IVAN'S ANGELS 『IVAN'S ANGELS(2002年3月29日発行)』より



◆事件へのイントロダクション

「オハヨウ、エンジェルショクン」
 現在の時刻は七時三〇分、オフィスで仕事を始めるには聊か早い時間ではあるが、エンジェル達は今日も元気だった。
「おはよう、イワン」
「イイ、アサダネ。ピュンマ、マエニハナシテイタミンゾクガクノガクシャトハマダ、ツキアッテイルノカイ」
 とからかいを含んだ声にピュンマはまあと、お茶を濁す。
「ウェデングドレスハゼヒニ、ボクニオクラセテホシイモノダネ」
「僕はお堅い科学者崩れですから、道程は遠そうですよ」
 コーヒーカップを傾けながら、この頃では、この手のからかいにも慣れたピュンマは恥じらいもせずにしらっと答えを返した。
「おはよう。良い天気ね」
「アア、ソウダネ。フランソワーズ。リョウリノウデハジョウタツシタカネ」
 フランソワーズは籐で編まれた籠に盛られ、テーブルの中央に置かれた自信作のマフィンを一つ、自分の皿に乗せると優雅な手つきで一口分を千切り口に入れたまま、それに答えた。
「ええ、グレートの奥様に太鼓判押していただけるようなるくらいは、上達したわ、イワン。今朝の朝食はあたしの特性マフィンなの、食べられなくて残念だわね」
「ソレハ、ザンネンダネ。ソノウチキカイガアッタラ、ゼヒゴチソウシテクレタマエ」
 様々な事情でスカウトされたエンジェル達であったが、契約の中にはイワンに会わないことが含まれていた。
 ピュンマはNASAに勤めていたが、科学者同士による腐敗を目にし、科学者として宇宙に向けた崇高な理想は脆くも崩れ去り、NASAを去った後にこの先をどうしようかと思っていた時に、イワンの代理人だと言うグレートが現れた。
 禿げ上がった頭に、大きな目と口、愛想良く笑いよく喋る。でも、何処か憎めない風体の男はある人物の手足となって働かないかとピュンマに持ちかけたのだ。
 条件は幾つかあった。
 仕事は常勤ではなく、必要に応じて依頼があった場合にのみ発生する。
 従って、緊急時の為に常に携帯電話を持ち歩き、いつでも連絡を取れるようにしておく。
 仕事は全て、合法的なものである。
 最後に、イワンとは声による接触のみで本人とは決して見えることはない。常に、仲介役のグレートがバックアップを務めるとのことであった。
 悩んだが、破格の報酬となによりも探偵と言う未知の職業に、科学者としての理想を失ったピュンマは食指を動かされたのだ。
 また、フランソワーズもスキップしてソルボンヌ大学を卒業した才媛であった。
 生き別れた兄を探して、兄が居ると噂されたアメリカにやって来た。バレエの講師をしながら兄を探している途中で、グレートにスカウトされてエンジェルの一人となったのである。
「ホント、フランソワーズのマフィンは絶品だぜ。イワン」
「ソノコエハジェットダネ。オハヨウ」
「おはよう。イワン」
 ジェットは山に盛られたマフィンをむんずと掴むと、八つ目のマフィンに齧り付いた。口の端に付いているマフィンの屑をフランソワーズが笑いながら取ってやっている。
「アサカラ、ショクヨクオウセイダネ。ケサハナニヲシテイタンダイ?」
「ああ、近所のガキどもに学校に行く前にスケボー教えるって約束しててさぁ。おかげで五時起きだぜ。腹減って、腹減って…、ああ、でも、腹減ってるから美味いのか、フラン?」
「いゃねぇ〜」
「言えてるかもよ。ジェット」
「ピュンマまで」
 とエンジェル達の明るい声が陽の光が十二分に差し込む事務所を更に、明るく見せている。
 暫しの近況報告が終ると、イワンの口調が改まった。
「エンジェルショクンニアサハヤクカラアツマッテモラッタノハ、ボクノユウジンノイライヲウケテホシイカラダ」
 イワンの一声に反応してちゃかしていたエンジェル達はいなくなり、スピーカーから流れる声に耳を真剣に傾ける。
「グレート、アトハセツメイヲシテクレ」
 とエンジェル達の左手のデスクに座った中年男ことグレートは大仰な素振りで口をナプキンで拭い立ち上がった。
「ちょうど一ヶ月前の深夜、路上で独りの女性が車で轢き殺された。名前はヒルダ・ホープ、二八歳。警察は轢き逃げという路線で捜査に当たっているが、未だ犯人は捕まってはいない」
 と、グレートがそう言うと壁に設置された大型プラズマテレビに気が強そうだが、女性の優しさを持った良き母親になれるであろうと彷彿させるタイプの女性が映し出されていた。白いシャツにサブリナ・パンツをはいて頭にはスカーフを巻いている。隣には体格の良いハンサムな男性が立っていた。
 幸せそうに笑う二人。
 何処からどう見ても似合いのカップルにしか見えない。
 偶然の事故なのか、故意によるものなのかは分からないが、
 二人の絆を引き裂いたことには違いないであろう。
「あれ?」
 ヒルダの恋人と思しき、男性の顔を凝視していたピュンマが何かに気が付いたようであった。
「彼って…、イワン。彼はひょっとしてHGの会長のアルベルト・ハインリヒじゃないですか?」
「サスガ、ピュンマダ。キミハケイザイニモツヨイヨウダネ」
 そこにすかさず、フランソワーズは得意の推論を展開させて見せた。
「ひょっとして、狙われたのは彼でヒルダではなかった。あるいは、彼絡みでヒルダは殺されたと恋人のそのハインリヒって人は思ってて、警察では埒があかないってあたしたちに依頼をしてきたわけね」
 ジェットはずっと恋人の写真を見詰めていた。
 ヒルダと言う女性の向こうに何かが見える気がした。自分とよく似た何かを持っているのでは、とそんな気がしてならなかった。分からないけれども、修羅場を潜って生きてきた感がそうジェット自身に囁いてくるのだ。それを振り払うようにジェットは頭をぶんぶんと振った。
「ナゼ、タンナルヒキニゲデハナイノカトイウジジョウハハインリヒホンニンニキイテホシイ。ハインリヒホンニンノシリョウトジケンノガイヨウ、ソシテケイサツノソウサジョウキョウハファイルニシテグレートニワタシテアル。メヲトオシテオイテホシイ。エンジェルショクン、カレハボクノタイセツナユウジンダ。キミタチノチカラデゼヒジケンヲカイケツシテホシイ」
 そう言うとイワンの声が途絶えた。
 グレートの差し出した分厚いファイルを受け取った三人はソファーに並んで座り身を寄せ合ってそのファイルに真剣に見入っていた。
 三人とも、どんな事情があれ恋人の仲を裂くなんて許せないとの怒りをふつふつと腹に溜め込んでいたのである。






 メルセデス・ベンツS55L AMGの太陽の日差しを受けて鈍く光る車体が、ビバリーヒルズの一角にある小さな二階建ての古風な白い家の前で止まった。その西側にある駐車スペースに鍛え抜かれた車体を滑り込ませて、忙しなく降りて来たのは少し憔悴してはいるが、見事な銀髪とブルー・グレーの瞳を持つ体格の良い男である。
 小さいが手入れの行き届いたポーチを抜けて、玄関の前に立つと、そこにはオーク材で出来た洒落たドアの左側に控えめに『イワン・ウィスキー探偵事務所』との看板が出ていた。
 安堵の溜息を吐いて看板の下にあるインターホンを鳴らすと、ドアが開き、イワンが言っていた中年のグレートという男が顔を出した。
 いらっしゃいませと愛想良く迎え入れられた男は、ゆっくりと玄関ホールを抜けて南側に面した明るい部屋へと案内される。
 其処には、ソファーに身を寄せ合って座る三人の美人が居た。
 向かって左はインテリジェンスな雰囲気を称えた美人、右側には気品と教養を兼ね備えた美人、真ん中は赤味のかかった見事な金髪を持つしなやかなボディを持つ美人であった。
「エンジェル諸君、彼が依頼人のアルベルト・ハインリヒだ」
 とグレートは紹介しつつ、エンジェル達の向かいのソファーを勧めた。
 コーヒーでもとのグレートを制してハインリヒはすぐに捜査方法に関して切り込んで来た。その遠慮のない行動にフランソワーズは眉を顰めた。優柔不断な男は嫌いだが、周りを見られない男も嫌いだ。
 自分達は少なくとも探偵の資格を持ち、幾つもの難事件を解決し、時には警察やFBIとも共同戦線を張るほどなのだとの自負がある。素人にとやかく言われる筋合いはない。
「ミスター・ハインリヒ。捜査方法に関しては、あたくしたちにお任せいただけません? イワンからもそうお話しがあったかと思いますけど、それにあたくしたちの名前すら聞かずに、どういうつもりですの?」
 真っ向から挑戦的な目で見詰める。
 二人の視線が真っ向からぶつかり合い、やがて折れたのはハインリヒであった。
 すまないと頭を下げる。
 ようやくヒルダの死が単なる事故ではない証明してもらえるかもしれない。犯人を捕まえくれるかもしれないという人達に出会えて、つい先走ってしまったのだと素直に非を認める。
「お気持ち、お察ししますが、僕達に任せていただけますか」
 と間をピュンマが取り持った。
「ミスター・ハインリヒ。始めまして、オレはジェット。今のがピュンマで、こちらはフランソワーズ。色々と不愉快なことを聞くかもしんないけど、捜査のためだから…」
 ジェットが控えめな笑いを添えると、ハインリヒは困ったなという苦笑を浮かべて、深くソファーに座り直した。
「まずは、落ち着いてコーヒーでも」
 グレートは事務所に備え付けてあるミニカウンターでコーヒーを淹れ始める。芳しき香りが事務所に徐々に広がり、尖っていた神経が少し休まる気がハインリヒにはしていた。この事務所は、探偵事務所の機能を果たしていながらも家庭的な雰囲気がある。形も色も違うクッションはエンジェル達のそれぞれのお気に入りであったりするのだろう。
「でも、何故。轢き逃げではないと?」
 少し落ち着きを取り戻したであろうと見越して、ピュンマがそう最初の質問をする。最も聞きたかったのは、それであった。
 事件の内容も、警察の捜査状況も、全てファイルで知った。彼女の当日の夕方から轢殺されるまでの時間の行動も警察で調べ上げられた限りのことは把握しているが、ヒルダという女性については、彼の恋人であること以外には何も分からない。
「警察は酔っていたのもあるし、それで車道に飛び出して車に轢かれたのではと言って取り合ってはくれなかった。ヒルダはそんなオンナじゃなかった」
 ハインリヒは苦痛に満ちた声を喉の奥から、必死で絞り出そうとしていた。どんなに彼が彼女を愛していたか、それだけが切々と胸に伝わってきて、挑戦的な態度を取ったフランソワーズですら、その翠色の瞳に悲しみを称えていた。
「どういうことです?」
 ピュンマは急かすことなく冷静に次の言葉を促した。
 ヒルダと分かれたのは彼女が轢殺される二時間前であった。一緒に食事をして、ワインを嗜んだ彼はお抱えの運転手にレストランに迎えに来させて彼女を自宅付近まで送っていった。
 玄関まで送るとそう言う彼に、ちょっと酔いを醒ましながら帰りたいのだと、自宅マンションまで徒歩五分程度の場所で車を降りた。
 彼女がマンションに入るまでその姿を見送ったハインリヒはまだ仕事があった為、再び、社に戻っていったのが、午後一〇時であった。確かに、マンションのエントランスに彼女の姿が消えるのを運転手も確認している。
 彼女が轢殺されたのは、彼女の自宅から歩いて三〇分はかかる路上であった。服装は見送った時のままであったし、化粧も落としてはいなかった。
 帰宅した後に、誰か友達からか呼ばれて出掛けたのかもしれない。
 でも、彼女はアルコールは強くなかった。そんな自覚があったから、必要以上にアルコールを摂取することはしなかったし、ハインリヒの目の前で一度も酔っ払った姿を晒したこともない。ましてや泥酔するまで飲むなんて彼女を知る人であるならば、誰でも信じられないと言うだろう。
 アルコールで友達を失った経験があるから、自分を見失う真似だけはしたくないと常々語っていたからである。
 泥酔とも言えるアルコールを摂取する自体に問題があるし、あまり摂取しすぎると激しい頭痛を引き起こすのだとも言っていた。現に体調の芳しくない夜にワインを二杯飲んだだけで激しい頭痛を引き起こして、医師の下につれていったことがあったのだ。
「じゃぁ、彼女に無理矢理誰かがお酒を飲ませて、轢き殺したと? でも、何の為に」
 分かっているなら、とっくにどうにかしていると彼は唸るような返事をした。
「ミスター・ハインリヒ」
 重たい空気を払拭する力を持つグレートの朗々たる声が響き、淹れたてのコーヒーがテーブルに並んだ。
「エンジェル達は、イワンが見込んだだけあって、とても優秀です。だから、ご安心下さい。お帰りになる前にコーヒーでも如何ですか」
 その誘いにハインリヒはついああと答えてしまっていた。
 向かいに座る三人の美人は身を寄せ合うようにコーヒーを飲んでいた。時折、鋭い視線をハインリヒに投げかけてくるけれども、ハインリヒにはその意味を理解することは出来なかった。
 ただ、ヒルダを殺した犯人を、真実を知りたい。
 それだけが彼を支配していたのであった。




