エンジェル! 事件の終焉と恋の始まり
明け方から降りだした雨は綺麗に上がり、茜色へと染まり始めた空には綺麗な虹が掛かっていた。 白い墓標も、備えた白い花も茜色に染まった。 この色合いは、一度だけ情を交わしたあの子の髪の色と良く似ている。光の反射具合によっては真っ赤に見えたり、黄金色に見えたり、時には、血のように見えることもある不思議な髪を持つあの子のようだ。 ハインリヒは恋人だった人の墓の前に立ちすくんでいた。 彼女を殺したのは彼女が兄とも慕う人物で、その人物は彼女を産業スパイとして送り込んで来たのだが、自分と彼女は真剣に愛し合うようになり、そして、産業スパイは出来ないとそう告げた彼女を彼は殺してしまったのだ。 彼は武器の密輸にも手を染めていて、あの不思議な色の髪を持つ美人なあの子と仲間達の手によって、それら悪事は暴かれた。本来なら自分も不法侵入等で刑罰を受けなくてはならないところだが、罪も問われずに事情徴収だけで解放されたのだ。 事件が事件だっただけに、裁判は異例の早さで進み彼には終身刑が言い渡された。生きて彼が壁の向こうから出てくることはない。 つまり、ハインリヒも一生彼に復讐する機会を失ったということになる。 今では、復讐する気持ちは全く失せてしまったけれども、心に空いた穴を埋めることはできないでいる。 まだ、ヒルダを殺した犯人を捜していた頃の自分の方が今よりもずっと強い自分を演じていられた。今は、日常の中にいるのすら辛いとそう思える時間があまりにも多過ぎる。 彼女を失って、ハインリヒは独りであることの意味を知った。誰かの為になら強く生きられるが、一人でいると明日が見えずに挫けてしまいそうになるのだ。辛うじて、今自分を支えているのは、経営している会社の責任者としての責務だけだ。 仕事が終わると、一人あの家に帰るのが嫌でたまらない。 綺麗にハウスキーパーの手によって磨かれた無機質な屋敷を訪れたのは、彼女とあの子の二人だけだ。 ベッドで眠っていると、思い出すのは彼女の肉体ではなくあの子の細いしなやかな白い肢体ばかりである。決して、彼女とセックスをしなかったわけではない。普通という基準は解らないが、恋人としてこのベッドで幾度も愛し合っていたのに、脳裏に焼きついているのはあの子の方なのだ。 肉体が気に入ったというわけではない。 あんな別れ方をしてからずっと、気になっていた。 何度かイワンと電話で話した折に、さり気にあの子やあの子の仲間達について聞いてみたが、元気だとしか教えてもらえない。自分はやはり依頼人の一人で、恋人に死なれた30男が惨めだったから、抱き締めてくれたのだろうと思うと、更に一人で居ることが辛くなる。 「ヒルダ…、俺は」 彼女の墓標の周りには沢山のかすみ草が供えられている。 一番好きな花だった。添え物のような扱いを受けているけれども、かすみ草だけでも、素敵な花束になるし、一面に咲いていたらきっと綺麗だといつもそう言っていた。決して、添え物や脇役じゃないと力説していた。 雨の去った後の湿った匂いに混じってかすみ草が香る。 少し生暖かい風が流れて、その風はどちらでもない香りを運んで来た。甘い中にも凛とした強さを感じさせるそんな香りだ。 その香りに誘われるように視線を漂わせると、其処には白いパラソルを差し、白いワンピースを着た女性が軽やかなステップを踏みながら、ハインリヒの所まで歩いて来た。見覚えがある人物だが、彼女がここに来る理由が想像できない。 「こんにちは、お久しぶりね」 やはりフランソワーズであった。 「ああ、よくここが…、ミス・アルヌール」 「スカールの判決が下りたのが今日の午前中でしょう? だったら、絶対に貴方はこの場所に来ると思ったの」 フランソワーズはパラソルをくるくると回してから肩に乗せ、ヒルダの墓標に視線を送った。白いかすみ草で飾られたそれを見て、小さな溜息を吐き出した。 「今日は…」 「ええ、今日は、貴方にお話しがあってここに来たのよ。仕事の話しじゃないわ」 決してハインリヒと視線を合わせようとはしないフランソワーズは、肩に乗せたパラソルをクルクルとリズミカルに回しては、止める仕草を繰り返している。墓標に飾られた白いかすみ草を横目で見ながらも、話しをしようかどうか迷っている姿が見てとれた。 ハインリヒは彼女の話しが何であるか検討もつきはしない。 彼女に会うのは、ヒルダが何故、こんな目に遭ったのかを事務所で聞かされて以来のことである。事件の全てを記録したレポートが三人とグレートの署名入りで届けられ、イワンとだけ、電話で何度か話しをした。 それだけのことであった。 あのわざとらしい笑顔を見せるFBI捜査官シマムラは当り前のように、司法取引を申し出てきた。善良なる市民をいたぶっても楽しくないからねと顔に似合わぬ物騒な言葉でそれを申し出てきた。 好んで犯罪者になりたいわけではなく、他に選択肢がなかったというだけだ。 