そして、扉は閉ざされる



 ここ最近の榎木津は元気がなかった。
 いつもの傍若無人振りも影を潜め、和寅に何を言われても、生返事を繰り返すだけであったし、唯一の従業員である益田に対しても、君の力で何とかしたまえと、力なくそう言うばかりの日々が続いていた。
 窓際に椅子を移動させ、通りを日長一日眺めて過ごしている。
 そんな日々の間に、一件の依頼があったが、夫の不貞の証拠を見つけて欲しいというもので、榎木津が引き受けないということを知っている益田は、代わりに引き受け、今、こうして報告書を作成しているという次第なのである。
 榎木津元子爵経由で廻ってくるこう言った、お家騒動的な馬鹿馬鹿しい依頼は益田に押し付けるのが慣例となっていた。向き不向きはあるけれど益田の調査能力はそれなりのものがあったりする為、最近では、益田本人に榎木津元子爵から御指名がかかったりするのだ。
 今、報告書を作成している、それもそんな事件の一つであった。
「益田君、君、何時に帰る」
 和寅は、その言外に頼みたいことがあるから早く帰ってくれと言っているのが益田には分かった。
「後、一時間ぐらいですかね」
 机の上に積まれた報告書の束をトントンと揃えると、首をぐるりと回した。それに、伴って伸ばした前髪がふわりと揺れる。
「木場さんを呼んで来てもらえますかね」
「木場さんですか?」
 益田は、榎木津の幼友達の木場修太郎と自分の帰宅時間の関連が分からずに、首を傾げる。
「最近、先生、御機嫌斜めでしょ」
 御機嫌斜めというより、惚けているといった方がいいのだが、そこでまた和寅と漫才することもないと、頷いて見せる。
「木場さんが、お見えにならないからなんで」
「会いたかったら、会いにいけばいい話しでしょう」
 益田は一般論を展開する。彼はまだ榎木津と木場の複雑怪奇な関係を知らない。それを全て心得ている和寅は、ほうと溜め息を吐いた。
「じき、益田君、君にも分かる時がくるでしょうから、詳しく話しはしませんがね。とにかく、先生は木場さんに会いたいんですよ。でも、会いに行くのは嫌だときてる。だったら、強引にでも木場さんにきてもらうしかないでしょう」
 確かに、和寅の立場からいえばそうなのだが、どうして自分が木場を呼びに行かなくてはならないのか、今一つ理解に苦しむ。和寅が電話を一本掛けて、頼めばいい話しだ。
「だから、自分から会いたいと言うのも、嫌、あっしが、頼んだって知ったら……」
 和寅はそこまで言って、肩を竦めた。確かに、榎木津にバレたら、暴れるだろう。僕に恥をかかせた云々、下手をしたら自分も巻き添えになりかねない。益田はぶるぶると顔を横に振った。
 そこで、ようやく益田は和寅の言いたいことの全貌を把握したのだ。つまり、益田が木場を飲みに誘うなり、警察に顔を出すなりして、話しのついでに榎木津に元気がないと言えば、とりあえず様子を見に来るだろうということなのだ。
 大事なことは話さないくせに、どうでも良いことは話すこの二人の関係も微妙だ。仲が悪いようでも、いざとなった時の息の合い方は並みではない。陰険漫才とも取れる日常会話は、実は互いをそれなりに認めている証なのだ。だから、和寅は、益田に話しを振ったのだ。
「でも、本当に木場さんが来れば、元気になるんですか。僕としては、大人しくしていてくれた方が世の為かと、それに、事件でも起きれば、立ち直るんじゃないんですかぁ」
「あっしは、先生のお世話を長い間してるから、分かるんです」
 和寅の自信満々の物言いに、まぁ、木場に会うのも悪くないかと、益田は思い直す。
「分かりましたよ。巧く話しを持っていけばいいでしょ。まあ、今日は鳥口君と飲む約束をしているから無理ですけど、明日辺りにでも顔を出してみます」
「頼みやしたよ」
 そう言うと、安心したのか奥に入っていった。
 奥でカタカタと何かしている和寅と、報告書を作成する益田とアンニュイに窓の外を眺める榎木津の静かな時間がとうとうと流れていた。