◆襲い掛かる黒き影

「やっぱり、尾行されてるみたいだね」
 ピュンマはハンドルを器用に操りながら、助手席に座りノートパソコンで目的地について色々と検索しているフランソワーズに声を掛けた。
「ええ、グレーのチェロキーでしょう?」
 とフランソワーズは顔も上げずに画面の文字を追っていた。
 ピュンマは流石だねと言うと再び、運転に集中する。午後二時にグリーンベイ空港に到着し、空港の傍にあるレンタカーショップでこの車をレンタルし、街中に出た直後からあの車はバックミラーの視界に入っていた。一台、車を挟んだり、運転手が上着を変えて運転してみたりと芸は細かいが、いかんせんナンバープレートが変わらないのはお粗末である。
「ピュンマ、次の交差点を左に曲がってそのまま真っ直ぐ走ると、その施設があるんですって、教会と併設していて、その施設の責任者はその教会の牧師で四五年もの間、夫婦で身寄りのない、あるいは家庭に問題のある子供を養育していて、この地域では有名人らしいわ」
「ふぅ〜ん」
 ピュンマはあまり気がない素振りをする。
 彼は何処か冷淡な部分を持ち合わせていて家族的な愛情とか、清廉潔白というレッテルを貼られる人に対してある種の嫌悪感を見せることがある。
 彼は既にアメリカの市民権を獲得している。彼がアフリカのどの国からどういう経緯でアメリカに渡ったのか聞いたことはなかったが、こんな彼を見ると家族との間に何かあったのだろうかと、フランソワーズはあらぬ想像をしてしまうのだ。
 少なくとも、両親を幼い時に失ったものの、ちゃんと愛情を受けた記憶はあるし、自分には兄が居て失った両親の分まで有り余る愛情を注いでくれた。
「そういう人って、裏で何やってるか分からないけどね」
 と何処か卑下した笑いは彼に似つかわしくないと思うし、フランソワーズもそんな彼を見たくはなかったから、話しを尾行してくるチェロキーに転換してしまう。
「ね。後のチェロキーだけど」
 そんなピュンマの態度など気にも留めない振りをして、ノートパソコンのキィボードを操っているとタイミング良くグレートからのメールが届いた。
「グレートから返事が来てるわよ」
「何だって?」
「チェロキーのお間抜けな人、同業者ですって、ミルウォーキーで探偵事務所を開いてるって…」
 フランソワーズは画面から目を離さずに必要事項だけをピュンマに伝えて寄越した。
「名前は、クリーブ・グラントン。三〇歳。元デトロイドの警官だったけど、汚職の容疑を掛けられて退職、結局、彼は無実だったけど、署内の勢力争いに巻き込まれたらしいわよ。ホント人が良さそうな顔してるわ。その後、生まれ故郷で同じく警官を定年退職した父親と探偵事務所を開いたってところね」
「ミルウォーキーの探偵が、グリーンベイまで?」
 だが、ミルウォーキーからここグリーンベイまで車で三〜四時間の道程だ。決して近いとは言えないが、遠くもない。ここグーリンベイにも探偵事務所がないわけではないが、町の人間だと困るのが依頼人の正直な心境であったのだろう。
 自分達の行動を見張らせるのならば、何もこの町の探偵をわざわざ使わなくとも出来ることだ。
「まあ、同じ州内って言えば、ウィスコンシン州内だし、妥当な選択じゃないのかしら? でも、どうするの? とっちめて吐かせる」
 とフランソワーズは目をキラキラさせて指をパキパキと折って、いつでも戦闘オーケーだわと言わんばかりの態勢を整えて、楽しそうに笑う。気品溢れる美貌と高い教養を持ちながら意外と気が短く、手が早いのだ。気の短い考えの浅いジェット以上に手が出るのは早いかもしれない部分が彼女にはある。
「グレートのメールの最後に書いてあるだろう?」
 フランソワーズは何でもお見通しのピュンマに対して、口唇を尖らせた。
「いやね。本気でするわけないでしょう」
 と口を拭ってみせるが、八割は本気だったとピュンマは踏んでいる。そのまま知らぬ顔をしていたら精気も何もかも抜かれたミルウォーキーの探偵の抜け殻がルート66に転がっていることにもなりかねないなと苦笑だけをする。
「ほら、目的地が見えてきたわ」
 いかにも話しを逸らそうとしている辺りが見え見えでピュンマはそれが可笑しかった。来客用の駐車場に車を滑り込ませると子供たちの声が響いてくるのは、年の幼い子供たちの学校が終った時刻だからだろう。
 駐車場から教会がある方向に歩いていくと、一〇歳くらいの女の子が数人で縄跳びをしている。牧師様はと聞くと、事務所に居ると明るく答えてくれる。少なくとも、ここに居るには複雑な事情があってのことだろうけれども、彼女達はとても明るく礼儀正しかった。
 そんな子供たちに見送られてフランソワーズとピュンマはこの町に来た最大の目的を果たすために事務所の扉をノックした。






 扉を開けて、中に入ると其処には八〇歳近い恰幅の良い老人が座っていた。
 横幅はあるのに背丈が低い彼は一見、達磨のようにも見える。
 にこにこと笑みを浮かべて、ぽっちゃりとした手を二人に差し出し、遠い所をと歓待してくれ、妻に言いつけてお茶の用意をさせていた。
 反対に牧師よりも背の高いひょろんとした老婆は、愛想良く二人に笑い掛け、マフィンにビスケット、数種類のジャムをテーブルに並べ、湯気の立つ紅茶をこの時代を経た建物に相応しくない不恰好なカップに注いだ。
「ごめんなさいね。でも、これは子供達が作ってくれた物なの」
 と曲がった赤い花の描かれた不恰好なカップをピュンマに、オレンジの太陽が描かれたピサの斜塔のように傾いたカップをフランソワーズに手渡した。
 牧師には前もって報せていたので、数種類のアルバムや資料を用意していてくれたらしく、お茶の用意がされたテーブルの端にそれは積まれていた。
「わたしは、フランソワーズ。こちらはピュンマ。ロサンジェルスから来た探偵です。ヒルダ・ホープさんは事故で亡くなったのですが、婚約者であるアルベルト・ハインリヒという方がその死因に疑問を持っていて、調べているところなんです。彼女について、少しでもお話しを頂ければ、参考になるかと思いまして」
 フランソワーズは神妙に自分の気品溢れる美貌と物腰の柔らかなしゃべり口調を最大限に押し出して、牧師夫妻を伺った。
 ヒルダはアルベルトに出会った頃、アルベルトの会社とライバル関係にあるとある企業の秘書をしていたが、アルベルトと恋仲に陥った彼女は彼の立場を思い彼に紹介された法律事務所に転職していたのだ。
 だが、彼女がその法律事務所に出していた経歴は名前と生年月日を除いて、学歴や出身など全てが出鱈目だったのだ。救われたのは、彼女が本名を使っていた為、そこから彼女の経歴を辿り、このグリーンベイというミシガン湖の湖畔にある町の出身であることが分かったのだ。
 大きな産業を持つ都市でもないし。観光地でもない。ありふれた地方都市であるが、特筆すべきことといえば、アメリカンフットボールチーム『グーリンベイ・バッカーズ』があることだけだ。これがこの町の象徴であり、そして自慢でもある。
 そんな町この施設で彼女が育ったのだと、其処まで突き止めた二人だった。
「いい子でしたのに、あたしたちより早く」
 と老女は目元の涙をティッシュで押さえた。ぽっちゃりとした子供のような手をその枯れ木の如くに細い手に沿わせて、元気を出せとそう軽く叩いた神父は二人にテーブルの上に積んであるアルバムと資料を差し出した。
「明るく良い子でした。年下の子供たちの面倒も進んで見て、早く大きくなって働いて素敵な人に出会って普通の幸せな家庭を作りたいとそれが夢だとそう言ってました。ここに居る子供たちは一人一人が複雑な事情を抱えています。両親が行方不明であったり、誰が両親かも分からずに捨てられていたり、親が刑務所や病院に入っていて面倒を見られないからここに居なくてはいけない子供。あるいは両親が離婚して、双方ともが子供を引き取ることを拒否して、行き場をなくしてここに来た子もいます。ヒルダは父親を早く亡くし、母親はそのショックで酒浸りになり、挙句は彼女に暴力を振るい、刑務所と病院とを出たり入ったりしていましたが、結局は肝臓をやられて」
 ぐずっと老女が鼻水を啜り上げた。
「わたしたち、夫婦には子供が出来ませんでした。だから、ここの子供たち皆がわたしたちの子供でここを出て幸せになって欲しいとそればかりを願っていました。ヒルダは本当に優しい良い子だったのに、どうして、こんなことになったんでしょう」
 むちむちとした手で禿げ上がった頭を抱え込んだ牧師は、ずっと小さく頼りなく見えてしまう。
「神様は、良い子だから早く天に召してしまうのですよ」
 とフランソワーズが慰めを言うと、牧師はそう思わないと救われませんと、小さく呟く。
「特別、仲の良かった子とかは居ませんでしたか? ここを出てからも連絡を取るような」
 牧師には言えないが、とにかく彼女はこの地の出身ということを隠していた。特に施設の出身でということに関しては、至極敏感で子供の頃のことを話すのをとても嫌がっていたというのだ。
 経歴が嘘であったと分かった今、それも分からなくはないが、アルベルトがそれを責めるかと言えばそうではない。彼はヒルダという女性に惚れたのであって、彼女の出身とか学歴に全く拘ってはいなかった、でなければ、ライバル会社の秘書室に勤務した女を婚約者にするにはそれくらいの度胸がいるのであろう。
「ヒルダの仲が良かった子達で連絡先の分かっている子達にも、聞いてみたんですが、ヒルダがこの町を出てからは、誰とも連絡は取ってはいないそうです」
「そうなんです」
 と老女は突然に顔を上げた。
「あたし、ヒルダの婚約者だと聞いて、てっきりカールだと思っていたんです」
「カール?」
 老女はピュンマが開いていたアルバムのページに貼られていた一枚の写真を指差した。白いサマードレスを身に纏いサンダルを履いた彼女とバッカーズのTシャツにジーンズ姿の精悍な顔をした若者の顔が其処にはあった。
「ええ、彼女より二歳年上で、彼女ととても仲が良く。あたしたちは彼と彼女はいずれ結婚するものだと思っていました。高校を出て彼はこの町で働いていたのですが、彼女の高校卒業を控えた夏に旅に出ると言ったっきり……」
 フランソワーズが老夫婦の思い出話しに付き合っている間、ピュンマは何度もアルバムのページを捲って行ったり来たりしている。何かが引っ掛かっているのに思い出せないという素振りを見せている。
 首を捻って頭の中の記憶を頻繁に出し入れしているようだ。
 フランソワーズは華やかに笑い、上手く老夫婦からヒルダと言う女性の過去を聞きだしている最中も、話は聞いて相槌を打ってはいるものの、意識はヒルダの写真に奪われていた。
 そうこうしているうちに、窓からはきつい西陽が差し込み始めていた。
 時計を見れば、もう五時に近い時刻である。
 フランソワーズは長い間お邪魔しましたと、老夫婦に告げ、今夜はこの町に泊まり明日ロサンジェルスに戻るのだと事務所の連絡先の入った名刺を手渡し、もし、何か思い出したらいつでもと、今夜宿泊するホテルの名前も告げる。
 何もないけれども、良い町だとそう静かに牧師は言う。
「でも、バッカーズがあるじゃないですか。あちこちでバッカーズのマークを見ましたわ」
「ああ、バッカーズはわし等の象徴で、誇りで、そして自慢出来る大切なチームじゃよ。わしも若い頃はバッカーズでプレイをしておった。親父も、その親父もこの町で生まれて死んでいった。わしはこの町から出たいとすら思わないが、若い者はもっと大きな町へと出て行ってしまう。それで幸せになれるのなら構わんが……。ヒルダも、この町で静かに暮らしておれば」
 と子供のように愛情を注いでいたが故にそんな言葉が出るのだろう。
 フランソワーズはそんな牧師をそっと抱き締めると、深い感謝の意を示した。行きましょうとピュンマを促すと、ピュンマは一枚の写真を指差したのだった。
「この写真、お借りできますか?」
 指差したのは、彼女が白いサマードレスを着てカール少年と映っている写真である。
「構わんが」
「調査が済みましたら、お返しさせて頂きますので」
 牧師はその一枚をアルバムから剥がすと、ピュンマに手渡した。
「いや、良いのだ。彼女の写真はまだ沢山ある。それに、思い出はわしらの胸にちゃんと仕舞ってあるからな。それよりも、婚約者という男性に伝えて欲しい。あの子が亡くなったのは、あの子の運命なのだから、一通り悲しんで、泣いたら、その後は幸せになって欲しい。いつまでも悲しみを背負うのは老人のする仕事だと、それをあの子も望んでいると、そう伝えて欲しい」
 写真を手渡したままピュンマの手をぐっと握ってそう訴えてくる。ピュンマは困ったような顔をしてフランソワーズに助けを求めた。
 こういうお涙頂戴的な場面は苦手なのだ。深い愛情に触れることなく生きてきたピュンマにとっては苦手以外何物でもなかった。
「お伝えしますわ」
 フランソワーズは牧師の手を取り、マリア像の如くの笑みを零したのであった。






 ピュンマはフォークとナイフを置くと、バックから預かった写真を再び取り出して、見入っている。
 フランソワーズは上目遣いにステーキを口に頬張った。
 宿泊先のホテルでリーズナブルで美味しいと評判のレストランを教えてもらったのだ。ホテルから歩いて一〇分程度の場所にあるレストランは地元住民で賑わっていた。バッカーズの選手も時折食事に来るとかで、メニューも豊富で安いレストラン独特の油っぽさの少ない肉質にフランソワーズは満足をしていた。ロサンジェルスだったらこの味なら、この値段では食べられないからだ。
 ピュンマはミシガン湖で取れるという魚料理を注文して、二人で少しずつ分け合ったのだが、魚もスパイスが効いていて身がほくほくとしていた。少し酸味のきいたソースがまた魚に合っていて、どうしてなかなかの味だ。
 フランソワーズの頼んだステーキには日本の調味料の醤油が使われていて、肉汁の旨みを引き出していて肉の美味さを邪魔しない上品な味わいになっていた。
 最後の一切れを味わって、ナプキンで口を拭ってもまだピュンマは首を捻っている。
「どうしたのよ」
「ああ、彼ね。カール君」
「ええ、なかなかイイ男よね。ええっと彼女より二つ年上だから今三〇歳。きっといい男になってるわよ。目鼻立ちもしっかりしてるし、それに青い瞳が素敵よね」
 とフランソワーズがありきたりの答えを寄越してくるのは、全く興味がない証拠である。
 遥々、彼女の生まれ故郷まで足を運んだが、何一つ新しい発見はなかった。彼女は施設では良い子でいて、少なくとも親と同等といわないまでも牧師夫婦に愛情をかけてもらっていたのが分かっただけである。
 彼女の母親についても、既に調査済みで親展はない一つない。
 だが、調査なんてそんなものだ。
 走り回って、得られる手掛かりなどほんの米粒程度でしかない。それを繋ぎ合わせて真実に迫るのが自分の仕事だし、これくらいの空振りはしょっちゅうだ。今夜、そこそこに美味しい食事にありつけただけでヨシとしようとフランソワーズは思っていた。
 ホテルにはスパもあると言っていたし、フェイスエステでも受けようかしら、とつらつらと考えていると、視線の端にあのミルウォーキーの彼が引っ掛かってきた。
「ねえ」
「何処かで見たことあるんだよなぁ」
 とまだ彼は首を傾げている。
「だから、どうしたのよ」
「カール君。どっかで見たことあるんだ」
「NASA時代か、あたしが事務所に入る前に関わった事件の関係者とかじゃないの?」
 フランソワーズが事務所に入ったのはピュンマが入ってから、三ヶ月後だからフランソワーズにも覚えがないとすれば、それ以前の関係者しかいないではないか。
「いや、最近。ここ数日の間に見たんだ」
「それよりも、ミルウォーキーの彼はどうするの?」
 ああ、彼ねとピュンマは立ち上がった。
「フランソワーズ、キミは怯える美女の役を演じてて欲しいんだけど」
 フランソワーズが返事をする前に彼は立ち上がって、フランソワーズの手を引いて歩き出す。そして、ミルウォーキーの探偵が座るテーブルの向かいにフランソワーズの手を握ったまま座った。
「ハーイ」
 ミルウォーキーの探偵はバーガーを頬ばったまま、目を白黒させて突然自分の目の前に座った自分のターゲットを見詰めた。二人とも遠目から見ても美人だが、近くで見るともっと美人だった。特に自分に声を掛けた美人はいかしてる。
 寛げた胸元から見える黒い肌がレストランのライトの下で鈍く光る。
 きっと触れたらぴんと張っていて肌理が細やかで少し冷たくて気持ちいいんだろうなぁと、男はついそんな想像をしてしまっていた。
 フランソワーズはそれを見逃さない。
 怯えた演技をしながらもピュンマを肘で突付くとピュンマは一つ溜息を落として、間抜け面を下げた男に微笑んだ。
「貴方、僕達が空港に降り立った時から、ずっと尾行してただろう」
 男は困ったと言う顔をしながらも、へへへと少し下品な笑いを零した。
「僕は、ロサンジェルスで探偵をしてる」
 バックから名刺を取り出すと男に差し出した。
 蘭の透かし模様の入った名刺にはイワンズ・エンジェルズ探偵事務所と入っていた。もちろん本物で、エンジェル達専用の名刺である。ちなみにフランソワーズは百合の透かしがジェットにはデイジーの透かし模様が入っている。
「へえ、あんたピュンマってんだ」
 興味津々で、そして下心丸出しの探偵にフランソワーズは呆れかえっていた。だいたい仕事の最中に私情を挟むなんてどのみちたいした探偵ではないとの判断をする。ピュンマが何をこの男から聞き出したいか分かっていたフランソワーズは少し俯いたまま、自分のローズ色に塗られた爪を見詰めていた。
 ピュンマだって、こういう目で見られるのは初めてではない。
 男とか女とか関係ないのだ。綺麗なら誰もがそう言う目でみるのが世間だ。実際、ピュンマは今、ネイティブアメリカンの民俗学を専門にしている男性の学者と付き合っている。自分だって、男と付き合うこともあれば女と付き合うこともある。性別のボーダーラインが消えて久しく、同性間の恋愛が不道徳だというのは宗教の教義の上だけであって、法律上でも婚姻届を出せば認められる。
 ピュンマほどの美人なら、そういう目で見られても全然不思議じゃない。とフランソワーズは思うのだが、この男だけは一夜の遊び相手にしたっていただけない。
「ああ、彼女はフランソワーズ。僕の友達で、今ストーカーに狙われてるんだ。で、僕の勤めてる探偵事務所に依頼してきたんだけど、僕の同僚達が証拠固めをしてて。その間、ちょっと彼女参ってたから、旅行に連れて来たんだけど、もし、君がこのまま僕達を付け回すのなら、事情を」
「ちょっと、待てよ」
 男も慌てて、名刺を差し出した。もちろん名前も何処の探偵事務所かも知っていたが、ピュンマはあくまで知らない芝居を続ける。
「俺だって、誰に依頼されたか知らねぇよ」
 どう言うこととピュンマは身を乗り出して男の下から覗き込むようにすると、綺麗な肌とピュンマが好んでつける柑橘系の爽やかなコロンの匂いが男の鼻腔を擽った。足を少し伸ばすと、男の膝に触れる。
 ごくりとつばを飲み込んだ男に駄目押しの一手をピュンマは容赦なく繰り出した。
 自分の名刺を握る彼の左手に彼の名刺を握る自分の右手を伸ばして、そっと自分の名刺に触れる振りをして彼の手に触れさせた。
 男がそっぽを向いて、どうしようかと回転の遅い脳みそを回している間に、さっと隣の席に移動してウェイトレスを呼び止める。知り合いだから、こちらに移るから食後のコーヒーはこちらにとそう伝えると、躯ごと男に向き直った。
 そして躯を僅かに触れさせて耳元で囁く。
「知らないってどういうこと。彼女を僕は守ってあげたいんだよ。大切な友達なんだ」
 と瞳まで潤ませる芝居に、フランソワーズはピュンマ乗ってるわねと必死で笑いをこらえつつ、すぐにも運ばれてきた熱いコーヒーを啜った。彼がピュンマに落とされるなんて時間の問題だ。自分がコーヒーを飲み終える頃には、全部ゲロさせられてるんだからと、うふふと小さく笑う。
「メールで依頼があったんだ。あんたとあんたの友達の写真がファイルで送られてきて、グリーンベイに滞在している間の行動を報せて欲しいって、一応、俺もちゃんと確認した。メールを送り返して、細かな事情を聞くと、君の友達はその依頼人のコイビトで浮気してるんじゃないかって、それで、素行を調査したいって。もちろんメールアドレスは確認したよ。フリーメールじゃなかったし、幾度かやり取りしたけど、怪しい点も見当たらなかった。勤め先とか教えてもらって調べたけど、ちゃんとその人物は存在していたし、支払いも必要経費以外は全て前金だったんだ。俺に教えて上げられるのは、そこまでだよ、そういう事情があったとしても、ごめん。名前だけは」
「分かってる。ありがとう。それを知りたかったんだ」
 ピュンマが男の手をきゅっと握って感謝の意を表すと、男はその手を握り返してくる。
「良かったら、君のこともっと知りたいな。泊まってるホテルのバーで一杯付き合ってくれないかな」
 来ると思っていたお誘いだった。
 相手の人相と名前、会社、情報は欲しい。それを集める為には男を酔わせてしまうのが一番である。ピュンマはイエスと答えると、恥らっているような振りをしてコーヒーを啜る。
「その代わり、ちゃんと彼女を部屋に送り届けてから」
 男はすっかりフランソワーズの存在を忘れ去っていて、熱い周波をひたすらピュンマに送り続けていた。






