ、嬉しいと妻は、久保園の腕に手を絡めた。 右手に鞄、左手にはケーキの箱と妻。 少し戸惑う久保園を見て、妻は笑い。ケーキの箱を受け取り、左手で持つと、右手を久保園の左手を握った。 手を繋いで、家路を歩く。 駅まで、速足で15分程度だが、今日は、その距離が短く感じる。 一つだった影が二つになっただけ。 それだけのことなのに、心が弾むのを感じていた。 『あら? 』 妻が、立ち止まって斜め後方に視線を流す。 ややあって、音楽が流れて来た。 ドヴォルザークの新世界第二楽章。 近所の小学校から聞こえてくる。下校の音楽だろう。 顔を見合わせて思わず笑った。 そしてどちらともなく、遠き山に日は落ちてと、歌い始める。音楽が終わる頃、自宅が見えてきた。 そして、再び、顔を見合わせて笑った。 ドヴォルザークの新世界第二楽章が聞こえてき、ふと思い出した。 たまたま、早く帰宅出来たある秋の夕方。 夕陽を浴びながら、妻と手を繋ぎ、家路へと歩いたあの日とよく似ていた。 長い影が一つ、久保園の前方に伸びている。 手には、モンブランの入ったケーキの箱。 今でも、あの日のことは鮮明に覚えている。 様々な家の台所から香る夕飯を準備する匂い。少し冷たい秋の風の匂い。妻の体臭や化粧、シャンプーの香り、ケーキの甘い匂い。 同じ曲だけれど、あの頃の下校の音楽は音が割れて聞こえていた。今のスピーカーは性能が良いのだろう。少しばかり違った曲に聞こえる。 そして、夕飯を作る匂いも昔程はしてはこない。 子供たちの声も、ほとんど聞こえない。 この辺りも、随分と変わった。空地は駐車場に、畑や田んぼには戸建て住宅や、マンション、アパートが多く建築された。 でも、変わらないものもあった。 小学校の下校の音楽と、茜色の夕陽。 特別な一日でもないのに、久保園はあの夕刻。 妻と一緒に家路を辿った、 あの一時は特別だったと思える。 歳月を経た今でも、あの妻の手の温かさや感触も具さに覚えている。 妻と居られること自体、幸せだったけれど、あの時程、これが幸せというものだと実感とした時はなかった。 そんな昔に思いを馳せている間にも自宅へと到着する。 久保園は結婚して以来の習慣で、声を掛けた。 『ただいま。今、帰ったよ』 |
The fanfictions are written by Kurataki Humiharu since'19/12/06