エンジェル! 朝の風景



 柔らかな紫色の光を帯びた朝の日差しが、窓ガラスからゆっくりと忍び込んでくる。
 1年中を通して、比較的温暖な気候にあるこの町は彼女の故郷である町よりも、ずっと温かく朝目覚めても寒さのあまり身を震わせることはほとんどない。
 けれども、朝早い時刻が彼女は少しだけ好きであった。
 黒いレオタードの上に、ピンク色の巻きスカートを身に着け、足先にはバレエシューズがある。この家に越した時に業者に付けてもらったバーを握って、バレエの基本動作を幾度も繰り返す。
 鳥の鳴き声が、少しだけ開けられた窓から零れ聞こえてきた。
 何と無く今日の気分はコレだと、フランソワーズは基本動作を中止し、部屋の隅に乱雑に置いてあるCDの中から一枚を選び出し、CDコンポに入れる。タイトルはチャイコフスキーの白鳥の湖だ。
 頭出し設定を軽やかな指先でこなすと、黒鳥の踊りが始まった。
 しなやかな手足がピンと伸び、音楽に合わせてその躯が動き出す。気品ある美貌が艶やかに輝き、いつもの彼女とは違う一面が引き出されていく。
 女性らしい、まろやかな肉体は美しさを損なってはいないけれども、決して、彼女の躯は華奢でも豊満でもない。でも、一見の価値があると思えるほどその躍動的な美しさがそこにはある。
 緩く結んだ甘栗色の髪が頬に張り付いて、その動きの激しさを物語っていた。
 精練された空気に彼女の躍動が伝わり、それは僅かな振動となり窓の外の小鳥達に届けられる。
 すると小鳥はお喋りを止めてしまい、あるのは彼女の齎す躍動的な空気の振動だけとなった。
「はい、おしまい」
 音楽が終ると、途端にいつもの彼女に戻る。
 タオルで汗を拭き取りをながら、玄関に置かれていた新聞を取ると脇に挟んでスタスタとキッチンに向かう。予定のない、早起きした日は特別に料理をすると最近はそう決めている。
 先日、同僚のグレートの妻であり、フランソワーズの料理の先生でもある張々湖にお墨付きをもらったマフィンでも作ろうと冷蔵庫を開けた。バターに卵、小麦粉、必要な材料は昨日買い物をしたばかりだから沢山ある。ドライフルーツや胡桃、紅茶、ブルーベリー、風味の物も作ってみようかしらと、彼女は冷蔵庫から沢山の材料を取り出して配膳台に並べる。
 これだけの材料を使って作ったら到底一人で食べ切れないし、と作った後のマフィンを収める胃袋の心配をしなくてはならなかった。
 ふと、一人の男の顔が浮かぶがフランソワーズは頭を振って、その影を追い払う。
「何で、あたしがあの男と顔をつき合わせてマフィンを食べなくっちゃいけないのかしら」
 と呟くフランソワーズが居る。
 少し頬が赤いのは決して運動した後だからではないことを、朝の光だけは知っていた。
「そうそう、ジェットとピュンマに連絡して、久しぶりに3人で集まってマフィン・パーティーでもしましょう。そうと決まれば、早速……」
 とフランソワーズは大きなボールを取り出した。
 取り合えずの作業をしてから、シャワーを浴びて、二人に電話をしてと今日一日の予定が簡単に埋まっていく。
 それが楽しくてならないフランソワーズは、シャンソンを口ずさみながらマフィン作りに没頭するのであった。