「ところで、ピュンマどうやって報告するのよ」
「何がだ」
 ピュンマは朝から機嫌が悪かった。
 とにかく一刻も早くグリーンベイを離れたいと朝早い飛行機でデトロイドまで移動した。その後、乗り換えてロサンジェルス空港まで戻ってきたのだ。
「ミルウォーキーの彼」
 フランソワーズは楽しそうにピュンマの背中を突付いた。
「在りのままに」
 と憮然と答える。
 フランソワーズを部屋に送り届けた後、ホテルのバーで二人で呑んだそうなのだ。ピュンマはとにかく酒が強い。ざるを通り越して枠ほどに強いのだ、顔色も変わらないし、行動に変化がない。彼以上のうわばみをフランソワーズは見たことがない、自分もかなりいける口だと思っているが、ピュンマには負ける。
 酔った振りをして、あの男を酔わせて依頼人の情報を聞き出したのはいいが、何としてでもピュンマをベッドに誘おうとする男の誘いを断るのに四苦八苦してしまった。バーテンは笑っているだけで、助け舟すら出そうとはしない。
 踏んだり蹴ったりの一夜だったのだ。
 あんなに美味しくない酒は本当に久しぶりだ。
 男に躯中を触られたり、キスを強請られたりよりも、酒が美味しく飲めなかった方が腹が立つピュンマである。
「ジェットなんかああ見えても、結構、貞操観念硬いから、とっ換えひっ換えはするけど、絶対二股はかけない子だから、貴方の行動を聞いたら、びっくりしちゃうかもよ」
 と意地悪く言うとピュンマは、聞きたくないというようにフランソワーズを睨みつける。
 不機嫌な動作で愛車のキィを取り出しロックを解除した瞬間、背後から突然抱き締められた。あの馬鹿男がここまで付けて来たのかと膝を少し折って躯を前に突き出すと、車の窓枠に背後から抱きついた男の頭が当たり鈍い音を立てた。
 そして、男の足元を擦り抜けて、構えると男は迷うことなくピュンマを目掛けて走ってくる。
「フランソワーズ  」
「生きてるわよっ  」
 フランソワーズも同じ状況なのだろう、はずんだ息が声と共に伝わってくるし、その声を頼りにちらりと視線を走らせれば、彼女はピュンマの愛車のボンネットに乗っていたのだ。
「フランソワーズ  車から降りろってば、傷付いたら弁償だからなっ!」
「そんなこと言ってる場合じゃないわよ」
 と相手の顎を蹴り上げるとフランソワーズはふわりと地面に降り立った。
 それを確認する間もなくピュンマに襲い掛かる男の伸びてきた左腕を取って捻り上げると、男の踝を靴の先端で蹴り上げて、脆くなった足場を狙いアスファルトに叩き付けるが、男もプロで叩き付けられながらピュンマの上着の襟を掴んでその体勢のまま背負い投げの要領でピュンマを投げ飛ばした。
 背中から叩きつけながらも辛うじて、受身の態勢で気絶だけは免れだが、ダメージは大きかった。
 でも、寝そべっていては勝てない。
 すぐに立ち上がると、続いて男も立ち上がる。
 ボクシングの構えをしている。
 あの拳だけはもろに受けるわけにはいかない。
 ピュンマは間合いをじりじりと取り、拳の決して届かない距離を見極めて移動した。先に焦れたのは男の方で、ピュンマ目掛けて飛び込んできた。
 これを狙っていたピュンマは自分目掛けて放たれた右ストレートをぎりぎりのところで交わすと男の背後に回り込む、軽いフットワークで躯を反転させた男の顎を目掛けて、見事な蹴りを放ち、そのまま後方に一回転して着地し、男のふら付いた足をすらりとした足で薙ぎ払った。
「フランソワーズ」
 フランソワーズの名前を呼ぶと、声だけは返ってくる。
 フランソワーズはスモウレスラーに襲われていた。捕まったら、押し潰されそうな体躯の男に追い駆け回されていたのだ。蹴ろうと、殴ろうと、一向に分厚い脂肪に阻まれてフランソワーズの攻撃は効かない、バレエで鍛えた身のこなしで逃げ回るのがやっとのようであった。
 ピュンマは愛車に戻ると、ダッシュボックスからニューチーフスペシャルM36と一緒に入っていた弾薬を取り出すと、二発の弾を込めながらフランソワーズの元にとって返した。
「動くな」
 銃口がフランソワーズと対峙している男に向けられる。掌に収まるような拳銃でも当たりどころ次第ではあの世行きだ。
「大丈夫か」
「まあね。全く、髪が乱れちゃったわよ」
 と言いつつ、フランソワーズは立ち上がると、自らの細いウエストに巻いていたベルトを外して男に近付いていく、男を拘束して自分達を襲った背後関係を突き止める為だ。今の自分達が襲われる理由はただ、一つ。ヒルダの死因に関わってくるそれしかない。自分達は今現在それ以外の事件を抱えてはいないし、そう考えるのが妥当だ。
 ピュンマの銃口は揺るがない。
 その瞬間、黒い車がフランソワーズと大男の間に割ってはいる。車種も不明、ナンバープレートも外されている黒いワゴンは窓すらもスモークフィルムが貼られていて中を見ることも出来ない有様であった。
「フランソワーズ」
 轢かれそうになる寸前で車を避け大きく尻餅をついたフランソワーズの無事を確認した時には車は、既に二人から離れようと動き出していた。距離して一〇メートル弱。ピュンマは銃を構え直すと一発、放つ、そして、もう一発放つが二発目も外れて黒いワゴン車は空港の駐車場から消えてしまった。
「何よ、あいつら」
 乱れた髪を治しながらフランソワーズはピュンマ近寄ってくる。
「分かったら、苦労はしないよ。とにかく、追うよ」
「追うって……」
「俺が撃った弾は実弾じゃない。発信機が入った特殊な弾だよ。一発は外したけど一発はちゃんと張り付いてる。でも、有効範囲に限界があるから」
 フランソワーズは分かったと頷くと自分とピュンマの荷物を拾い上げ後部座席に放り込み助手席に頭を突っ込むようにして乗り込んだ。ピュンマも躯を滑り込ませるようにして乗り込み、エンジンをかける。
 ホンダNSXの奏でる重低音が空港の駐車場に響くと、タイヤをきしませてその白い車体は少し陽の傾き始めたロサンジェルスの街へと消えていった。




◆陰謀VS策謀

 ピュンマはちらりと右手にあるカーナビゲーションに視線を送りながら、ハンドルを強引に右に切った。ごんと助手席から派手な音がしてフランソワーズが頭を抱えている。
「ごめん」
 文句を言われる前の先手必勝だ。
 空港で襲撃されて気持ちが昂ぶっているのかもしれないが、猟犬の如くに相手を追いかけなくてはならない今の状況を考えれば、それはそれで良い精神状態なのかもとピュンマは思うのだ。
「ねえ、こっちって事務所の方ぢゃない?」
 二人を襲撃した男達の乗った車種すらも不明な黒いワゴン車は、空港から北上を続けている。ビバリーヒルズに入り、そのままイワンズ・エンジェルズ事務所より一本南の通りを更に北上を続けた。
 少なくともここはビバリーヒルズで、あんな胡乱な如何にも僕たち怪しいですと言わんばかりの男達が根城を構えられるとは思えない。だと、すれば、彼らの雇い主が住んでいるとそう考えるが妥当だと二人はそう推測した。
 それは的中していて黒いワゴン車は事務所からそう遠くはないペントハウスがある通りに止まった。そして、ピュンマを襲った男が出て来て、そのペントハウスの中に入るがすぐに出て来た。再び、ワゴン車に乗り込むとUターンをしてその車は来た道を戻って行く。
 ピュンマは彼等に気付かれないように黒いワゴン車がバックミラーから完全に姿を消してからエンジンを始動させる。
「フランソワーズ」
「もう、電話してるわよ。あのペントハウスの住民のリストをジェットかグレートに作らせるんでしょう」
 カーナビゲーションには街中の地図が表示され、刻一刻と動いていく赤い点滅がある。二人はそれを追って、リトル東京方面にそれを向けたのだった。






 ちょうどペントハウスから死角になる道路脇に白いプジョー406が止まっている。速度を緩めた真っ赤なドゥカティ999Rが真横にぴたりとつけるとウィンドウが降りて甘栗色の髪の女性が顔を出した。
「二分の遅刻ね」
 そう言われると相手はバイクに跨ったまま肩を竦めて、プジョー406の前にバイクを移動させてヘルメットを脱いだ。赤味の掛かった金髪が街灯の光に映えてキラキラと輝く。細い腰やしなやかに伸びた手足を強調するような黒いライダースーツを身に着けた肉体がぼんやりと浮かび上がった。
 フランソワーズは愛車から降りると、トランクに仕舞ってあったマウンテンバイクを取り出した。白い車体の横を黒い影がすり抜けて、やがてその影は車のトランクを覗き込む。
「打ち合わせ通りにお願いね、ジェット。ピュンマの推理に間違いはないと思うけど、証拠が必要なのよ」
 それに頷いたジェットがライダースーツのジッパーを下げると、白い胸元が露になった。
 それに構わずジェットは黒いライダースーツとライダーブーツを脱いで、フランソワーズの車のトランクに突っ込んだ。黒いライダースーツの下には、膝丈のスパッツと長袖のTシャツを着ていた。リュックから帽子とポケットの沢山ついたベストとIDカードのようなものを出し、それぞれを身に着ける。
 最後に靴を取り出し、車に細い小さなお尻を預けて靴を履いた。
「どう?自転車小僧に見える」
 数分でセクシーに黒いライダースーツを着た美人から、キュートな自転車便の爽やかな美人へと早変わりをした。
「素敵よ」
「じゃぁ」
 とジェットはフランソワーズの頬に一つキスを落として、フランソワーズの手渡したマウンテンバイクに乗って角を曲がっていった。その姿が見えなくなると、フランソワーズはバックミラー越しに自分のスタイルをチェックする。
 昼間とは違い、ダサい、うだつの上がらないオールドミスのようなスタイルをしている。
 膝が隠れるスカート丈に、ウエストが確認できないようなスタイルの上着、下ろしていた綺麗な栗色の髪をアップにして、最後に眼鏡を掛けた。
 すると携帯電話が鳴った。
 運転席に置いてあったそれを取ると、声の主は我らが愛しのグレートからである。
『女王様、ご用意は如何ですかな』
「いいわよ、ジェットはどうしてる?」
『上手く、警備員を丸め込んだみたいですぞ』
「了解」
 フランソワーズはそれを聞くと、せっかく綺麗にアップした髪を乱すと、ジェットが消えた方角目掛けて全力疾走を始めたのであった。






