愛の香りのバスタイム



 ふふふ…と声にならない小さな笑いが、風呂場に響いた。
 綺麗で華奢な白い指が、赤味をおびた金髪に潜り込んで、その頭を何度も優しく撫でる仕草を繰り返す。大きな窓からは、彼女が触れている髪と同じように美しく輝く太陽の光が差し込んできて、白い肌を茜色に染め上げていた。
「ジェットったら、ほんとお盛んなんだから…」
 と楽しげに笑うと、俯いてフランソワーズが髪を洗ってくれるのに身を任せてじっとしているジェットが何と訊ねてくる。
 何でもないわと、そう返すと、フランソワーズはシャワーを出して、ジェットの髪のシャンプーを流し、仕上げにトリートメントをゆっくりと細い柔らかいな毛に馴染ませる。
 男にしてはいささか華奢な背中を丸めて、風呂用の椅子にちょこんと腰掛けているジェットは小さな子供のようでとても可愛らしい。
 ジェットと一緒にこうして、当たり前の日常を過ごすことはフランソワーズにとって何よりの楽しみでもあった。彼と居るととても優しい気持ちになれるし、彼と居ると元気になれる。
 恋人ではないけれども、血を分けた家族よりも近しい存在の彼が傍に居てくれるだけで、幸せを感じられるのだ。
 性別や、国籍や、生まれ育った環境は関係はない。
 ただ、大切なことは、彼がジェット・リンクという人間であることなのだ。
 久しぶりにメンテナンスの為に日本に来たジェットを、新しく出来たギルモア邸の大浴場に案内した。ここに、ギルモア邸が建てられたのには、海に面しているわりには地盤が固く地下に研究所が建造出来る立地条件であることと、街から少しはなれていることと、隣の家までの数キロは距離があると言った万が一を想定しての条件を満たしていることもあったけれども。
 最後に博士が拘ったのは、ここには温泉が湧き出ていて、自治体の住民であれば、定められた使用料金を払えば自宅に温泉を引き込むことが出来るからであった。もちろん、引き込むための工事費は自己負担であるのだが。
 ギルモア博士が唯一、自分の為に拘った大浴場が数日前に出来上がったのだ。
 フランソワーズもこの大浴場が気に入った。
 ジェットが来たら、絶対に二人で入ろうと決めていたのだった。
 きっと、彼なら大はしゃぎをして喜ぶであろう、とその喜ぶ顔をフランソワーズは見たかったのだ。
 最近、ジェットは休みになるとドイツに行っているようで、なかなか自分に会いに来てくれなくなった。正直、フランソワーズは寂しいが、ジェットがアルベルトと会うのは自分と会うとは違う意味だと知っているから、故意に邪魔も出来ないのだ。
 会えないと、何よりもジェットが悲しむから、つい邪魔が出来ずにいるといった方が正直なところだろう。
 でも、ジェットにとって恋人ではないけれども、それ以外でもっとも近い位置にいるのが自分だという揺ぎ無い自負があるし、その座を誰にも譲るつもりはフランソワーズにはなかった。
「流すわよ」
 とトリートメントを流すと、ジェットは白い手で自分の髪を掻き上げた。
「すっげぇ〜、気持ちイイ、サンキュー、フラン」
 本当に嬉しそうに笑った。
 そして、飛び込むように湯船に入ると水飛沫が上がる。
 フランソワーズも笑いながらそれを避けると、お返しとばかりにジェットの隣に少し派手に足から飛び降りた。
 じゃばーーん。
 水飛沫がジェットに掛かり、何か楽しいのか分からない類の無邪気な笑いが風呂場に木霊した。
 久しぶりに二人だけの楽しい時間だ。
 ジェットも浮かれていた。休みをアルベルトとの逢瀬に使ってしまってなかなかフランソワーズに会いに来られないのは申し訳ないと思っていた。マメに近況を、3日に一度は電話かメールで報告はしていたが、それと会って顔を見て話しするのでは全然違う。次から次へと話したいことが沸いてきておしゃべりは尽きることがなく、止まらなくなってしまう。
 明日がメンテナンスの予定だったのだが、一日早く来て良かったとジェットは思う。
 二人で沈み行く夕日を眺めながら、風呂にゆっくり浸かるなんてそんな時間が過ごせるとは思ってはいなかったそんな昔があった。だから、特別でない普通の日々を過ごせることがとても嬉しいし、楽しいのだろう。
「なあ、フラン。さっきの、おさかなが・・・どうって?」
「おさかな?……、ああ、お盛んって言ったのよ」
 ああ、お盛んかと納得したジェットはへへへっと嬉しそうに笑う。
「だって、ほら」
 フランソワーズはジェットの項を綺麗に整えられたローズピンク色のマニキュアで染められた指先で突く。項から、背骨に沿って腰までつけられた赤い鬱血の後は、情事の名残り以外の何物でもない。
「でも、ここにもあるんだぜ」
 とジェットは自慢げに手首の内側をフランソワーズに宝物を見せるようにそっと見せてくれる。
 複雑な気持ちにはなるけれども、嬉しそうに笑うジェットの姿に比べれば自分の胸の内は些細な事柄にフランソワーズの中ではなってしまうのだ。