 報告書を書き上げて、封書に入れた益田は大きく伸びをし、榎木津の方を伺うが先刻から微動だにしてはいない。奥の和寅の気配を探れば、相変わらず何かゴソゴソしているようだ。頼まれていることだし、和寅には声を掛けて帰ろうと席を立ったその瞬間だった。
「へぇるぞ」
 扉がノックもなく無遠慮に開かれ、そこには、噂の主である木場修太郎が立っていた。厳つい身体と厳つい顔、男臭さをぷんぷん匂わせたこの男は外見に似合わず、気が優しいところがある。一緒にいると安心をする。この人に寄りかかっていれば大丈夫だと思わせるのだ。
 男が男に惚れるという代表格が木場修太郎だ。これは、もちろん木場修太郎には内緒なのだが、益田は木場に憧れている警察官たちを沢山知っているし、警察内には木場修太郎ファンクラブがあるのだ。若い警官はともかく、官僚クラスまでメンバーに入っているから飛ばされたりしても、木場が首にならない理由はここにあるのだ。飛ばされるというより、取り合いと言う方がよいのではあるが、もちろん、本人は知るよしもない。
「修ちゃん」
 振り返った榎木津は、一瞬何が起こったのか分からないという表情を見せるが、すぐに満面の笑みを浮かべる。男と分かっていながらも、榎木津の笑顔は綺麗で益田もつい顔が赤くなってしまう。
「何、惚けてやがる」
 木場は榎木津に向けて、いつもの彼の口調で話し掛けた。
「修ちゃん」
 榎木津の顔が蕩けるような笑みに変化していく、益田が見たことのない榎木津だ。何か見ている方が恥ずかしくなってしまう。
「修ちゃん」
 榎木津は、惚けていた男とは思えない早さで木場に走り寄ると、その太い首っ玉に抱き付いた。そして顔をこすり付けて、修ちゃんだと子供のように無邪気にじゃれついている。初めて見る光景に益田は固まっていた。
 木場は、そんな榎木津を懐かせたまま、頭を撫でてやっている。どうみても、幼友達と久しぶりに会った態度というよりは、恋人に久しぶりに会った態度にしか見えないのは、自分の目の錯覚なのだろうかと、益田は動きの止まった頭で真剣に考えようとしていた。
「おう、元気でやってるか。こいつの守りも大変だが、よろしく頼むわ」
 その言い方は、まるで榎木津は木場のモノと暗に言われているようで、更に困ってしまう。男同士の恋愛云々は今更だ。というより、それ以上に複雑怪奇なことが彼等の周辺では起きているので、その程度のことでは驚けなくなってしまっている。けれども、どう答えていいかは分からない。
「いらっしゃい。お久しぶりですね」
 外出の仕度をした和寅が、益田の隣に立っている。
「益田君、早く行かないと遅れますよ」
「出掛けるのか」
「ええ、あっしたちは鳥口さんと飲む約束してるんで、益田君、遅れますよ」
 確かに、自分は鳥口と飲む約束はしてはいるが、和寅も一緒と約束はしてはいない。だが、この状況から逃れるには和寅の手に乗るのが一番と察した益田は、そそくさと自分の上着を手に取った。
「木場さん、そういうことなので、またの機会に……」
 腰が引けてしまう益田を引きずるような形で、和寅は外に出た。
「気を付けろよ」
 木場の声を背中で聞いたような気がした益田であった。



「あの二人って?」
 益田は閉じた扉を振り返りながら、おそるおそる和寅に聞いた。
「見た通りで」
 和寅はそれ以上、答えてはくれなかった。ということはつまり、そういうことなのだろうと結論付けるしかない。鳥口に色々と聞いてもらおうと益田は自分を立て直す。それが、益田自身の墓穴を掘ることになるのだが、今の彼はまだ知らないでいる。
「今夜は飲み明かしてやる」
「それがいいですよ。明日は来なくてもいいですから。あっしも、実家に戻りますんで顔出すんなら明後日の方がいいでしょ」
 その言葉に、もう一度、閉じてしまった扉を振り返りながら益田は大きな溜め息を吐いた。





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The fanfictions are written by Kurataki Humiharu since'20/01/20