「はーい」
 暗くなったエントランスホールが華やかになったような、明るい色彩の美人がうだつのあがらない中年の警備員の前に現れる。
 このペントハウスは金持ちのセカンドハウスやその子息令嬢が自分の部屋代わりに使っている場合が多い。
 自分は会社に命じられた通りに一日、ここに座って入ってくる人間をチェックするのが役目だ。
 格好を見れば、自転車便で何かを届けに来たらしい。
「どなたに、お届け物ですかな」
「ええっと、一八階、最上階の人にお届け物ですぅ。これが社員証」
 と首からぶら下げた社員証を中年の警備員の目の前に差し出す。目を細めた警備員に対して自転車便の美人は、見にくかったのと更に中年の警備員に身を寄せるようにして社員証を見せた。
 甘い、けれども厭らしくないコロンの香りが警備員の鼻を擽った。首を傾げて、行っていいかと問う彼に警備員は言う。
「よかったら、わたしが渡しておこうか」
「うーん」
 ジェットは小首を傾げて、頬に人差し指を当てて考える振りをしてみるが、駄目なのぉと少し甘える声を出した。
「これがあるんだもん」
 と腰についている万歩計を突き出すようにして警備員に見せる。警備員はどれどれと細い腰を視線で舐めるように腰を屈めて、万歩計を見る降りをして細いけれども程よく筋肉のついた太腿や可愛らしい膝頭に視線を走らせる。
「自分で上に行かなかったってのが、すぐばれちゃうんだ。ようやく見つけた仕事だから、首になると困るんだ。ねえ、上に行っていい?」
「ああ、構わないよ」
 と警備員はいやらしく鼻の下を伸ばす。
「けど、ここに会社の名前と、キミの名前を書いていってくれるかな」
「あん」
 ジェットは喘いだような声を出して、中年の警備員の手を握る。
「お願い。書いてくれないかな?」
「それは規則で」
 ジェットは握った中年の警備員の手を自分の胸元に持って行く。そして、潤んだ瞳で見上げると警備員の顔はジェットをどうにかしてやろうとの妄想で一杯の顔をしていた。所詮、男ってそんなもんだなと思いつつ、それをおくびにも出さずにおねだりを続ける。
「実は、僕。字が書けないんだ。それ、誤魔化して今の会社に入ったから、今、必死で勉強してるんだけど。首になったら、僕、躯売らないと生きていけない。親父の借金があって、僕がちゃんと仕事についたら月々の返済でもいいって言ってくれてるんだけど、仕事がないなら、躯売れって……。だから、助けて」
 全部、嘘っぱちだ。
 でも、ジェットが育った環境ではこんな話し当たり前に転がっていたし、少し見目の良い子供は躯を売ることになってしまうのだ。ジェットの隣に住んでいた美人と評判のイシュタルは一〇歳で弟の医療費の為に処女を売った。
 ジェットには幸い、美貌を上回る才能とそれを援助してくれた人がいた。それはジェットの運が良かったからで一歩間違えれば、それは自分の運命であったのかもしれないのだ。だから、ジェットは働いてお金を得ることに関してはある意味、貪欲な部分を持ち合わせていた。
 グレートがイワンという人物の代理人として現れた時も、探偵という職業に対する興味やグレートの人と成りより何よりもその破格の報酬に釣られて首を縦に振ったのだ。
「分かった。今回だけだぞ。次に来た時はちゃんと自分で書けよ」
「ありがとう」
 ジェットは中年の警備員の首に抱きついて頬に一つキスをくれてやった。中年の男の鼻の下は確実に二〇センチは伸びていたに違いない。ジェットはマウンテンバイクをエントランスホールに置くと、届けに来た書類が入ったらしいリュックを背負ってエレベーターで最上階の部屋目指して上がっていた。
「そんなこともあるんだな」
 と警備員は一人、そう零す。
 金持ちではないが、取り敢えず普通に高校を出て、両親が健在で妻と子供が二人いて普通の生活をしている自分はいつも惨めだとそうここに来ると思うばかりだったのだが、あの子の話しを聞くと途端に自分はそんなに捨てたもんではないと、男にはそう思えた。
 訪問者用のノートに自分の子供達のような筆跡を真似て、彼の名前を書き込んだ。
 会心のいかにも彼が書きそうな文字だと、にんまり笑いペンを置いた瞬間、玄関のガラス窓を叩いた女性の姿があった。
 今日は千客万来だと、警備員が駆け寄ると其処には三〇近い野暮ったいスタイルの余りこの辺りでは見掛けない女性が髪を振り乱して、息を切らせていた。自動ドアが開くまでの間ですら待てない女性は入ってきた瞬間、足を何かに取られたようにけっ躓いた。
 結い上げてあった髪はくしゃくしゃで、フレームの厚い眼鏡は半分ハズレかかっていたし、ストッキングは破れていて、同じ来訪者でも先刻の可愛らしいあの子とは違うなと警備員はそんな感想を心に仕舞うと、厳しい顔つきで女性を抱き起こした。
「大丈夫かね。何があったんだい」
「取られたのよぉっ! 」
 オールドミスのようなスタイルの女性は金切り声でヒステリックに、そう喚きたてる。
「あんた、警備員なんでしょう、あの男早く追いかけてよっ!」
 警備員の首根っこを掴んでただひたすら怒鳴り続ける。
「あたしの信用が、会社首になったらどうしてくれるのぉ〜」
 怒鳴られても警備員には、全くその理由も状況も分からない、警官を呼ぼうにも、女性を突き飛ばしたら暴行されたと言われそうなくらい底意地の悪そうな風体をしていた。
 そんなことになったら、今度はこっちが首になる。
 子供も妻もいる。自分に似ず勉強好きな子供達をせめて大学くらい出してやりたいと思っているし、また妻もそれに賛同して最近パートで勤め始めたのだ。自分達は無理だったが子供はとの夢があるのだと男はそう思う。
「落ち着いて」
 だから、宥めるしか警備員には思いつかなかったのだった。
 かなり長い時間だと思っていたが、このオールドミスとの押し問答はほんと数分にしか過ぎなかった。
 何度落ち着いて下さいと言ったのか完全に忘れ去った頃、またも自動ドアが開いた。しかし、今度は心底安堵したのだ。入って来たのは二人の警察官であった。一人はまだ若く、もう一人は自分と同世代の警官である。
「キミかね。通報してきたのは」
 と中年の警官が女に声を掛けた。
「はい」
 先刻のヒステリーが嘘のように落ち着いていて。バツが悪そうにあわてて乱れた服装と髪形を繕っていた。
「通報した場所から動いたら、困るだろう。回りの人がキミがひったくりを追いかけていったって教えてくれたからよかったけれども、そうでなくて反対にひったくりに刺されでもしていたら…」
 と中年の警官はくどくどとヒステリーな女性に説教をしている。ざまあみろと、自分の指定席に戻ろうとした警備員はもう一人の警官に引き止められた。
「あの。お話しをお聞かせ願えませんか」
 ピンク色の口唇が艶かしく動き、にっこりと優しげに笑う若い警官が立っていた。
 と彼の手を取って外の通りが見える辺りまで連れて行くと、彼女はどちらから、どういう風にここに入って来たのかと事細かに聞いては、律儀にメモを取る。丁寧だが無駄のような気がしてしまい、そう声を掛けるとぺこりと頭を下げる。
「配属されたばかりで、すいません。お手間を取らせてしまって」
 と美人な警官はそう言ってはにかんだ笑みを零す。その笑みに最上階に上がっていった自転車便の美人の存在を思い出した。
 何かあったのかと、そういやひょっとして彼は泥棒かもと疑ったその時、エレベーターが開き、あの子が顔を覗かせる。警官が二人に乱れた服装の女性。きょとんとして状況を見詰めていたが、すぐに警備員の傍にやってきた。
 まるで、保護を求める子供のようでついつい後ろ手に庇ってしまう。
 ジェットが警備員の背後から警官に向かって親指を立てて、サムズアップをすると警官はにっこりと笑った。そう若い警官はピュンマで中年の警官はグレートであったのだ。
 全てはジェットが怪しまれずに最上階まで上がるための大芝居に過ぎなかったのである。
「キミは?」
 とピュンマは白々しくジェットにそう話し掛けた。






 警備員を騙して最上階まで上ったジェットは、何度か名前の書かれたプレートの前を行ったり来たりしてみせていて、如何にも悩んでますと手にした書類袋とプレートを見比べている仕草を続けた。警備用のカメラに映っているのを警備員に確認されない為であった。
 すると携帯電話が鳴る。
「はい」
『フランが入った。いいぞ』
 その一言を始まりにジェットは非常階段に続く扉を開けると屋上まで一気に駆け上った。屋上へ出る扉には鍵が掛かっていたが、こんなものエンジェルになる為の訓練で習ったし、実践で幾度も経験しているし、何せ秘密兵器もあるのだから数十秒で開けられる。
 屋上をぐるりと見渡して、自分の体重を確実に支えられそうなものを探す。空調用のダクトに目をつけると素早くロープを巻きつけて、自分の躯にもロッククライミング用のハーネスを手早く身に着け、固定したロープをエイト環に巻きつけて引っ張り確認をすると軽やかにペントハウスの壁に身を踊らせた。しゅるしゅると壁を降り、目当ての部屋を覗き込むが未だ主が帰宅している様子はない。
 小さな吸盤のついたハエ程度もない大きさのものをブラインドで見えない場所に貼り付けると、今度は屋上目指して上り始めた。
 降りた時とは違い、自らの腕の力だけでこの垂直の壁を登るには労力がいるが、もたもたしている時間はない。
 まるでスパイダーマンのように軽やかに壁を昇りきると、用具をリュックに突っ込みながら走った。非常階段へと続くドアはオートロックなのだが、一応錠が下りた音を確認し、エレベーターに乗り込んだ。
 そして、何食わぬ顔でエレベーターで降りて来たのだ。
「キミは帰っていいよ。もし、何か聞きたいことがあったら連絡させてもらうから」
 との若い警官のお達しに彼は幾度も警備員を振り返りながら姿を消した。







「本当にわかったのか」
 一通りの調査を終えたエンジェル達が依頼人であるアルベルト・ハインリヒを呼び出したのは翌日の昼のことであった。
「ただし、ミスター・ハインリヒ。これは裁判の証拠としては決して有効ではないことを了承の上でお聞き下さい」
 事務所総出の大芝居を打っている間に、ジェットが屋上からスタントマンも真っ青な芸当で取り付けたのは高性能の集音機であったのだ。
 警備が厳重で電子キィがなければ入室出来ない部屋の中に入るのは至難の技ではあるし、あの建物には盗聴することは出来るが、その盗聴した電波を部屋の外に送ることを遮断するという建材が使われていた。
 それを知っていたピュンマは敢えて集音機を使用したのだ。あんな大芝居を打って、窓に集音機をつけるような連中はいないであろうし、あの建物の立地条件からして窓に重火器類を使用して集音機を打ち込むのは余程の腕前の持ち主でなくては無理であった。唯一、可能な建物が消防署では、大芝居を打つよりも困難である。
『ブァカモノ』
 激しい怒りの声がその部屋に居る全員の耳に届いていた。
『ですが……』
 と一人の男が声を震わせながらも、反論しようとする。
『誰が、手を出せと言ったんだ。見張っていろと命じたはずだ』
『ですが、あんなほそっこい連中、簡単に始末…』
『煩い。お前達の不手際で、あの男が動き出したんだ。完全な事故死にみせかけろといったはずだ』
『今度はしくじりません。あいつらを始末してみせます』
 暫し間がある。
『分かった、但し、次に失敗したら、終わりだ』
 やがて足音が遠くなり、部屋の扉が閉じる音がする。
 静かになった部屋にギィギィと椅子に座って揺らす音だけが響いている。
『馬鹿な女だな、ヒルダ。お前も、俺の言うことを聞いてさえいれば、こんなことにはならなかったんだ。どんなに俺が君を信用していたか分かるかい? それなのに君は俺を裏切ろうとした。子供の頃からの君を知っている兄妹のようにして育った俺ではなく、よりによってあの男を選んだのが間違いだった。ちゃんと君が任務を実行していれば。お互いにこんな悲劇は起きなかったと思うよ。ヒルダ』
 と独りで呟く男の声はどこか病的であった。
 幾度も聞いたエンジェル達ですらおぞましさを覚えるのだ。婚約者を殺されたハインリヒの心情は計り知れない。隣に座っていたジェットの手がハインリヒの硬く結ばれた拳を包み込むように置かれた。
 ピュンマとフランソワーズはヒルダの過去を洗い出し、ジェットはハインリヒからヒルダの部屋の鍵を借りて現在の彼女の交友関係を洗っていた為、何かとハインリヒとの接触が多くあった。
 触れ合う日々の中で、恋人を失い打ちひしがれながらも、でも、自分を見失うことを恐れて必死で生きていこうとする男に、同情に近い心を寄せていた。独りの人を愛するというその真摯な態度に好意を抱き始めていた。
 また、ヒルダを失くして以降、ヒルダのことを悪く言う人は居ても、良く言う人はいなかった中でジェットだけは違った。手掛かりを求めてヒルダの部屋にジェットを連れていった時も、彼は二人が幸せそうに笑いながら写っている写真を見て、ヒルダはとても貴方を愛していたんだと、そう言ってくれた。
 彼女が経歴を詐称していると分かっていても、その態度を彼は決して変えはしなかった。自分に何故、本当のことを話してくれなかったのだと、責めているような言葉を口にするハインリヒに対して、好きだから言えなかったのだと、まるでヒルダの心が彼を通して感じられるそんな錯覚すら覚える瞬間が幾度もあった。
「声の主は知ってると思うけど、貴方のライバル会社と言われている社のオーナーで、スカール・クロマノフ。ヒルダとの関係は今から二〇年以上前に遡らなくてはならない」
 とピュンマは牧師夫婦に借りた一枚のあの写真をテーブルに滑らせた。
 ぴたりとハインリヒの前で止まる。
 少し古びた一枚の写真。
 少女と少年が写り込んだ何の変哲もない一枚の写真、凝視するハインリヒの瞳は次第に大きく開かれて突然、ピュンマにその鋭い視線を投げかける。
「フランソワーズとヒルダの過去を追って、僕たちはグリーンベイと言う町に行ったんだ。知ってますか」
「ああ、フットボールチームで有名だし、彼女はバッカーズの熱烈なファンだった」
「その町で彼女は育ち、一度結婚しています。その時のご主人の姓がホープで、離婚後もその姓を名乗り、離婚後デトロイド、サンタマリア、と転々としてこのロスにやってきたようです。経歴を詐称し、クロマノフの会社に入社した。元々頭のよい女性だったようで、仕事もテキパキこなし、人事部の部長のお眼鏡にかかり秘書室勤務を命じられ……それが彼女の運命を大きく変えた」
 ピュンマはそこまで語ると、冷めたコーヒーを口に含んだ。いつも思うことだが、どうして依頼人は打ちひしがれるのだろう、どう受け止めたとしてもそれは真実であることには違いないのにと、でも、それをおくびにもださずに続けてよろしいですかと、依頼人を促した。
「どうして、彼だと」
「貴方の資料の中に、貴方の会社と深い関わりのある会社の重役以上のリストの中に彼の顔があったんです。名前は違うけれども、彼であることには違いない。写真を見たその瞬間は思い出せなかったんですがね。実際に手を下したと思われる二人組を尾行していった時、二人組は彼の住んでいるペントハウスを尋ねていった。それで、全ての糸が解れたというわけです」
 お分かりですかとの視線にハインリヒは力なくああと答える。
「つまり、ヒルダは最初、わが社が現在開発しているシステムの情報を手に入れる為に、俺に近付いたんだ」
「ええ、間違いないと思います」
 ピュンマは眉一つ動かさずにありのままの答えを告げる。
「俺を利用しようとして」
 ハインリヒは頭を抱えて、背を丸く窄めた。
 認めたくはないのだ。自分に近付いた切っ掛けはスパイが目的だったなんて、本当に愛していたのに、彼女の心を。経歴でも、容姿でもない。優しいその心を愛したのだ。何故、それを自分に打ち明けてくれなかったのか悔やまれてならない。
「あの女は」
 だからこそ、辛さのあまりそんな言葉が出てくる。
 思ってもいないのに、そんなやり場のない感情を死んでしまった彼女にしかぶつける先が見付からない。
「騙しやがって」
 誰もがかける言葉を持ちはしなかった。
「違うよ。ハインリヒ」
 泣いてはいないのに、泣いてるように見える男の背中をジェットは優しく自らの躯で包み込み、まるで、聞き分けのない弟に姉が優しく語り掛けるように、丸めた背中を何度も撫でる。
「最初は、そうだったのかもしれない。でも、あんたを愛してしまった。だからあんたに嫌われたくなくて、あんたを巻き込みたくなくて言えなかった。多分、何度も、打ち明けようとは思ったはずだ。貴方を騙せるような女性ではないことを貴方が、彼女を愛している貴方が誰よりも知ってるはずだ」
 ジェットのその言葉に事務所はしいんと静まりかえった。
 昼間であるのにもかかわらず、深夜のような静けさが部屋の中を包む。
「ずずず……。あまりにも惨いことです」
 とその静けさを破ったのはグレートであった。鼻水を啜り上げて白いハンカチで涙を拭う。その芝居じみた仕草によって、凍っていた事務所の雰囲気が少し和らいだ。
「愛し合っている恋人を引き裂く権利は誰にもないですな。イワン」
『アア、ソウダネ』
 ボスのイワンの声がスピーカーを通して聞こえてくる。
「イワン、俺はどうしたらいいんだ」
 ハインリヒは背を丸めて俯いたまま、長年の友人であるイワンにそう問い掛ける。とても混乱していて自分でもどうしたらよいのか分からないのだ。ヒルダを愛している。そして彼女も自分を愛してくれていた。あの愛情に嘘はないけれども、でも、そんな理由があって近付いたのは、いやそれを自分に話してくれなかったことが彼の心を深く傷付けたのだった。
『キミハドウシタイ?』
「わからない」
『スコシ、カンガエルトイイ。スカールヲカノジョヲコロシタツミデコクハツスルノカ、アルイハベツノホウホウデシャカイテキニマッサツスルノカ、ソレハキミガエラベバイイ。ボクモ、エンジェルタチモキミニキョウリョクスルヨ』
「ああ、ありがとう。イワン」
 ハインリヒは力なく立ち上がる。
「送って行くよ」
 そんなハインリヒを支えるようジェットも立ち上がった。
「いや」
「さあ」
 少し強引にジェットに引き摺られるようにハインリヒは事務所を後にした。正直彼も、何も考えたくもなかったし、何もしたくはなかった。それ程に、愛する人の裏切りが彼の心を深く傷付けたのだ。
 それに追い討ちをかけたのはスカールの存在だ。
 全く知らぬ仲ではない。業界関係のパーティや若い経営者同士で何かとバッティングする機会もあり、幾度も話したこともある。その彼がヒルダを直接ではないにしても、殺すように命じていたことに更なるショックを覚えていたのだった。
「オレ、ハインリヒを送ってくるから」
 と事務所の扉が閉められたのだった。