「貴方に、大切な伝言を頼まれていたのを忘れていたの」 まるで、明日の天気は良いのかと聞くような当り前の、とても大切な伝言を頼まれているようには思えない口調であった。 「伝言?」 ハインリヒは伝言と聞いて思い浮かべたのは、あの赤味のかかった金髪と、青い瞳を持つ彼の顔だった。でも、不思議と彼の笑った顔が思い出せない、泣きそうに歪んだ顔しか記憶の何処を引っ掻き回しても出てこない。 彼には笑っていて欲しいのに、自分の覚えている彼は悲しそう顔ばかりだった。ということは、自分と一緒いる時間のほとんどが彼を哀しくさせていたのだと思うと、不甲斐ない自分がイヤになる。 「彼女が亡くなったのは、運命だったと…、いつまでも悲しむことはしないで、幸せを彼女の分まで幸せになって欲しい。それを彼女は望んでいるはずだと、そう伝えて欲しいと、ヒルダの親代わりだった牧師夫妻からの伝言よ」 「ヒルダの……」 ハインリヒはジェットではなかったという落胆と、ジェットのことしか考えられなかった自分を責めることしかできない。ここは、ヒルダの墓の前なのに、思い浮かべたのは、白い皇かなジェットの肌の感触だった。 ヒルダの死を悼みながらも、ジェットに惹かれている自分の優柔不断な一面を堅物な男はどう捉えたらよいのかわからないでいた。 「それに…」 自分の心が見えずに惑う男にフランソワーズは畳み込みかけるように、台詞を続ける。 「もちろん、こんな場所で話すことじゃないのかもしれないけれど…、ああ、ここからはあたしの独り言だから気にしないで頂けると嬉しいんだけど」 と前置きをして、くるりとハインリヒに背を向けた。白いワンピースのスカートの裾がふわりと浮いて、綺麗に発達した脹脛の筋肉がぴんと張り詰めた。 「最近、ジェット、元気がないのよね。食事もロクにとっていないし、前なんかアルベルトとかっていう男の名前を呼びながら泣いていたわ。お酒の量も増えたみたいだし、煙草まで…。ほんと、あたしの力では何ともしてあげられないのが、とても悔しいの。せめて、そのアルベルトとかって男がジェットに会いにいってあげればいいのに、ジェットも痩せちゃうくらいに思いつめて、会いたいなら会いに行けばいいのに…、このままだったらジェットは本当に骨と皮だけになっちゃうわ。だから、今夜こそは、ちゃんと食べさせに連れて行かないとね。事務所に8時って約束だけど、ちゃんとあの子来るかしら? ジェットみたいにいい子を振る男なんて、信じられないわ。ホント……全く」 フランソワーズは聞こえるようにそう呟くと、肩越しにハインリヒを振り返る。 「じゃあ、あたしは、牧師様の伝言を忘れてただけで、それだけだから……」 そう言うと、軽やかなステップを踏むような足取りで白いワンピースの裾を翻しながら陽の傾きはじめた太陽に向かってフランソワーズは歩いていった。白いパラソルはくるくると回転を続け、やがて彼女は木立の向こうへと完全に姿を消した。 ハインリヒはただそれを黙って見送っていただけであった。 そして、彼女の姿が見えなくなると、ヒルダの墓標に向かってこう呟いた。 「俺は………」 フランソワーズは一度も振り返らなかった。 男の視線が自分に纏わりついていたからこそ、振り返りたくはなかったのだ。この後、あの男がどういう行動にでるのかは知らないが、自分に出来る限りのことはしたはずだ。 自分だって、考えに考え抜いた上での行動だったのだ。確かに、結論を出してから行動に移るまで聊か早すぎた気もしないではない。何故なら、車をメンテナンスに出している最中であったのに、車が戻ってくるのから待つことができずタクシーを使って来たのは良いが、帰りの交通手段がない。 「何、やってるのかしら、あたしは…」 そうフランソワーズは呟くとバックの中に手を入れて携帯電話を探した。 こういう時に限って、そんなに大きくないバックなのに携帯電話が見付からないのだ。何処かに座ってと辺りを見渡すが、近くにあったベンチはペンキ塗りたてであった。ついていないとはこのことだと、フランソワーズは肩を竦めて、しゃがみ込んで本格的に携帯電話を探そうした。 その瞬間、銀色に輝く見え覚えある車体がフランソワーズの目の前で止まった。 そして、助手席の扉が開いて、乗りなよとの声が聞こえてくる。 フランソワーズは迷わずに助手席に乗り込んだ。パラソルを後部座席に投げて、足を組むと、運転席の彼を見ずに礼を言う。 「シートベルトしてね。危ないから」 礼を言われた相手はそう言うと、地に響くようなサウンドを奏でるエンジンの音を振りまき車を発進させた。すばらしいスピーとで墓地を抜け、公道へと美しい銀色の車体を滑り込ませる。 「確かに、足がなかったから助かったけど。どうして、貴方がここにいるのよ」 「多分、フランソワーズと同じことを考えてた」 ピュンマがそう言うと、フランソワーズは憮然とした表情も隠しもせずにバックも後部座席に放り投げる。 