 ジェットが彼が、幸せでありさえすれば、幸せだと笑っていてくれるのなら、あのお堅い変人に預けても仕方がない。それは、はっきり言って面白くない。BG団で辛苦を舐めながらも、二人で手を取り合って共に生き抜いてきたからこそ、途中から現れてジェットの恋を攫って行った男が憎らしい。でも、ジェットが幸せだというと無碍には反対も出来ない。
 ジェットを取られた腹いせはいくらでも、水面下でしてやればいいのだ。別にあのドイツ人に意地悪小姑と言われても、痛くも痒くもない、言いたければ、言っていればいい。
 自分とジェットの繋がりは、恋愛などと浮かれた関係ではない。もっと深い絆が存在している。そんな自信がフランソワーズを女性としても人としても美しく見せるのだった。
「ジェットは、幸せ?」
 突然のフランソワーズの問いに、ジェットはきょとんとした顔をするが、すぐにこくんと肯いた。頬が赤いのは風呂のせいばかりではない。
 こういう正直なところがまた、フランソワーズの母性を自然と擽る。
「うん。アルが居てくれて、フランが居てくれて、みんなが居てくれ…。俺、ずっと独りぼっちだったから、独りじゃないってだけで凄く幸せだよ」
 子供のようにそう告白するジェットが愛しくてならない。ついフランソワーズは勢いでジェットを抱き締めていた。豊かな胸にジェットの頭を抱き込むと、子供のように縋るジェットの姿に男性としてフランソワーズを求める姿はない。
 一人の性別すらも超えた人としてフランソワーズの存在を求めてくれる。
 それが、フランソワーズにとっては至極嬉しいことだ。
 少なくとも00ナンバーの男共は自分に母親であったり、恋人であったりと大切にしていた女性を何処かで重ねている部分がなくはない。それが嫌なのではないけれども、女性が自分しかいないというのもストレスにはなるのだ。
 でも、ジェットにはそれがない。
 フランソワーズはフランソワーズとして見てくれる。
 人としての自分を真っ向から受け止めてくれるただ独りの人なのだ。
「フラン?」
「あたしも、ジェットとこうして過ごせる時間をもらえて凄く幸せよ」
 そう教えるとジェットはへへと照れくさそうにフランソワーズの福与かな胸から顔を上げる。そして、次の瞬間、何かを見付けた悪戯っ子もように目をキラキラさせ始める。
「早く、フランソワーズに恋人出来るといいな」
 どうして?と首を傾げたフランソワーズにジェットは惚気るのも同然の台詞を吐き出しのだ。
「そしたらさ。キスマークの自慢しっこできるじゃん」
 フランソワーズは少し呆れるが、あまりにもジェットらしい発想に怒れるよりも笑えてしまう。ジェットが自分にも恋人が出来ることを本心で願っていることは知っている。自分が恋をして、幸せだから、自分にも幸せになって欲しいと願っていてくれることは嬉しい。
 けれどもね、とジェットの本心を知っていて、フランソワーズはわざとこう切り替えした。
「ジェット…」
 零れる笑いを引っ込めて、厳しい顔を作ると肉の薄い頬を抓り引っ張った。『フラン』と抗議の声を上げるジェットの声が『ウラン』と濁って聞こえるのが、また妙におかしい。本気で逃げようと思ってもいないジェットもまた可愛くてならない。
「それって、いつまで一人身でいるのかって…あたしに対する嫌味かしら?」
 と言うと、ごめんなさい。ごめんさないとジェットが長い手足をジタバタさせて、水飛沫を上げ続ける。
 ジェットもフランソワーズが本気で怒っているとは思っていないし、フランソワーズもジェットが嫌味で言っているわけではないことも分かっている。二人のちょっとしたスキンシップの一環なのである。
 ジェットが何度目かのごめんなさいを言った後に、抓り上げていた指を外すと、ソコには赤い後が付いていた。
「あら、ジェット、大きなキスマークね」
「うう…、フラン」
 涙目で拗ねたように口唇を尖らせて、見詰めるジェットの頭を宥めるように撫でて乱れた髪を整えてやり、人指し指を一本だけでジェットの高い鼻頭を軽く突いた。
「許してあげるわ。その代わり…」
 ナニとジェットの目が鼻を突いた指先に向かって寄ってくる。
「今夜の花火大会、あたしをエスコートをすること」
 分かったと言い聞かせるようにウィンクをすると、ジェットはよかったと安堵の溜息を大げさにして見せるのだ。ジェットも分かっていてやっている楽しいおふざけなのだ。BG団に居た頃はこんなことすら出来なかった。
 フランソワーズと冗談を言って笑える日が、今は大切なことになっている。
「へいへい、お姉さま」
 ジェットの減らず口に今度はフランソワーズの拳骨が頭に落ちた。
「あたしは、そんなに年寄じゃないわ。フランソワーズ様よ」
 とフランソワーズが言ってくれたじゃないのと、ジェットに湯をかけた。ジェットも負けじと応戦する。暫し、二人は大きな半地下の風呂場に続く廊下に洩れる程のけたたましい笑い声を楽しげに上げて、湯のかけっこに没頭していた。
 





 その後も、二人の楽しげな笑いは途絶えることがなく、その夜のギルモア邸は何処か楽しげな装いを纏っているように見えたのであった。





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