◆過去の愛と未来の恋

「大丈夫か」
 青褪めた死人のような顔色になってしまった自分より体格の良い男を支えながら、ジェットはゆっくりと部屋を横切った。無駄に広く閑散として生活感のない部屋のソファーに座らせると、勝手知ったるという顔でリビングの一角にあるミニバーに入り、でっぷりとしたブランデーグラスに琥珀色の液体を注ぐ。年代も銘柄も確かめはしなかった。
 どうせ、依頼人である彼は金持ちなのだ。
 酒の一本ぐらいどうということはないだろう。
 それに、そのブランデーは封が切られて残りは僅かだったのだ。誰が呑んだかは知らないが、訪ねて来る者はほとんどいないと言っていたから本人が呑んだのだろう。でも、何度か尋ねて来たことのあるこの屋敷のリビング、このミニバーにも入ったことはあるが、三日前はこのブランデーの封は切られてはいなかった。
 注意散漫で短気なようで、ジェットだとて探偵の端くれなのだ。状況を観察することが出来る目は持っているのだ。でなくては、決してイワンはジェットをエンジェルとしてはスカウトしなかった。
 ソファーに腰を下ろして、頭を抱えたまま動かない男の肩に手を置くと、男が顔を上げる。
「呑めよ。少しは落ち着く」
 並々と注いだブランデーを手渡すと、夜の空気にブランデーの芳醇な香りが溶け出していく。そして、黙ったままジェットは隣に腰掛けた。この男が少し、落ち着くまでは、呑んだくれてでも眠りに落ちるまではついていてあげたいとそう思ったのだ。
「ああ」
 男はそれを受け取ると、全てを一気に流し込んだが、そのアルコールの強さに噎せてしまう。幾度も咳をしつつ、噎せ返る男の広い背中をジェットは無言で撫で続けていた。普通、依頼人に対してはこんなことはしない。
 調査結果にショックを受けた依頼人を自宅まで送り届けることはあっても、特殊な事情がない限りは傍にいることなどないのだ。
 でも、彼をそのままにして帰ることは出来なかった。
 独りの女を心底愛して、結婚まで考えた相手が社会的に自分と同じような立場で、何かとライバルと称されてきた良き盟友だと思っていたその相手の手先で自分をスパイに来ていたのだ。
 彼女の愛情を信じろという方が難しいかもしれない。
 でも、彼女は情報を渡すことを拒んだから、裏切り者として抹殺されたのだとしても、全てを消化して自分の中で整理するのはどんな優れた強靭な精神の持ち主でも難しいだろう。平気な振りをするのは簡単だ。
 忘れた振りをするのもいいだろう、でも、それに敢えて真っ向からぶつかることしか知らない不器用な男にジェットは好意を抱いたのだ。
 ヒルダの交友関係や彼女の過去を探るために、幾度も彼女の部屋を訪れた。
 懐かしそうに家具の一つ一つに触れる彼の姿に心が痛んだ。
 彼女の遺品の一つ一つに触れるごとに不思議と彼女の気持ちが分かる気がした。愛した男に対して持つ秘密、婚約までしておきながら、全てを告げられぬ苦悩。断ち切りたい過去の絆、それらの中で苦悩を続けながらも決して彼から離れたいとは思えなかった。彼に対する愛情が憑依したかのようにジェットには感じられていた。
「畜生っ!」
 ハイリンリヒは手にしていたグラスを壁に叩き付けた。一つの染みすらない白い壁にグラスの中に僅かに残っていたブランデーの滴が薄い茶色い染みを作りだしていく。
「ハインリヒ」
 決して感情的ではなく労わるように寄せられる声が、却ってハインリヒの神経を逆撫でした。どうして、独りにしておいてはくれないのだ。ヒルダに対しての整理のつかぬ感情を持て余してどん底まで落ちる気分を味わいたいのだ。
 自分では、もうどうしたいとも、どうしようとも考えられない。
 ただ、裏切ったのだという気持ちと、そうでない気持ちの間を自分の心は振り子のように揺れて、どちらにもつけないでいる。
 どうして、彼女の死の真相を知ろうとしてしまったのだろう。警察の言う通りに事故死だと思っていれば良かった。悲しみはあったとしても、女に裏切られた惨めな男の姿を晒さなくとも済んだではないのか。
 ぐっと血の気が引くまで握りこんだその手をそっと包む温かい手があった。
 何も言わずに触れる白い手。
 手の甲から、肘、肩にと視線を滑らせていくとそこには白い小さな、赤味をおびた金髪に縁取られた顔があった。
 困ったように眉を寄せて、秘めやかな笑みを口唇に湛えたその表情。決して、ヒルダもハインリヒも責めない、誰が悪いとも語らない。ただ嵐のように吹き荒れるハインリヒの心を抱き締めてくれようとする優しさがそこにはあった。
 見掛けよりずっと情に厚く、激しい気性を持つ男は恋愛においてもそれは例外ではなかったのだ。
「ジェット」
「泣けばいいのに、叫べばいいのに…、それでどうなるってもんじゃないけど、少しは気が晴れるかもしれない」
 そう言うと笑みを少しだけ深くして、ハインリヒの背中をそっと抱き寄せた。ヒルダのように豊満な胸ではないけれども、抱き寄せられたその場所はとても温かいと素直に思える。
「年下の俺の言うのもなんだけどさ。あんたは、悲しいってことを伝えるのが下手だよ。もっと、誰かにそれを伝えられたら自分は楽になれるとか思ったことはない」
「誰に伝えるんだ。俺には家族はいない。唯一、家族が持てるとそう思った…」
 ジェットはそうかと溜息のような台詞を零すと、もっと力強くアルベルトを抱き締めた。自分が全ての悲しみを受け止めてあげるとでも言うようなそんな力強さであった。
「誰でもいいさ。通りすがりの人だって、却ってそういう、二度とは会わないだろう人の方が気が楽かもな」
 と暗に自分にその悲しみを話してみたらどうなのだとハインリヒに伝えて寄越した。誰かに甘えることが、自分の気持ちを伝えることが不器用な男は、ジェットに縋ってしまいたいとそう思った。
 依頼人と探偵、多分、調査を自分が終了させれば二度と会わない相手。
 多分、それでもいいのだと、ジェットがそう言っているようにハインリヒには、都合が良いとそう囁く自分もいなくはなかったが、今はその手に縋りたい。
「誰でも、どんな依頼人にでも、こんなに……」
「いや」
 ジェットの口唇がハインリヒの髪に寄せられる。吐息が髪にかかり温かな空気が頭皮に触れ、甘いけれども、いやらしさのない不思議なコロンの匂いに包まれる。ヒルダとは全く違う、コロンやまして香水を好まなかった彼女とは何もかもが違う。でも、自分を包み込んでくれるその腕の優しさ、胸の温もりにハインリヒは深い安堵感を覚える。
 何もかもが赦される彼女の腕にいるという都合の良い錯覚であった。
 背中に腕を回して、抱き寄せても逆らうことなく痩躯は腕の中に定められていた運命の如くすっぽりと納まる。
 顔を上げるとそこにはあるのはヒルダの顔ではなくジェットの顔であった。
「あんた、だけだ」
 囁く程の小さな声。
 誰でも良かった。
 自分を今夜、悲しみから救い上げてくれるのならばその手が誰のものであったとしても享受したいそんな気持ちにハインリヒはなっていたのだ。
 そっと、その小作りな顔に自分の顔を寄せ、未だそばかすの痕が残る目元に小さくキスを落とす、すらりと通った鼻梁にも、そして赤い口唇にも、じっと動かない彼がふととても大切なものに思えてしまったのだ。
「こんなこともか」
 自分で思っていた以上に落ち着いたいつもの自分の近い声が喉を通って、空気を震わせる。静かな空間に響く自分の声、不思議だ。先刻までヒルダのことで取り乱していた自分が今はこうして腕の中の美人を抱こうとしているのだ。
「ああ、あんただけ」
 そうはんなりと笑うと、ジェットは瞳を閉じた。






「っあん」
 白い肢体が白いシーツを泳いだ。何も身に着けないしなやかな足がシーツを掻き、赤く彩られた爪先が誘うように揺れた。
 男も女も関係のない時代になったとは言え、同性同士の恋愛に踏み込めない人達も沢山いる。それは嗜好の問題と言ってしまえば、それまでだが、ハインリヒの恋愛の相手は女性ばかりであった。もちろん男性同士のセックスの遣り方を知らぬわけではないが、心を捉えるのはいつも女性であったのだ。
 女性よりも肌理の細やかな肌、触れただけで快楽に身を震わせる躯。
 どれも初めて経験であったのだ。
 一度、彼の中で逐情したにも関わらずその欲求が止まらない。ヒルダを失って一ヶ月と少し自らを慰めた夜すらないハインリヒにしてみれば久しぶりの吐精であった。にしても、余裕のないセックスを覚えたばかりの少年のように細いまだ少年の域を脱したばかりのこの肢体に溺れていた。
「アルベルト…」
 喘ぎでかすれた声が耳朶を打ち、誘うように揺れる足を取り、その踝に口付ける。ちょこんと出た可愛らしい踝から、脹脛、膝を経て、未だ一度も達していないその場所へと辿り着いた。
 指で触れると躯を捩って嫌がった。
 もっと、全てのタガを外して乱れられるのかと思えばジェットは様々な制約を無言でこのセックスに示してきた。でも、名前を呼んでもらうことだけは譲れなくて、でも、アルという愛称だけは呼べないと、アルベルトで勘弁なとそうジェットは目元を染めて言ったのだ。
「ダメ…ッダぁ、ぁああ、アルベルト」
 喘ぎながらもアルベルトの手を払い退ける。青いこのロサンジェルスの空をそのまま嵌め込んだような瞳は情欲で濡れているのに決して、アルベルトに局部を一切触れさせようとはしない。
「俺がしてやるから」
 と震える躯を起こして、アルベルト自身の精液で濡れたペニスを構わずに握り締めると、先端からゆっくりとその汚れを清めるように舌を這わせた。自分には男とのセックスの経験がないことは知っている。
 ヒルダの身辺調査をするジェットに無理を言ってついて行っていたのだ。車の中や人を待っている間、事務所や、そんな時間の狭間で互いの話をした。だから、彼は遠慮しているのだ。
 自分を抱くのは、悲しみを紛らわせる為で、気紛れで、それでも尚、決してアルベルトが傷付かぬようにジェットは気を使ってくれている。それが、嬉しくもあり、情けなくも有り、複雑であったけれども、ジェットの齎す快楽は今まで味わったことのないものであったのは確かだ。
 見せ付けるように舌を伸ばして這わせ、音を立ててアルベルトのペニスに吸い付いた。白い背中を晒して、腰を揺らす、しっかりと立ち上がったアルベルトを確認すると、伏し目がちのまま囁いた。
「どっちがイイ」
 このまま、口で逝かせて欲しいのか、それともとアルベルトに問うているのだ。アルベルトは彼の中で達したかった。温かなあの場所で一度味わったら忘れられないあの場所で、女性とは経験したことのない未知の場所はアルベルトを一瞬にして虜にしてしまったのだ。
 黙ったまま、白い背中に手を這わせてその綻び、自分の精液で濡れたその場所に指を押し込んだ。
「っっぅう…、っふん、待てって…」
 と膝を支点に自らの躯の向きを代えると白い双丘を晒し、自らの手でその狭間にある石榴のように熟れたアナルの内壁が見える程に開いてみせる。
「いいぜ」
 でも、それが我慢ならなかった。
 これでは誰を抱いているのか分からないではないか、抱いているのはその辺りが拾った女でもなければ、ヒルダでもないジェットなのだ。アルベルトはそれを確認したかった。強引に細い腰を持って引きずると躯を反転させ、そのまま覆い被さった。
 そして、膝の裏を持ち上げて、ペニスを握りながらその場所を探し出すと、強引に捻り込んだ。
「ひっ…、っくんぁ」
 ジェットの背が反り、助けを求めるように腕が宙を泳ぐ、その腕を自分の背中に回させるとしっかりとそれは縋りついてきてくれる。
「ジェット」
 耳朶にその名前だけを注ぎ込んで、アルベルトはただひたすらジェットの存在を認めた。彼だけが自分をこの絶望から救ってくれる気がして、今のアルベルトにはそれしか救いがなかったのである。
 優しく、綺麗な彼は神が使わしたエンジェルだと。
 だから、ヒルダへの裏切りにはならないと、そんな身勝手なことを思いながら、でも、肉体はジェットのしなやかな肢体を求めて尽きることのない欲望をただ、ただ、彼に注ぎ込もうとしていた。






『ジェット』
 空気がふんわりと動く、あまり睡眠の深い方ではないジェットではあるが、何故かその声に目覚めようといることを躯が拒否していた。
 幾度も開かない扉を叩くように、自らの躯を動かす為に幾度も足掻いて、ようやく重たい瞼を開くことが出来た。
 ここが一瞬何処なのか分からなかったが、ベッドから抜け出そうと躯を動かした瞬間にようやくジェットは自分の置かれていた状態を理解した。アルベルトは、いやハインリヒはとベッドの隣を探るが彼の姿はなく、かなり温もりの失せたシーツがあるだけであった。
 いやな予感がジェットを横切った。
 アナルに残る違和感に目を瞑って、無理に起き上がるとシーツを巻きつけて屋敷中ハインリヒの名前を呼んで探したが、見付けたのは濡れたバスルームと着替えたらしい痕跡だけだった。
 車庫に行くと其処には彼の愛車がない。
 もう一度、ベッドルームに取って返して、サイドテーブルの引き出しを開ける。が、其処には弾が入っていたと思しき、箱だけが残されていた。
 聞いたことがあったからだ。
 ベッドのサイドテーブルにヒルダが護身用として拳銃を入れていたのだと、それが無くなっていた。ハインリヒがそれを持って何処かに行ったとしか考えられない。もう、それは一箇所しかない。
 ジェットは自分を悔やんだ。
 一瞬だとて惚れてるなんて、依頼人に馬鹿な気を起こしたことを、彼を慰めたいという同情だとしても寝るんじゃなかったと、ちゃんと見張っていて止めるべきだったと。
 彼は、スカールを殺しにいったのだ。
 彼に人を殺させるわけには行かない。
 ベッドの脇に置かれた椅子の背にジェットの着ていた服が掛けられて、座面にはバックが置かれていた、其処から携帯電話を出すと、ジェットは頼れる仲間たちに電話をした。
「フランソワーズ、アル、ハインリヒがっ……」