「じゃぁ、あたしが貧乏くじ引いたってわけ?」 「ジェットの為だろう?」 そうだ。 ジェットがあんな男のことを恋しがらなかった、牧師からメッセージをわざわざ伝えに行くつもりなどなかったのだ。イワンと彼とは友達で連絡を取り合っているのだから、イワンに頼んで伝言してもらえばいいのだし、わざわざ、元依頼人の元に出向いていくいわれは自分にはないとフランソワーズは思っている。 牧師夫婦の伝言なんて、口実に過ぎない。 酒に酔って泣きながら、なのに男の名前を呼ぶジェットの姿を見ているのが辛かったのだ。自分的には気に入らない男ではあるが、ジェットが好きだというのだからと、一肌脱ぐ気になった。 自分達はファミリーなのだ。 唯一の肉親である兄の行方が知れぬ今、ジェットもピュンマもグレートもフランソワーズにとっては大切な家族になっている。友達なんて簡単な言葉では、片付けることなんてできはしない。 確かに、ジェットは強い子だから、この恋が実らなくたっていつかは綺麗な思い出として昇華できるとは思うけれども、そこに至るまで苦しむジェットの姿なんか見たくはない。 「当り前じゃないの。どうして、あたしがあのヘタレドイツ男のところに行かなくっちゃいけないのよっ!!」 ご機嫌斜めのフランソワーズにピュンマは笑いを隠さない。 本当に、ジェットもフランソワーズも可愛らしい。 恋に苦しむジェットを見ているのは自分だって辛いのに、そしてそれを見て、困惑したり、怒ったり、泣いたりするフランソワーズを見るのもまた辛い。だから、自分がハインリヒのところに行こうと車を転がしてきたのだった。 よもや車をメンテナンスに出しているフランソワーズが、わざわざロサンジェルス郊外にある車で1時間はかかるこの墓地までやってくるとは思いもしなかった。車を停める場所を探していたら、フランソワーズの姿が視界に入ってきたのだ。 その瞬間、ピュンマの顔には笑みが零れた。フランソワーズが来ているわけがないと、思いつつも、心の奥の何処かでは来ているだろうとの確証みたいなものがあったからだ。 「だったら、僕に任せてくれればいいじゃないか?」 ピュンマがさらりとそう言って退けるとフランソワーズは吊り上げていた形の良い眉毛を更に吊り上げた。 「何言ってるのよ。恋愛音痴な貴方に任せたら、何が起こるかわからないじゃない。あたしだから、上手くいったのよ。あの男は絶対に、今夜ジェットを迎えに来るわ」 「だったら、グレートにジェットは行けないからって連絡しておかなきゃダメだよ。グレートの奥さん、腕によりを掛けて料理作ってくれるって…、自分の分プラスジェットの分平らげる自信ある?」 フランソワーズは填められたと痛感する。 ピュンマは自分がハインリヒのところにお節介をしに行くと知っていたのだ。解っていたから、こうして墓地まで迎えに来たんだし、自分が何を言ったのかも読まれているのだ。元気のないジェットを心配したグレートの奥さんは自分が経営する中華料理店の休みである今日、三人のエンジェルをホームパーティーに招いてくれたのだ。 確かに、張々湖の料理は美味しいが、量が半端ではない。 心して食べないとすまない量なのである。 それに、三人の中で一番の健啖家であるジェットがいないとなれば、起こり得る惨状は想像できるというものだ。 そんな事情があるにも拘らずジェットに会う機会を作ってやるのだから、自分のお人よし加減にフランソワーズが一番呆れていた。どうせ、お人よしなら、とことん今夜はお人よし、恋のキューピットになってやろうじゃないと、フランソワーズは腹を括る。 「ねえ、ピュンマの愛しの民俗学者を呼べばいいじゃない。この機会に紹介してもらいたいものだわ。それに、グレートも張々湖の料理が残らないなら、誰が来たとしても喜ぶと思うけど…。あたしが、ハインリヒに会いにいったんだから、ピュンマは料理残らないように手配しなさいよっ!!」 とフランソワーズは悔しそうに頬を膨らませて、移り行く外の風景に視線を転じると何も言わなくなった。負けず嫌いの彼女らしい言い草だ。そんな彼女がとても可愛らしくピュンマには見えてしまう。 そして、こんな彼女がとても好きでたまらない。 人なんて信じられないと思い込んでいたピュンマの心をこんな優しさが包んでくれたからこそ、ピュンマは彼等だけは信じたいと思うようになった。生まれも育ちも違う自分達だけれども、見えない強い絆で結ばれている。 互いの幸せが自分の幸せと思えるくらいに、フランソワーズが、ジェットがそしてグレートが愛しい。 「任せてよ」 ピュンマはそう言うと、ロサンジェルスの街を彩り始めたネオンの海へと愛車をダイブさせるように、アクセルを踏み込んでいった。 |
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