Beta-max様 『くるくる』
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くるくる



 天もない地もない、ただ其処に自分という存在が有る。
 緑を基調にした世界には、自分という存在以外何も無い。
 これが、自分という世界なのかもしれない。
 何も無い。

 自分がたゆたうだけ……。
 温かくも、冷たくも、苦しくも、痛くも無い。
 感覚が麻痺しているわけではないけれど、刺激は極めて少なく、そう感じられてしまう。
 地獄のような日々の中にあったのだから、自分の世界ぐらいこのようなものでも構わない。
 動くことすらままならないのだけれども、心は不思議と平穏で、このような状態が心地良いと思える。

 不思議だ。

 現実では動けないことに不安を感じていた。
 手術室で横たえられ、麻酔によって意識が薄れて、自らの意思で動けなくなるのは怖いと思ったのに、今はそれが怖いとは思えない。
 反対に動くことがままならない感覚に安心すら覚える。

 ふわふわとする。

 飛行するのとは違うけれども、寝ているわけでも、立っているわけでも、座っているわけでもない。
 ああ、自分という存在が此処に有るのだという自覚。

 それだけだ。

 不可思議で曖昧でシンプルな世界は初めて体感しているはずなのに、懐かしさを覚える。
 此処に自分という存在が有るだけで、許される世界。
 何処かで、体感した記憶が……。
 機械の躯ではなく、脳の奥深い部分に埋没してしまっている気がしてならない。

『ジェット……』

 自分を呼ぶ声が聞こえる。
 うぉーんと低く反響するような声だけれども、自分を確かに呼ぶ声だ。
 ああ、ここから出ておいでと呼んでいる声だ。
 腕を広げて、貴方を待っているのよとそういっているように聞こえる。
 自分は、その迎えてくれる人の胸に飛び込んで行ってもよいのだと、分かっていた気がするし、それが正しいことだと知っている。

『おお、ジェット』
 腕を伸ばした先にある笑顔。
 美しい女性の顔が其処にはあった。
 まばゆい光りと愛しい人の声と匂い。
 
 ああ、人はこうして生まれ、そして死んでいくのだ。
 当り前すぎる故に、気付かなかった真実。
 
『フランソワーズ』
 小さな声でそう愛しい人の名前を呼んだ。





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