◆復讐する権利を持つ者

 まだ、陽がようやく昇り始めた時間だ。水平線から顔を出す太陽の美しさすら鑑賞している余裕がジェットにはなかった。ただ、モーターボートの行く末をじっと見守っている。
 ダイビンクスーツを身につけ、船首に仁王立ちになっているジェットの赤味のかかった金髪は太陽の光を受けてよりいっそうキラキラと美しく輝いていた。神々しくも、哀しく寂しそうなその姿にフランソワーズは声を掛けずにはいられなかった。
「ジェット」
 後からそっとその薄い肩に手を置くと、泣きそうに歪んだジェットの顔があった。
「俺が、もっとちゃんとアルベルトを見張っていたら、彼がこんなことをしなかったのに…、依頼人とは事件が終るまで関係を持たないなんて偉そうに言ってたけど、あいつと寝ちまった。フラン、やっぱ、俺、探偵失格かもな」
「ジェット、彼と寝たんじゃないわ。彼を、悲しみに暮れた彼を慰めただけなのよ。貴方は悪くない」
「でも…」
 何か言い募ろうとするジェットの口唇にフランソワーズは白い指を当てて、お黙りなさいとそう笑う。
「彼がスカールに復讐に行くってことは既にイワンが推測していたことだし、ちょっと予定は早まったけど、色々と下準備は済んでいたわ。彼を貴方が少しの時間でも引き止めておいてくれて、却って助かったぐらいよ。事務所からスカールのところに直行されたら、彼のフォローも出来なかったもの、ね」
 船体が浮き、二人に水飛沫が掛かった。
「ちょっと、グレート」
 とフランソワーズが抗議の声を上げる。
 だが、グレートは笑って視線だけて見てみろと行く末を指差すと小さな島影が見える。
 ハインリヒの屋敷を慌てて後にしたジェットはフランソワーズの指示通りに、ロングビーチにある船着場に直行した、そこで待機していたフランソワーズとグレートと共にあの島を目指しているのだ。
 其処には、スカールと彼を殺す為に出掛けていったハインリヒが居るはずなのだ。ロングビーチから船で数分から、数時間で行ける距離にはいくつかの島が点在している。大きな島もあるのだが、地図にも載らないような小さな島もある。
 金持ち達はそういう島を買い取り、自らのプライベートビーチとして利用しているのだ。向かっている島もそんな島の一つでスカールが所有している。
「フランソワーズに、ジェット、出番ですぞ。我輩は待機しておりますりので、何かありましたら…」
 と島の西側、大きく切り立った岩場が見えるその場所にボートを止める。
 島と、その中心に建てられたというより島全体が要塞の如くの造りのこのスカールの島は西からが一番視界が悪い、それを狙って西から侵入しようというつもりなのだ。グレートは如何にも暢気な釣り人を装うための軽装で麦藁帽子を被り、釣り糸を垂れた。そして、船影に隠れるようにフランソワーズとジェットは海中へと姿を消して行った。
「エンジェル諸君、吉報をお待ちしておりますぞ」
 とグレートは密かに呟いたのであった。






 コンクリートが打ちっぱなしになった半地下の広い部屋には幾つかの機材が散乱していた。何台ものコンピューターを無数の配線が繋ぎ、まるでNASAを思い出させる様相にピュンマは肩を竦めた。
 ジェットがハインリヒを送ると言って姿を消した直後、イワンからの指令でスカールと接触を図ったのだった。
 イワンは既にこの事態を予測しており、ハインリヒを助け出し、スカールの悪事を暴く為の作戦を立てていたのだ。
 ハインリヒの会社の重役で開発の総責任者で、偉大な科学者でもあるアイザック・ギルモア博士はイワンにとってはハインリヒ以上に古い友人で、至極親しい間柄だと言うのだ。ハインリヒとの交際もギルモア博士によるものだとそう教えてくれた。
 そのギルモア博士に頼んで、あるソフトを構築してもらったのだ。
 それを持ってピュンマはこの島にスカールを尋ねた。
 モーターボートでこの島にやってきた時に出迎えたのは、何とピュンマを襲ったあの男であった。男は警戒心を露にしながらもピュンマをこの部屋に案内して、じっとピュンマの行動を見張っている。
 ピュンマが座っている一角だけはソファーセットが置いてあり、本当に研究所のようである。そのソファーも薄汚く、ポテトチップスの屑やテーブルには空になったコーラの缶、仮眠用の毛布などが置いてあり、妙な生活感を感じさせてくれる。
 ピュンマが身動ぎする度に男の手が腰に掛かる。腰のホルダーには拳銃が吊ってあるのは分かっているから、自分はスカールと取引をしに来たとの態度を崩さなかった。
「いつまで待たせるつもりだ」
 ピュンマはうっとおしいとばかりに眼差しを男に向ける。
 被っていた鍔の広い帽子を被り直して、白い裾の長い上着の裾を弄んで気だるい雰囲気を作る。褐色の肌に生える真っ赤なマニキュアが白い薄手の生地を滑り、かりっと爪を噛んだ。
「お待たせして申し訳ない」
 とスカールは仰々しい態度で現れた。
 その割りに服装は地味で、そのギャップがなんとも奇妙な不可解なものにピュンマには見え、これで、マントでも着て現れれば普通なのにとそう思える仕草をする男であった。
「こんなに美しい方をお待たせしてしまって、しかし、予定外の訪問者がありましてな」
「そう」
 ピュンマは全く、関係がないし興味がないとそっぽを向いた。
 そのピュンマの手を取り、恭しくスカールは口付けるとピュンマの隣に座り、その躯を抱き締めるように上体だけをピュンマに向ける。
 ピュンマも負けじとスカールに向き直り、足を組み替えて見せた。躯にフィットする白い膝上のまでしかないパンツ、白いノースリーブのインナー、その上からは白いふわりと僅かな風にすら踊るように軽い素材で作られた踝近くまで丈のある上着を羽織っている。
 褐色の肌に生える白い服は、ピュンマをセクシーにそして何よりも妖艶に見せていた。
「電話で、話したのだけれど…」
「貴方は、お美しいのにせっかちですね」
「ああ、すぐにでも取引を済ませて、夕方の便ででも、ニースにでも行きたいんだ。取り敢えずは、ゆっくりと優雅に休暇を楽しむのも、ああ、だったらドバイ辺りで、金持ちの男引っ掛けるのも悪くないな。もう、アメリカなんかクソクラエ、今度はヨーロッパで優雅にゆっくりと生活したいと思ってね。でも、先立つものが必要だろう?」
 ピュンマは持っていた白いビーズで作られたバッグを膝の上に乗せ、ジェットが自分達におねだりするのを真似て首を傾げてみた。
「聞いてもよろしいですかな」
 ピュンマは明らかに眉を顰める。
「客人にコーヒーも出ないのか」
 その台詞にスカールは腹を抱えて笑う。
 そして、ピュンマを見張っていた男にコーヒーを持って来るように言いつけた。これで、この部屋には二人っきりになる。万が一のことがあったとしても、相手にするのはスカール一人で済む。あの男とスカール、今のピュンマの装備で相手をするには聊か心もとないのだ。
「さて」
「ああ、貴方の欲しがっているモノはここにある」
 膝の上のバッグを軽く叩いた、それに向かって手を伸ばすスカールの手をぱちりと叩き落として、目尻の皺を深くして、慈悲に満ちたように見えるピュンマ独特の笑みを一つ落とす。
「オイタはいけないなぁ〜」
 スカールは手を引っ込めて、それを今度はピュンマの肩に遠慮なく回して、上着の布に触れる振りをして肩を抱く、そちらはしたいようにさせておきその出方を待った。
「でも、どうして俺と取引をしようと」
「これを喉から手が出るくらい、欲しいと思ってるのは貴方の方だ。探偵っていったって雇われだし、贅沢は出来ないしね。僕は贅沢がしたい。こせこせ働きたくないよ、もう。それにいくらお金の為とはいえ、誰かのものになる気もないからね。だったら、これはチャンスだろ」
「では、これを何処で」
「ミスター・ハインリヒに依頼を受けてて、彼の周辺を出入りしても怪しまれないからね。調査って言って研究所を出入りして、その間に、こっそり拝借させてもらったよ」
 他に質問は、とピュンマは優雅に笑う。
 スカールはジャケットの内ポケットから、一枚の小切手を取り出した。額面だけが書かれていない。
「キミの望む額を書いて、その可愛らしいバッグに仕舞ったら、俺にそいつを渡してもらえないか」
 ピュンマは曖昧などうとも取れる笑みを零すと、ひらひらとピュンマの視界で踊らされている小切手をひょいっと取り上げて、銀行名やスカールの署名を手早くチェックしてみせる。
「本物みたいだな」
 とピュンマはスカールにバッグからディスクを取り出し手渡した。ひったくるようにそれを取ると、ピュンマに対して銃口を向けた。スカールは自分が銃を持っているなどとピュンマが気付くとは思ってはいなかった。
 雇われ者の男たちの報告を聞けば、やり手の強い探偵かと思えば、実際に見た彼は華奢で、すらりとした魅力的で美しくとても銃をぶっ放して派手な格闘をするようには見えない。それよりも、ベッドで男を誘っていたほうが余程似合いだとスカールはそう思った。
「何? それ」
 それでもピュンマは動じない。
「僕を撃ったら、キミの欲しがったシステムは手に入らないよ」
「なんだとぉ〜」
 スカールの声が突然、乱暴なものになる。ピュンマを口説こうとしているとすら聞こえる口調は何処にもない。慣れた手つきで銃を構える彼は決して素人なのではないとピュンマはそう見抜いていた。
 人を自分の手で殺したことはなくとも人に向かって明らかに殺意、もしくは傷付けようとの意図の元、発砲した経験はあるとそう思わせる手慣れた仕草であった。
「僕だって、馬鹿ぢゃない。手渡した瞬間にズトーンとやられたらたまらない。そいつは、あんたが欲しがっているシステムのほとんどだけど、重要な部分は僕の持ってるもう一枚のディスクに入っている。そのもう一枚のディスクの内容を今、あんたが持ってるディスクの内容にインストールしない限り、そのシステムの全貌は分かりはしない。だから、僕を殺せない。僕が無事にお金を受け取ったら、最後の一枚は送る。なんなら、キミの部下が僕に着いて来て、手渡ししてもいいよ。ただし、その場合は僕が空港に入って飛行機に乗る直前にしか渡せないけどね」
 ピュンマは当たり前という顔をする。
 全部渡して、殺されては何の得にもなりはしない。この男も全てをあっさり自分が手渡すとは全く思っていないだろう。
「だが、お前を捕らえて、その場所を吐かせるって手もあるんだぜ。お嬢ちゃん」
「それは、無理。僕が昼までに事務所に連絡を入れるか、もしくは現れなかったらすぐさまに警察が動き出すことになってる。探偵なんてヤバイ仕事が多いからね。定時連絡をしないだけで、大事になる。それに、そういう場合に備えて、ここに来るって伝言サービスに残してきたしね」
 どうすると、スカールに勝負を挑む。
 暫しの睨み合いの後に、結局スカールが折れた。
「とにかく、そのディスクの中身を確認させてもらう」
「どうぞ、でも、コーヒーまだなのか」
 喉が渇いたと急に甘えた声を出して、帽子をもう一度被り直し、肩から少しずり落ちかかっていた上着を直そうとするとバッグが音を立てて床に落ちる。あらあらと暢気にしゃがみこんで散らばった中身をかき集めている間、その気配を背後で感じながらスカールは部屋に散乱するコンピューターでそのディスクの中身を取り出そうと凄まじい速さでキィボードを叩いていた。
 暫し静かな時間が流れる。
 ぶちまけたバッグの中身を回収したピュンマはソファーに深く座り直して、赤く塗られた自分の指の爪を鑑賞することに時間を費やし、スカールはブラウザを睨んだまま、ぴくりとも動かなかった。






「っちくしょ〜」
 スカールが大声を上げて、キィボードを床に叩きつける。ぐしゃりとキィボードが床でひしゃげる音がして、机に置いてあった銃口を再び、ピュンマに向けた。
 コンピューターの群れがエラー音を立てる。
 画面が真っ赤に血塗られようになり、笑うドクロマークが数多くのブラウザを埋め尽くしていた。
 ギルモア博士が構築したソフトはピュンマが言ったとおり、一見、データファイルを検索した限りではスカールが欲しがっていたとあるシステムに関する情報が入っているように見えるのだが、それを開けてある一定の時間が過ぎるとそれに繋がるコンピューターの情報全てをギルモア博士が持っているコンピューターに瞬時にバックアップという形で転送された後、スカールのコンピューターがダウンするはずだったのだが、こんなに遊び心があるとはとピュンマは感心をした。堅物の社長の下にいるわりにはユーモアのセンスがある。そのデータを受け取った時に顔を見ただけであった博士の容貌からは思いもつかないトラップであった。
「言えっぇ〜」
 数発の銃弾がピュンマを掠めて飛んでくる。ピュンマを殺さない程度の理性が残っていることにピュンマは聊か、この男の精神力に驚きながらも弾を交わしつつソファーの裏に回りこんで安全を確保した。
「どうしましたかっ!」
 コーヒーを取りに行っていた男が銃声を聞きつけたのか、慌てふためいて部屋に入ってきた瞬間、突然、マシンガンの派手な音が響き渡った。ピュンマはただひたすらソファーの裏側で身を小さくしてその音が過ぎるのを待っている。
 窓ガラスが割れ、エラー音を響かせていたコンピューターが火花を立てて壊れていく、硝煙の匂いが立ち込めて暫く視界が確保出来なかった。
「ハーイ!」
 そんな中、まるで、いいお天気ねと続きそうな暢気な声が天上に近い部分から聞こえてくる。
 フランソワーズが半地下にあるこの部屋の明り取りの為の嵌め殺しの窓をベレッタM93Rマシンガンでぶっ壊したのであった。何ともおしとやかな侵入方法だとピュンマが肩を竦める間にロープを垂らしてするすると軽やかに部屋に舞い降りた。
 そして、ピュンマに向かって、一メートルほどの長さの黒いグラスファイバー製の棒を投げた。
 地面に伏してマシンガンのあられから身を守っていたスカールと彼に雇われた探偵は飛び散ったガラスの破片を乱暴に払い除けると、スカールはピュンマに銃口を再び、向ける。
 だが、銃口の先にはピュンマの姿はない。
 何処だと、埃の舞う部屋に視線を走らせた瞬間。
 背後から、肩を叩くものが居る。
 振り返った瞬間、手首に激痛が走り銃を落としてしまっていた。
 目の前には黒い棒を携えたピュンマが立っていた。
「スカール、観念したらどうだい」
「馬鹿者」
 と叫んだ瞬間、ピュンマの腹目掛けて鋭い中段蹴りが飛ぶ、寸でそれを避けるとピュンマはスカールと間合いを取る。スカールも、落としてしまった銃には目もくれない。先制攻撃を仕掛けたのはスカールであった。
 間合いをぐっと詰めて、正眼の構えから、真正面に連打を放ち、お留守になった下半身に回し蹴りをいれようとしたが、その動きをピュンマはちゃんと見抜いていた。
 真正面のからの拳を右に左に身を捩りながら避け、回し蹴りが飛ぶ瞬間に持っていた棒を地面についてそれを支点にしてひらりと宙に舞い上がった。白い裾の長い上着が舞いまるで白鳥が翼を広げたの如くに優雅な光景が其処にはあった。
 その白い翼の如く舞う上着の裾で視界を塞がれたスカールの足元を、今度はピュンマの黒い棒が蛇のように襲い掛かった。
 鋭い痛みと共に、スカールが地面に叩きつけられる。
 ピュンマが、転んだスカールに伸し掛かり拘束してしまおうと距離を詰めた時、スカールは足を庇う振りをして足首に隠していたダブルデリンジャーを取り出し、ピュンマに向ける。
「勝負は、終ってはいない。わたしは屈したりはしない」
 そう言いつつ、躯を起こすと数歩壁に向かって下がった。スカールが銃を構えたまま『開け』と言うとまるで、映画か何かのように壁にぽっかりと穴が開き、その姿が吸い込まれる。
 ピュンマも慌てて追うが、壁はしっかりと閉まってしまった。
 フランソワーズが持っていたマシンガンはとフランソワーズに目をやると彼女も雇われ探偵と格闘中であったのだ。