「ジェットッ!!」
「お待たせ」
 子供達の前にジャッと派手な音を立てて滑り込んできたのは、スケボーに乗ったまだ年の若い美人であった。
 薄暗い車の通らない路地に赤味を帯びた金髪が艶やかに映し出される。
 青いボーダー柄の長袖のTシャツにスリムタイプのジーンズ、白いスニーカーに黒い革のキャップ、まだ少し眠そうな瞳は子供達に穏やかに向けられていた。
「遅刻だぜ」
「ちょっと、寝坊しちまってさ」
 と悪びれなく笑う。
 そんなさっぱりとした彼の人柄は、この辺りの子供達にも人気がある。スケボーやバスケット、サッカーにインラインスケート、何をやらせても一通りこなしてしまう彼は子供達のちょっとした遊び相手でもあった。
 放課後や、早朝にこうして彼等に色々と教えている。
 と言っても、遊んでいるようにしか見えないのだが、子供達にとってはちょっと自慢の出来る兄貴分なのである。中には、仄かな恋心を抱いている子供もいたりするのだが、子供ではやはり相手にならないと、一緒にこうしていてくれることを楽しみしているらしい。
「今日は、ナニ教えるって?」
「馬鹿だなぁ〜、ジェットは……」
 一番年上の少年がジェットの腰を肘で突付いた。そしてまるで自分が年上のオトナのように腕を組んで、やれやれと溜息を吐き出す。それがまた、彼等の通う小学校の教頭にそっくりで、つい皆笑ってしまう。
「ああ、ターンを教えるって」
「おお、そうだぜ。もうすぐ、校内の大会があんだからな」
 しっかりしてくれよと、年長の少年はジェットの背中をバンバンと叩いてくる。その遠慮ない態度は、ジェットに元気をくれたりするのだ。
「今年の優勝は俺達『レッド・イーグル』が頂くぜっ!!」
「おおっーーー!!」
 と子供達に合わせてついジェットまで気勢を上げてしまう。そんなところが子供達に好かれる要因なのだけれども、ジェットは全く理解してはいない。自分よりはずっとマシだけれども、あまり恵まれない地域に住む子供達と偶然に出逢ったのを切っ掛けに、こうして時折、スケボーやバスケを教える生活はジェットに潤いを与えてくれる。
 こんなことだけれども、それで子供達が犯罪や売春、麻薬から目が逸れてくれればとささやかな彼の願いであった。
 学校に通えるのだから、貧困のどん底というわけではないが、両親が働きに出ていてほとんど家に居なかったり、片親であまり構ってもらえない子供達ばかりだ。彼等の未来が少しでも明るければ、ジェットの育った惨憺たる地域で生きていた隣人達も救われるのでは、とそう思うこともある。
「ジェットも、見に来てくれよ。俺達の専属コーチで、チーム名もジェットの髪から取ったんだからな」
 と言われてジェットは照れるが、それを隠すように乱暴な口を利いてみせた。
「おうよ。でも、練習しねぇとさ。優勝はできねぇぜ」
「わかってらぁ、みんなで特訓だぁ〜」
 子供達はいつもジェットに元気を分けてくれ、素直でない自分を素直になれるようにしてくれる。彼等との交流によって心が何度も救われて来た。恵まれなかった子供時代があるからこそ、彼等の今が少しでも楽しいものであれば、とそうジェットは願わずにはいられないのだ。
「よっしゃ、皆、いくぞぉーー」
 ジェットはそう声を上げて、スケボーで疾走を始めると、子供達もそれに倣って人気のまだ少ない公園を負け時と疾走を始めた。
 昇り始めた日の光は、穏やかに彼等に降り注ぐのであった。






 誰もいない早朝のプライベートビーチの浅瀬に褐色の肌が浮かび上がる。
 ゆっくりと浜辺を目指して泳いでくる様は、褐色の肌をしたマーメイドが陸を目指すかのようでもあった。
 だが、それはマーメイドではなく人だとすぐに知れる。
 白いまばゆい水着としなやかな足が露になったからである。一歩進むたびに足に波がまとわりついて、彼をまるで海に引きとめようとしているかのようにも見えるが、やがてしなやかな足の全てが空気に晒された。
 足首にまとわりついていた波も、やがては彼に別離を告げて、彼は浜辺へと上がって来た。
 浜辺に置いてあった白いバスタオルを頭から被り、短い髪を乱暴に拭いてそれを肩に掛ける。自分が泳いでいた海を振り返り、目元に優しい笑みを浮かべた。
 天気の良い日はこうして泳ぐのを日課にしている。
 職業柄体力が必要だからというのもあるが、泳ぐのがどうしてだか好きなのだ。自分の生まれた国には海はなかったし、アメリカに来てから泳ぎを半強制的に教わっただけなのだが、単純に泳ぐことだけはどうしても嫌いになれなかった。
 泳いでいると嫌なことも、楽しいことも、嬉しいことも全て忘れられる。
 自分という人間がそのままで、ただ、そこに存在しているというシンプルな心持ちになれるし、自分の今までの人生もそこに在っていいのだと、余計な理論武装をせずにありのままの自分と対面できる。
 プライベートビーチを持つこの物件は聊か高かったが、少し無理をして買ってよかったと今は思っている。
 今、付き合っている恋人もここが気に入っているようで良く二人で並んで、身を寄せ合って、波の音に耳を傾けてゆったりと過ごす時間も味わえて、少し幸せを感じられるからとピュンマははにかんだ笑みを波に落とした。
 そろそろ戻って朝食でも作ろうかと、脱いであったビーチサンダルに足を入れた瞬間、バスローブと共に置かれていた携帯電話がけたたましい音を立てる。
 今週末のデートはお預けかと、そんなことを考えてしまう自分に苦笑しつつピュンマは携帯電話をオンにする。
「はい、ピュンマです……、ああ、おはよう。…………………………ああ、今からすぐに事務所に向かうよ」
 そういうと携帯電話をオフにし、肩を竦め、諦めたような溜息を吐いた。
「やっぱり、デートはお預けだ」
 数十メートル先にある自宅目指して、ピュンマは走り出していた。





It continues to the book of the title 『IVAN’S ANGELS』





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