NYの独逸人



「アルッ……、ミスター・ハインリヒ」
 ジェットは突然目の前に現れた男の名前を呼んだ。
 日本に住んでいる婚約者に会いに行くのだと、そう言っていたけれども、自分には引き止める権利はない。
 本当ならば、出会うはずのない自分達だったはずだ。自分はコーヒーショップのウェイトレスで、彼は大富豪。どう逆立ちしたって釣り合うはずはないのだ。
 仕事の帰りに、ジェットがまだ高校に通っていた頃の同級生に呼び止められた。
 そして、ハインリヒと二人で映っている写真を見せられたのだ。この写真をゴシップ雑誌に売られたくなかったら、金を寄越すか、自分のオンナになれと、逃げ出そうとしたジェットを複数で囲んで、乱暴をしようとした所に彼が現れ、助けてくれたのだ。
「怪我は?」
 剥き出しになった膝にある擦過傷に気付いたハインリヒは跪き、その傷を舐めた。甘い疼きがジェットの躯を支配する。セックスの経験はないわけじゃないけれども、こんなに優しく触れられたのは始めてだ。
「汚いから」
 足を引いて逃げようとするが背後はビルの外壁で逃げることは叶わない。いくら、走ることに自信があったとしても、膝が震えて逃げ出すことなどできない。
「取り敢えずはこれでよい」
 舌で砂と滲んだ血を舐め取ると白い清潔なハンカチで膝の傷を覆い隠した。そして、立ち上がると、ジェットが逃げ寄れないようにと壁に縫いとめてしまう。
「怪我がなくてよかった」
「でも、どうして……」
「婚約は破棄してきた。と言うか、彼女には既に愛している男性が居たんだ。だから、わたしとは結婚できないと言われてしまった。わたしも彼女に、愛する女性がいるから結婚は出来ないと……、まあ、お互い様というやつなんだが」
 どちらかというと饒舌ではない彼のまるで言い訳のようにも聞こえる台詞にジェットは戸惑っていた。どうして、彼がここに自分を助けに現れるのだ。
 偶然に出会った、ハインリヒと言う男と数ヶ月だけ付き合った。もちろんセックスはしていないNYを案内して欲しいとのことで、あちこち連れ回って食事を奢ってもらったりしただけだ。
 好きだった。
 何時までもこんな時間が続けば良いと思っていた。
 でも、彼が元貴族の血を引く世界的な大富豪だと知ったのは、2週間程前のことであった。客の一人が置いていったビジネス雑誌に彼の写真が掲載されていたのだ。お金持ちだとは思っていたが、ここまでの人物だとは思わなかった。
 その記事には、EUで成果を上げた企業体が送り込んできたのはビジネスマイスターだという見出しで、彼が如何に実業家としての手腕に優れているのかと書かれた記事であった。
 そして、最後に日本女性とのロマンスがあると書き添えられていて、結婚も間近ではと記事はそう結ばれていた。
 だから、これ以上自分の気持ちが彼に傾く前に離れようと思った。
 一度だけ交わしたキスだけがジェットに残された思い出だった。
「ったく、この写真売りたいなら、勝手にすればいい」
 ジェットが両手で持っていたのは、ハインリヒとジェットが腕を組んで公園を歩く写真だった。笑った顔など見たこともないといわれていたハインリヒがジェットに向けて笑っている写真だ。何処からどう見ても少しだけ年の離れた恋人にしか見えない写真。
「でも、迷惑になる。あたしみたいな……、小娘と何かあったって疑われたら、仕事だって……」
「だったら、本当のことにしようか。わたしは構わんよ。何とゴシップ雑誌に書かれようとね。そうしたらジェットに責任をとってもらって、ずっとわたしの傍に居てもらわないといけないがね」
 半分脅しのような愛の告白だ。
「アルベルト、でも、あたしは、そんな……、父親はアル中だったし、母親は男とどっか行っちゃったし、学校だって、ロクに行ってないし……。自信あるの逃げ足だけなのに。父さんが残した借金もあるし…、そんな美人でもない」
「違う」
 決してジェットに触れさせようとはしなかった、右手でジェットの手を握りこんだ。昔、結婚後数日で妻と右手を失ったのだ。右手は精巧な義手で人前でも手袋を外したことはないし、誰一人触れることを許さなかったその手でジェットを掴んだ。
「ヒルダを失って全てが色彩を失った。生きることに意味などなかった。ただ悲しみから逃れる為に、ビジネスに打ち込んだが、得られたのは金だけだった。でも、君に出会って全てが変わった。笑える自分がいることに気付けた。世の中が美しい彩で溢れているのだと知った。人にはそれぞれの人生はあって、皆それらと戦っている。苦しいのも哀しいのも決してわたし一人ではないのだと教えられた。自分の傲慢さに気付かせてくれたのは君だ。君の心がわたしの枯れていた心を蘇らせてくれたのだ。そんな君が居ない人生など、二度と送れない。もう、あのモノクロな世界にわたしは戻りたくはないんだ。ジェット」
 いつも余裕のある大人の彼が必死で自分を引きとめようとしている。まるで愛の告白を始めてする少年のように頬を赤くして、必死でこんな自分を口説いている。
「結婚してくれないか」
「アルベルト」
 突然、ハインリヒはジェットを抱き締めた。両手に収まる痩躯がまるで決められていた運命のようにしっくりと収まる。汗とコーヒーの匂いがハインリヒの男心に揺さぶりをかけてくる。多分、彼女はそんなこと全く意に介していないに違いない。
 けれども、細くて長い手足に、抱き締めたら折れてしまいそうな細い腰に、そばかすの跡の残る目元に、そして、くるくると表情を変える青い瞳が愛しくてならない。許されるものなら今かすぐにでも愛したい。
「ダメというなら、誘拐犯になるまでだな」
 絶対にダメとは言わせないとの覚悟でNYに戻って来たのだ。
「一つだけ約束してくれよ」
 ジェットの腕の中で小さく呟いた。
「あんたのモノになる。けど、あたしを黙って捨てないでくれる。嫌いになったらちゃんと嫌いになったって、言ってくれる?」
 父親に先立たれ、母親に捨てられたジェットの心の傷がそう言わせる。
「ああ、約束しよう。だが、その約束は一生必要ない。わたしは意外としつこい性質でね。君がいやといってももう離してやれないよ……多分」
「うん、離さないで……」




 数日後にジョウの元に一通のメールが届いた。
『君と博士の結婚式には、可愛らしい婚約者と一緒に出席させてもらうよ。ブーケをぜひ、わたしの天使に向かって投げてくれると嬉しいのだが……。君の友達アルベルトより』
 ジョウはそのメールを見て、密やかな笑いを零した。
 自分達の選択に間違いはなかったのだ。
「ねえ、あなた。ミスター・ハインリヒ。婚約者の方とあたしたちの式に出席してくださるんですって」





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