「貴様っ!」
 立ち上がり、スカールを援護しようとした彼の目の前にフランソワーズは立ち塞がった。塞がったというよりも男の立ち上がり様に先制攻撃を仕掛けたのである。顎目掛けて、コンバットブーツを履いたその足で蹴り上げる。
 しかも、ただ蹴るだけではない。
 足に反動をつけて蹴り上げ、そのまま自分の躯を宙で回転させてひらりと床に立つ、男が数歩ふっとばされて破壊されたコンピューターの山に突っ込んだ。
「この、あまぁ〜」
 フランソワーズの先制攻撃に理性を吹っ飛ばした男が、瓦礫を自らの躯から払うことなくゆうらりと立ち上がった。
「女だと思って、手加減してりゃぁ」
 と男は脇の下に隠し持っていた刃渡り三〇センチは優にあるコンバットナイフを抜いた。ぎらりと光るその刃は遠目からでも鈍い輝きを放っていた。男は間合いも関係なくフランソワーズ目掛けて踏み込んで来る。
 右に左に舞うナイフの軽やかさは男の技量の凄さを表していたが、フランソワーズはまるでバレリーナが舞うかの如くにそれを避けていく。バレエで鍛え上げられたフランソワーズの肉体は見かけほどやわではない。舞台を踊りきる体力が必要なのであるからして、彼女の息は決して、上がることはない。
 バレリーナはその優れた動体視力でスピンやターンの合間でも客席が見えるのだ、そのおかげでようやくナイフで傷付けられずに済んではいるが、反撃のチャンスが見えない。相手の気が抜けるのを待つか、どうしようかと考え始めた頃、ピュンマの声が掛かった。
「フランソワーズ、マシンガン」
「ソファーの上よ」
 と答えた瞬間、反応が0.000一秒ほど遅れてしまった。
 彼の鋭いナイフの刃がフランソワーズの自慢の甘栗色の髪を削いだ。
 毛先だけではあったが、フランソワーズの表情が憤怒の表情で彩られて行く。ルージュの塗られた口角がきゅっと上がり不気味な笑みを漏らしたかと思うと、じりじりと後ずさりを始め十二分な距離を取るとフランソワーズは奇声を上げて男目掛けて走って来る。
 男が咄嗟に腰を落として、迎え入れようとしたその瞬間、男の頭上から黒い物体が振り下ろされた。
「うっ」
 呻き声を上げて男は床に倒れていく。
 スカールを逃がしたピュンマが後を追う為に、フランソワーズにマシンガンを借りて壁をぶち破ろうとしたついでにマシンガンで男の頭を殴ったのだ。ゆっくり気配を消して男に近付くピュンマを視界で確認していたから、わざとフランソワーズは気を削ぐ為に奇声を発したのであった。
 フランソワーズはつかつかと男に近寄ると、未だ呻いている男の鳩尾目掛けて大きく後ろに振りかぶった足で渾身の一発をお見舞いする。男は完全に意識を失い沈黙した。
「髪は女の命なんですからね。よぉ〜く、覚えておきなさいよ」
「フランソワーズ、スカールを追うよ」
「ええ」






「アルベルト」
 ジェットは声を潜めて一つ、一つの扉を叩いた。
 フランソワーズと西からこの島に侵入した。
 西側に聳え立つ岩にへばりつく様にして建築つれた城は、外見は中世の城を模して建てられているが、内装はコンクリートが打ちっぱなしのなんとも殺風景な造りである。よく言えば、子供の頃に友達と作って遊んだ秘密基地のような風情がなくはない。
 所々に訳の分からない置物があり、天上からはブランコがぶら下がり、階段の踊り場にはカートも置きっぱなしになっていた。
 ジェットがこの屋敷に侵入したのは最も高い位置にあるテラスからであったのだ。
 途中までフランソワーズと二人で岩場を登り、途中にある明り取りの窓から中を覗くと其処にはピュンマが座っていた。フランソワーズは身振りでだけで、ここから突入するとそう知らせるが、ジェットはそのまま更に高く上っていった。
 イワンが入手したこの屋敷の間取り図からしてハインリヒが幽閉されているのはおそらく最上階にある部屋であろうと言うのだ。
 煙突にも似た塔の一番上の階からの脱走は素人には無理だ。逃げ出す道はドアしかない。そうすれば、逃げられる確率も低いというのがスカールの計算なのだろうと、三本ある塔の中央の一番大きい塔の最上階にジェットは今居る。
 どの部屋にも彼は居ない。
 一体、どこにと周辺を見渡すと其処には小さな更に上に上る梯子があった。用心深くその鉄製の梯子を上り切ると一つだけドアがあった。一見木材で出来たように見える扉にはちょうどジェットが真っ直ぐ立つと顔の辺りにあたる部分に面格子が嵌っていて、何かいかにも幽閉する場所で候という造りに聊か子供っぽさを感じてげんなりとする。
 腰に差していたSIGP210を構えて、ドアに背を預けて辺りを警戒する。もちろん唯一この階へ上がって来られる鉄製の梯子付近にはちらりちらりと視線を送る。
 そして、ゆっくりと立ち上がり面格子になっている部分から中を覗き込むと、其処には椅子に縛られて頭を垂れるハインリヒが居た。
「アルベルトッ!」
 面格子が嵌っている部分にもガラスが嵌め殺しの形で入ってはいるが、ちゃんとジェットの声はハインリヒに届いた。
「無事かっ」
 何を言っているのかは伝わったらしく、ジェットの問いかけに頭を縦に振った。椅子に縛り付けられてはいるが、大きな怪我はないようである。スカールか部下のどちらかに二、三発殴られたらしく目の周りに青痣があるのは見えたが、命に別状がある怪我ではなさそうなことに、ジェットは安堵した。
「今、ここを開けるから」
 と鍵を覗き込もうとした瞬間、ぐわしと摘み上げられる。そして、梯子を伝って上がって来る為の開口部分から下の階に投げ捨てられた。
 とっさに受身はとったが、下は固いコンクリートだ、凄まじい襲撃が襲う。気を失ったら最後だと頭だけはガードしていたが、衝撃はやはり凄まじかった。スタント俳優としての経験はあるが、下にトランポリンを置かないスタントは初めてだなと、痛みを訴える躯を動かして立ち上がった。
 ジェットを投げ飛ばした男は身の丈二メートル以上は優にある。ジェットも決して小柄ではない。細身だから、そんなに背が高いとは思われないがそれでも、自分が首が痛いくらいに見上げなくてはならない人は稀だ。しかし、この男を顔を見る為には首が痛くなるまで顔を上げなくてはならなかった。
 この男はグリーンベイから戻ったフランソワーズとピュンマを襲った二人組のもう一人だ。まるでスモウレスラーのようだったとフランソワーズはそう言っていたが、それにも納得をする。
 この男がジェットの目の前に現れたということはフランソワーズとピュンマは二人組の片割れとスカールと大乱闘の真っ最中なのだろう。だから、ハインリヒを救出に来ると踏んだ彼等は彼をここに使わしたのだ。
 その着眼点は認めるが、いかにもタフを絵に描いたような男をどうするんだとジェットは、じりじりと詰められる距離から逃れるように後退った。フランソワーズが決してスピードがないわけではないし、力も有り余っていたし、弱点って股間ぐらいだわと言っていたことを思い出す。
 隙がない。
 ハインリヒに気を取られて背後の警戒を怠った報いだとジェットは反省するが、反省したところで男の攻撃の手は止まない。すすっとまるで地面を滑るような足音をさせない歩き方でジェットに詰め寄るとその薄い胸を掌でとんと押したように見えた。
 けれども、ジェットの躯は簡単にふっとび、またも壁に叩きつけられる。その瞬間に口の中を切り、血がたらりと口の端から零れた。それをぺっと吐き出すとジェットはそれでも立ち上がる。
「いわれのない暴力はしょっちゅうだったけどよぉ」
 動く度に、肋骨が痛む。折れてはいないと思うが、皹は入ったかな、とジェットは自分の躯を点検した。痛むのは肋骨だけで、手にも足にもたいした怪我はない。
 今ジェットがいるのは塔のほぼ一番上の階だ。
 この塔の内装は塔の最下層から最上階まで中心が吹き抜けになっていて外側の壁に張り付くように螺旋階段が続き、一定間隔で部屋が点在しているのだ。今二人のいる最上階の手前で階段は終わり最上階はフラットな踊り場ような状態にはなっているが、一メートル強程の高さの手すりを越えるともうそこは吹き抜けで下まで一気に落下していくことになる。
 落ちたらまずいなと吹き抜けに視線をちらりとやると、一本のコードが目に飛び込んできた。多分、照明か何かを吊っていたが、事情があって撤去したのだろう。長さはたいして長くはないが、その上にはフックがついていてそこに絡まったような状態で残っていたのだ。
 ジェットは、一つだけ方法を思いつく。
 ジェットは男の懐目掛けてダッシュしたが、簡単にスモウレスラーに捕まってしまう。スモウレスラーも多分、ジェットと同じように、ここから落ちたら大変だとそう考えたらしくぶんとジェットを頭上高く放り投げた。
 ジェットの躯は吹き上げの上空を飛び、そのコードにひしっと取り付いた。
 そして、岩場をロッククライミングして来たので腰にはエイト環をついエイト環に腰に残っていたロープを固定して、もう一方の端をフックに通してしっかりとロープを握った。
 ぷらぷらと吹き上げに浮かぶジェットを何とかしようとスモウレスラーは身を乗り出して、何か喚いていた。そして、手が届かないと分かると銃を取り出してジェットに銃口を向けた。
 ジェットは自分の体重を利用してロープを左右に振り子のように振る。男に近付いては、離れ、離れては近付いてくる。的を絞ろうにも男は絞れない、つい数十センチ向こうは一メートルほどの高さしかない柵だと失念して柵にギリギリまで近付いて、ジェットを撃ち落とそうとした瞬間、ジェットの躯が男の目の前まで飛んできた。
 もう一度、その躯が遠ざかり、発砲するが全く当たらない。
 苛立ち、数発撃つが当たるどころか外れるばかりだ。
 近付いてきたら捕まえて引き摺り落としてやるとばかりに手を伸ばしジェットの足に手が触れようとした、その時、男の太い二の腕にジェットの足が着地し、とととんとジェットの足は男の肩でリズムを刻みつつ、背後に廻り込み、踵で男の後頭部を後に蹴り出したのだ。
 男が声を立てて落下していく。
 どんと大きな音がして、塔の最下層に男が転落した。
 其処には幾つものダンボールの山が積まれていて、男はその山の中に埋まってしまった。あのダンボールが衝撃を吸収しているであろうが、ここまで上がってUラウンド目は簡単には無理だろう程度のダメージはあったと思う。
 躯を捩ってロープの振り子を揺らし、男が立っていた場所にジェットは器用に降り立った。
 辺りを見渡すと、鉄製の梯子の下に愛用の銃が落ちていた。
 それを拾い上げると、鉄製の梯子を再び上って、目の前にある部屋の鍵に向かって連射した。意外とやわに出来ていたその鍵は簡単に破壊されて、ドアを足で蹴破り他にも誰かいないと銃を構えて確認する。
 先刻の反省はすぐに活かさないとなとジェットはそう思う。
 狭い部屋には硬い壁に沿うようにしてパイプベッドが置かれていて、便座すらついていない小型の便器が置かれていた。いかにも、幽閉するのを目的として作られているが、使われた形跡はない。便器は綺麗なままであったし、パイプベッドも錆びていないし、毛布やシーツも薄汚れたものではなく真新しい。
 不自然すぎる。
 まるで、作られた空間のようでジェットはこれを作らせたスカールの人柄に肌寒さを感じた。自分の妹にも近い人物を死に追いやった。彼女を使うよりも、産業スパイを主な職種とする探偵や専門家も多々いるのだ。彼らに頼めば確実であったし、彼女を殺すという暴挙をしなくても済んだはずなのに、何故素人の彼女をハインリヒの下に差し向けたのかが、ジェットには分からなかった。
 何処か現実感の薄い部屋に、気分が悪くなる。
 その中央に縛られている男を見て、それどころではないことを思い出して、口を塞いでいたガムテープを剥がした。
「ジェット」
「アルベルト、怪我はない?」
「早く、これを解いてくれ」
「ダメだよ」
 ジェットは椅子に縛られて動けないアルベルトの前に跪いて下から顔を覗き込む。目の周り以外にも口の端が切れていて、その血は固まっていた。
「解けっ!」
 出来ないとジェットは首を横に振った。
「俺を助けに来たんなら解いてくれ、ジェット」
「解けば、アルベルトはスカールを殺しに行こうとする。俺はそれを止めに来たんだ」
 ジェットは顔を伏したまま、そう呟いた。
「俺は助けに来て欲しいとは頼んではいない。キミ達との契約には含まれていないはずだ」
 ジェットは溜息を吐くと、顔を上げた。
 白い綺麗な顔には幾つもの擦過傷や殴られたと思しき痣が残っていた。口の端には血がついている。自分を助けようとして傷付いたのだとアルベルトは分かっていても、でも、この感情のやり場は何処にと、その想いだけが暴走する。
「そう、依頼されてはいないよ。俺達はイワンの指示に従ってあんたを助けに来た。友人の危機は黙って見過ごせないと」
「おせっかいが」
 アルベルトはそっぽを向いた。
「俺がスカールを殺したら依頼料が入らないからか、それを心配したのか。金は秘書を通して振り込むように手配してある。既に振り込まれてるはずだ。だとしたら、俺が何しようと……」
「お金じゃないよ。アルベルト」
 ジェットは静かに立ち上がると、アルベルトに背を向けた。
 小さな窓から注ぐ朝の光がジェットの赤い髪を艶やかに染め上げ、キラキラと輝く黒いボディスーツを纏ったジェットのしなやかな肢体が光の中に浮かぶ。襟足の跳ねる癖のある髪は乱れて、ボティースーツも所々破れていた。
 こんなにもなって自分を助けに来た彼に、何を言ったらよいのか分からない。
 ただ、あるのはスカールを殺すという情念だけになってしまっていた自分しかいない。
「俺はヒルダに頼まれたから、来たんだ」
 ハインリヒは息を呑んだ。
 彼女は死んでしまっているはずだ。それなのに、彼女を使って自分を翻弄するのは止めろと言葉を紡ごうとするが、その言葉が上手く出て来ない。誰かに話してはいけないと押し留められている感覚に苛まれた。
「イワンが教えてくれた。自分に何かあったらハインリヒを助けて欲しいって、彼女が言ってたって……、だから彼女が死んだ時、あんたが彼女の事故死に疑問を持った時にさり気にあんたに俺達に依頼するように言ったそうだ」
 そうだ。悩んでいた自分に、依頼してみろよとそう示唆したのはイワンだった。自分で調べようと思っていたが、何をどうしたらよいのかわからないし、イワンの指揮下にある探偵事務所なら間違いはないとそう思ったのだ。
 イワンに言われなかったら探偵に依頼などしなかったはずだ。
「彼女は、あんたもスカールも失いたくなかったんだ。一人の愛する男と、兄のように慕った男、どちらも捨てられなかった。だから、あんたにスカールのことを打ち明けられなかった。彼女はあんた達の間でずっと悩んでいたんだ。そして、結局、彼女のその態度が彼女の死を招いてしまった」
 だから、ハインリヒはスカールが赦せない。
 妹のように愛した女をどうして殺せるのだ。
「ヒルダはあんたにスカールを殺させたくはないのと同時に、あんたをスカールに殺させたくはないんだ。スカールを止めて欲しかったんだよ。彼女という人をずっと追いかけてきて、俺、わかったんだ。彼女はそんな人だったんだって……」
「ジェット」
 ハインリヒが何か言い返そうとした瞬間、遠くで一発の銃声が響いた。
 全てがここで終るのだとそう聞こえるような銃声であった。
『ジェット』
 ジェットのインカムから音が漏れてきた。彼の仲間の声であった。
『スカールは確保した。ミスター・ハインリヒは?』
「ああ、無事に救出したよ」
『数分後には、FBIがやってくるはずだ。それまでそこを動くなよ』
「了解、ピュンマ」
 通信を切ったジェットはハインリヒを振り返る。
 朝日が彼の顔に当たってその表情を見ることは適わなかった。
「だってさ、スカールは捕まった。あんたはどう足掻いても復讐は出来ない。すぐにFBIがここにも来る。もうスカールは殺せない。あいつは塀の中に入れられる。もう、全て終わりだ」
 二人の間に長い沈黙が漏れる。
 彼を抱いた時にこんな結末が待っているとは思わなかった。彼を抱いている間は復讐しようなんて欠片も思わなかったのだ。でも、目が覚めて隣で眠る彼の姿を見た瞬間、深い後悔に囚われた。
 ヒルダも彼も二人を裏切ってしまったそんな気持ちになってしまったのだ。
 彼はこれからもきっと素敵な出逢いをして恋をするだろう。美しく若く、そして優しい彼に靡く男は五万といるはずだ、でも、死んでしまったヒルダには自分しかいないのだ。
 彼女に対する贖罪はスカールを殺して、自分も彼女の元に行くことだと。
「ジェット」
 FBIが数人、銃器を構えて突入して来た。その中の年かさの口髭を蓄えた男がジェットに気軽に声を掛けた。旧知の間柄のようであった。自分に向けられのとは全く違う、何処か甘えを含んだ口調にどうしてだか、こんな状況なのにむっとしてしまう。
「ああ、ウッドストック。彼がミスター・ハインリヒだ」
「分かった、下でおねんねしてた男も確保しておいたよ。下でシマムラ捜査官とお仲間がお待ちだ。彼はわたし達が連れて行こう」
「ああ」
 ジェットは顔を見せないようにドアまで数歩を大股で歩いた。
 そして立ち止まると、一度、ハインリヒを振り返る。
「ハインリヒ、この事件の依頼人はあんたじゃない、ヒルダだと俺は思ってる。俺はヒルダの望むように動いたから、後悔はしないし、あんたを助けられて本当によかったと、そう思ってるよ。多分、二度と会わないと思うけど…、躯には気をつけて、呑み過ぎはよくないから」
 そう言うとひらりと身を翻して、姿を消してしまった。
「ジェット」
 僅かに一瞬見えたその顔には涙が光っていた。悲しみとも、喜びともどちらともとれない涙だ。自分を哀れんでいるのか、今のハインリヒにはその涙の意味を知ることは出来なかった。






「何やってんのよ」
「そう言ったってねぇ」
 とフランソワーズとピュンマは一見、漫才のようなやり取りを交わしつつ自分達目掛けて飛んで来る銃弾を必死で避けていた。スカールを追って、秘密の通路に足を踏み入れたのはいいが、トラップが仕掛けられているはで、散々な目にあってピュンマの白いドレスはすっかり灰色に染まってしまっていた。
 外に出られたのは良いが、少し前方を走って逃げるスカールの手にはいつの間にかマシンガンが握られていて、先刻から撃ち合いをしては逃げ、撃ち合いをしては逃げを繰り返していた。
 スカールはどうやら船着場を目指しているらしいのだ。
 どうせなら、秘密の船着場とか作っておけばよいのにとは思うが、現実的にはそうはいかなかったのだろう。朝陽が完全に姿を見せた外は明るい、海に光が反射してピュンマ達からスカールの居場所が掴みにくいのだ。
 撃たれないだけマシという状況にも、少しばかり焦れて来た。
「そろそろ、じゃないピュンマ」
「ああ、そうだね。あそこの岩場の上からなら確実に彼を狙えると思う」
 とピュンマは背負ったライフルの砲身を叩いてみせる。スカールを探して右往左往している間に偶然に見つけたのだ。一挺だけガラスケースに入れて飾られていたそれは弾もあるし、手入れもしてある。聊か古いライフルではあるが、使えなくはないと、持ち出しておいたのだった。
「じゃぁ、ワン・トゥ・スリー」
 フランソワーズが飛び出して、スカール目掛けてベレッタM93Rマシンガンをばら撒いた。わざと視界が塞がるようにスカール本人目掛けてではなく、岩場や石で作られた階段を撃ち、小石や塵を舞い上がらせる。
 その間にピュンマは二人で隠れていた岩の影から、飛び出してひらりと隣の岩の陰に身を潜め、スカールの死角にはいるのを確認してから岩をよじ登り始める。
 フランソワーズはもう一度、飛び出して、マシンガンをばら撒いて一つ前にある岩の陰へと身を躍らせた。その足元をスカールのマシンガンが深く抉るがフランソワーズには当たらない。
 フランソワーズは岩の影で息を整え、無くなった弾丸を取り替える。
 外に出てスカールを発見してから、撃ち合いをしつつ船着場を目指して遅々として前進しない。自分達よりもスカールの方がストレスを感じているはずなのだ。彼はこの場から逃げたい。でも、自分達は取り敢えず、彼を足止めしてしまえばよいだけなのだが、フランソワーズの持ち込んだ武器も底を突き始めていたのだ。
 それが結論を急いだ最大の理由であった。
 器用に岩に登ったピュンマは岩に張り付くようにしてライフルを構える。
 それを確認したフランソワーズは、弾を込めるのを途中で止めた。そして、僅かしか弾の入っていないベレッタM93Rを構えて岩の影から躍り出る。スカールの隠れている岩目指してマシンガンを撃ち込むが途中で弾が切れ、引き金を引いてもかちりかちりと音がするだけで、弾は一向に出てこない。
 それを見抜いたスカールはすかさずフランソワーズ目掛けてマシンガンをぶっぱなして来た。相手の弾薬が切れたのだとそうスカールは思ったのだった。
 確実に止めを刺そうとフランソワーズが隠れている岩にじりじりと近付いて来る。
 彼女まで後数メートルに迫ったその瞬間、鋭い弾丸がスカールの足を射抜いた。焼けるように熱いそれに気付いた次の瞬間、凄まじい痛みが襲ってくる。まともに立っていられなくて意識を足に向けた瞬間、岩の陰からフランソワーズが飛び出して来て、自分の持っていたベレッタM93Rのグリップで顎を殴り、もんどりを打って倒れたスカールのマシンガンを奪い、銃口を彼の眉間にぴたりと当てた。
 痛みで意識が遠のきそうになりながらも、スカールは必死で耐えた。
「ゲーム・オーバーよ」
 フランソワーズはそうスカールににっこりと笑いかける。
 そこにピュンマが汚れてしまった白いドレスの裾を翻して、走って来た。
 薄汚れているが、自分と取引をしていた彼よりもどうしてだか三割り増しは美人に見えるのが不思議だ。
「終ったな。スカール」
「ニースか、ドバイに行きたいんじゃないのか」
 悔し紛れではない。
「そうだね。悪くはないけど、僕はこのロサンジェルスが今は好きなんだ」
 ピュンマはシレと言ってみせる。
「アメリカなんかクソクラエだと」
 自分もずっとそう思っていた。親のない子供に、学歴もなにもない子供に、冷たいこの国が嫌いだった。
 だから何をしたとしても這い上がってやろうと思った。自分が這い上がるために手段は一つとして選んだことはない。それが犯罪行為だとしても効果的な方法であれば迷わず、セレクトしてきたから自分はここまでになれたのだ。
 くそくらえといわれた時、少し心が動いた。
 自分と同じことを考えている人間が居ると分かったのが、妙に嬉しくて浮かれてドジったなとスカールは薄く笑った。
「ああ、アメリカって言う国家はクソクラエだ。だけどね。僕はここに住んでいる人たちは嫌いじゃないんだよ。スカール」
 と彼はそう言った。
「帽子、失くしてしまったな」
「ああ」
「とても似合っていたのに」
「ありがとう」
 人の気配が濃くなり、ざわざわと人の声がだんだんと近付いて来た。
「フランソワーズ、ピュンマ、無事でよかった。我輩は心配しましたよ。銃声はするし、とにかく、怪我がなくてよかった」
 グレートは大袈裟に二人のエンジェルをしっかりと抱き止めた。
 強く抱き締められて、少し膝の力が抜けそうになる。命を危険に晒した仕事はスリリングだけど終わってみると怖くなることもある。
 けれども、不思議とこうしてグレートに抱き締められると安心できる。
 パパの元に帰ったみたいだとフランソワーズはそう思うのだ。
「ねえ、グレートパパ、今回のご褒美は何かしら?」
 とグレートの首に抱きついてフランソワーズはそう囁いた。
「我輩の熱いキッスで如何ですかな」
「ええ、喜んで」
 そう笑うフランソワーズと二人のやり取りを笑いながら見てるピュンマの二人の頬に熱いキスの雨をグレートは降らせたのだった。




◆今日の天気は上々

「相変わらず、キミ達は仲良しさんだね」
 とFBIの捜査官と言うよりも、朝ゴルフの帰りの苦労知らずのおぼっちゃんという風体の彼はそう笑った。白い歯が覗き、いやらしいまでの清々しさである。
「ええ、そうよ」
 フランソワーズはまたこの男かと思う。
 確かにFBI捜査官としての手腕は認めるし、イワンとも交流があるらしく捜査協力に応じてくれたり、必要な情報をリークしてくれたりする相手ではあるが、この笑顔が曲者だとフランソワーズは思っている。口元が笑っていても、目が笑わない。愛想が良くても何を考えてるのか理解できない。
 日本人は笑うのが下手だとは聞いているが、彼のはそれとは違うと思うのだ。
 何かにつけて自分を誘うのだが、彼の本意が分かりかねて、素直には応じられない。
「シマムラ捜査官、スカールはどうなりますか?」
 グレートが一応、エンジェルたちを代表して今回の騒動の首謀者の今後を訪ねる。
「そうだね。僕は大掛かりな詐欺と、武器の密売で前から彼を追ってんだけど、殺人に手を染めてたとは……。エンジェル達のおかけで、こっちも早くケリがつきそうだよ。スカールが捕まったら組織は簡単に崩れるし、僕も、忙しくなる。ああ、スカールね。良くても悪くても一生外の空気は吸えないだろうね」
 と笑う顔が妙に嬉しそうだ。
「ああ、フランソワーズ。今回の協力のご褒美はないのかな」
「あら、ナニが欲しいのかしらシマムラ捜査官」
「キミと二人っきりでディナーなんてどう?」
「で、途中で携帯が鳴って緊急呼び出しで、あたしはおいてけぼりなわけで、そんなデート、あたしはお断りよ」
 フランソワーズの答えに反論しようとした瞬間、間に割って入るようにフランソワーズ達の名前を呼ぶ声がした。
「フラン、ピュンマ、グレート」
 赤い髪のあの子が飛ぶように階段を駆け降りて来た。そして迷わずグレートに抱きついた。そんなジェットをよろめきながらもしっかりと抱きとめたグレートは何も聞かずに、ジェットの髪を撫でる。
 独りで降りてきたということは、ハインリヒはジェットを選ばなかったということだし、またジェットもハインリヒと一緒に居るつもりはないということだ。情の深いジェットのことだ、自分達以上に傷付いていることは彼等の目には明白であった。
「ジェット」
「ジェット、怪我はない?」
 ピュンマとフランソワーズがグレートに抱きついたままのジェットに声を掛けるが、ジェットはうんうんと頷くだけで顔を上げようとはしなかった。
「ミスター・ハインリヒはどうしました」
「ウッドストックが…」
 そう言うとグレートは分かったとそう呟き、その方が何かとよいでしょうなと続ける。
「シマムラ捜査官、我々はそろそろご無礼して構いませんかな?エンジェル達をあまり地上に留めておくわけにはまいりませんのでな」
 いつもながらに芝居がかった男だが、イワンの片腕と言われるだけあって油断のならない男だとシマムラ捜査官は思う。
「ジョー、一つ聞いていいか」
 グレートに懐いたまま、ジェットはそうシマムラ捜査官に声を掛ける。どうぞと肩を竦めると、ジェットはジョーに駆け寄ってきた。擦り切れたボディ・スーツが痛々しいし、顔にも殴られた痕や、幾つもの擦過傷があった。さぞハードな朝の運動だったのだろう。
「アルベ…、いやハインリヒはどうなるの」
「まあ、場合が場合だしね。捜査に協力してくれたって形で無罪放免になると思うよ。彼の暴走がなければ、スカールも尻尾を出さなかったかもしれないからね。僕の狙いはスカールの武器密輸組織だし、善良な市民を甚振って喜ぶ趣味は僕にはないよ」
 それを聞いてジェットは本当によかったと胸を撫で下ろすように、手を胸に当てて頭を垂れた。まるで、何かに祈りを捧げるような厳粛な雰囲気が其処にはあった。
「ありがとう」
 そう呟くとジェットは仲間が待つその場所まで降りていく、そして、何か囁くとフランソワーズがジェットの頭を撫でて、グレートがその腕を取ってエスコートをする。ピュンマはジェットの背中を押して彼らは、明るい声を上げながらもその姿を小さくして行った。
 そうか、フランソワーズも愛しているあの子の恋の相手は、あのミスター・ハインリヒだったのだと聡いシマムラ捜査官は気が付いた。
 エンジェル達は男運が悪い。
 いつも惚れては結局、仕事柄擦れ違いで上手くいかなくなることばかりだ。フランソワーズも自分に決めれば仕事に理解のある恋人になれるのにとジョーは視界の中で小さくなった甘栗色の髪の彼女を見詰める。
 彼等の姿がやがてモーターボートに吸い込まれて、そのモーターボートはロサンジェルスの街に向かって白い飛沫を上げながら突き進んでいく。
 それはまるで悩みがあったとして項垂れことなく、胸を張って真っ直ぐ進むことしか知らない素敵なエンジェル達のようだとそうシマムラ捜査官は笑う。
 次に出会える事件は何時かは分からないが、また会ったら今度はフランソワーズを本気で口説いてみようかとそう思いを馳せる。
「さてと」
 シマムラ捜査官は、そんな甘い感傷を振り払い、玩具箱のようなこの屋敷の中に向かって歩を進めた。彼の全てが詰め込まれたちゃちな要塞、秘密基地のような造りにはシマムラ捜査官のようなプロの目から見たら、本当に子供の遊び場所にしか見えない。
 武器を密輸する組織を作り上げた彼にしては、あまりにもちゃちな屋敷だ。でも、それに彼自身の何か大切なものが存在しているはずだ。
 多分、彼ほどの大物であったとしても、昔に拾った小さな思い出が捨てられないことはいくらもあるのだ。
 全てが非情になれる犯罪者は稀だ。
 それは彼の経験による持論であった。感情を持たぬ人間など存在しないからと。
「今日も、良い天気になりそうですね」
 と後からついてくる部下がそう話しかけてくる。
「ああ」
 と見上げると、青い空が広がり本当に目に染みるほどの、まるで、空から天使が舞い降りて来てもおかしくない、雲ひとつない綺麗な青空であった。





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From 'IVAN'S ANGELS' of the issue 2003/03/29