忘却すらもこんなに切ない
痛む躯を押してベッドから立ち上がると、其処には彼がいた。 そして、自分の手には紙幣が握らされている。 呆然とただそれを見詰めるしかなかった。こんな街に住んでいたら、自分がされたことが何であるかなど、あの状況なら3歳の子供でもわかることだ。でも、何も感情が沸いてこずにただぼんやりと、目の前の男に視線を転じた。 「イイ子だったな。俺の言う通りにイイ子にしてたら、また、遊びに連れて行ってやるし、好きなモン買ってやる。そいつは、昨日、イイ子にしていたご褒美だ。好きものを買うといいさ」 男は何事もなかったかのように部屋を出て行こうとするが、突然振り返り、立ち尽くす自分の元に戻って来ると何時もの優しい抱擁とキスを自分に与えて、姿を消した。 声にならない叫びが暗い部屋に木霊する。 躯を這い回る遠慮のない手と、肌を弄る煙草と酒の匂いが逃れようとしても纏わりついて離れてはくれない。 必死で助けを求める叫びも、つい先刻から降り始めた激しい雨に吸い込まれて誰の元にも届きはしなかった。 「ヤッダッ……っく、ぁん」 まだ、声変わりもしていない声が薄暗い部屋に響く。逞しい体躯の男の下から時折覗くのは白い細い手足だけだ。もがくようにとも、悦楽を感じているようにともとれるそれらの手足の動きは切ないまでに弱々しく感じられてならない。 「大丈夫だよ。おじさんは酷いことはしないからね」 そう耳朶を舐めるように囁かれる言葉すらも、単なる呼気のリズムとしか受け取れなかった。ただ、這いまわる舌がナメクジのようで気持ちが悪くて、早く、この知らないけれども、自分の知っている大人達にすれば友人である男に離れていってもらいたかった。 母親の現在の恋人は、今までの母親の恋人の中では一番自分に優しくしてくれた。 膝に抱き上げて、優しく髪を撫で、キスをし、自分の子供のようにとは言わないが、自分に向けられる手は優しかった。決して自分を殴ることはなく、時折は欲しいと思う玩具やお菓子を買い与えてくれた。 今夜もそうだった。 母親の仕事仲間の一人が暴力沙汰に巻き込まれて、病院に運び込まれた。その看病に行かなくてはと、母親が一晩、家を空けることになったのだ。身寄りのない者同士、助け合って生きていた。自分もそれを良く知っている。いつも彼女達は自分に優しかった。自分達だとてカツカツの生活をしているのに、小銭を持たせてくれては、何かお食べと言ってくれたり、母親が恋人と過ごすのに、部屋に居ては邪魔になると言われる自分を一晩、自分のベッドで寝かせてくれたり、些細なことばかりであるが、自分を邪険に扱うことはなかった。 互いに助け合ってどん底の生活を生きていたのだ。 でも、母親の恋人達は違った。 まだ、無視されるならマシな方で、酷い男は自分に暴力を奮い邪魔者扱いにした。けれども、今度の母親の恋人は違う。自分に母親の回りに居る女性達のように優しかった。 本当にそれが嬉しかったから、彼と二人っきりで一晩過ごすなんて全く苦痛にすら、いやそれどころか嬉しかった。料理は得意じゃないからと、レストランに連れていってくれた。レストランと言っても今で言う所のファミリー・レストランのような庶民向けの店だったけれども、自分にとっては嬉しいし、楽しかった。 帰りには内緒だと、アイスキャンディーを路上で買ってくれた。 家に着いて、風呂に入れてもらいパジャマ代わりの母親のお下がりのTシャツを着て、ベッドに入る少し前にホットミルクを作ってくれた。少し甘いホットミルクを飲んでいると、彼の友人と言う男がやって来て、二人はテレビを見ながらビールを飲み始めた。 ちらりと自分に流すその友人の視線が気持ち悪いとは思ったが、優しい彼の友達を悪く言ってはいけないと、二人の大人の頬にキスをしてベッドに潜り込むとすぐに睡魔はやってきた。 でも、安眠できる夜ではなかったのだ。 彼の友人が眠っている自分の毛布を剥ぎ、下着を脱がせ、蹂躙した。 訳がわからず助けを彼に求めたが、彼は自分の髪を優しく撫でてこう言ったのだ。 「優しさはタダじゃないぜ。優しさが欲しけりゃ、代償を払いな。俺の言うことを聞けば、俺はお前にいつも優しくしてやる。いつもみたいにな。逆らえば……」 子供だった自分にその言葉の意味の半分も理解出来なかった。 「イヤッ……っんああ」 まだ、陰毛すら這えていなくつるりとした性器を彼の友人は口に含んだ。未知の感触に自分は悶え逃げようとするが、彼に肩を抑えられて逃げられなかった。精通すらまだ知らない躯には過ぎる刺激である。 ただ大人達にされるがままに悶えるしか、子供の自分には出来ることはなかったのだ。 朦朧とする意識の中、大きく足を広げられ排泄に使われるその場所に指が捻り込まれる。この街で暮らしていれば、それが何であるかは誰もが子供だって知っていることだ。 自分はそれをわかっていたが、大人相手ではどうしようもなかった。 逆らおうにも、目の前には自分に優しくしてくれる彼の顔がある。 時折、彼にお願いだよと言われたら、子供の自分などどうしたら良いのかわからなくなってしまうではないのか。大人は本心を見せずに、人を騙し、搾取し、そして踏み躙っていくのだ。 それを子供の自分は知らなさ過ぎた。 やがて、大人の性器が無理矢理挿入される。 足を極限まで広げられて、無理に入ってくる大きな物体、腹部を圧迫する絶対的な力。痛みと嘔吐感と眩暈だけが自分を支配していて、気持ちが好いどころではなかった。ギシギシと躯が音を立てて、バラバラになる感覚、でも、逃れられない現実。 声を上げて、誤魔化すしかない。 もしも、誰かが聞きつけて助けてくれるかもしれない。あの母親と同じ境遇の優しい女達が自分をと、必死で声を上げた。 誰か、助けて下さい。良い子にするから、この苦しみから救い出して欲しいと必死で叫んだけれども、それは激しく降る雨音に吸い込まれて、誰の耳にも、全能なる神の元にすら届きはしなかった。 「あっ…」 ジェットは小さな声を上げて、辺りを見渡した。 夢と現実の境が曖昧で、今、自分が幾つで何処に居て何をしているのかわからなくなってしまうことがある。特に不安定になっている時には、それが顕著になるのだ。その夢の内容は様々でどれもが思い出したくもない普段は忘却という抽斗に押し込めている事柄ばかりなのだ。 そんな自分が時折、厭になり、そして眠ることが怖くなることがある。 何か形の見えない不安に苛まれる。どうしてよいのか自分ではわからなくて、まるで、ドル紙幣を握り締めて立ち尽くしていた子供の頃の自分に戻ってしまう気がする。そうあの夢を見て目覚めた後はいつも、何と言うのかつい自分の手を見詰めて、また、ドル紙幣を握っている自分がいるのではないかと、確認してしまう。 そして、自分が握っているのがドル紙幣ではなく鋼鉄の手だと言うことに気付き、ジェットは深い溜め息を吐き出した。 ああ、とうめくような声を薄暗い闇に落として、その鋼鉄の手を握り直した。 誰でもない大切な愛しい男の手、世界でただ一つしか存在しないマシンガンを内臓した鋼鉄の右手、時折、硝煙の匂いをさせる危険な手だけれども、ジェットにしてみれば愛しい男の手にしか過ぎない。 愛しい彼が隣にいるのにどうしてと、辺りを見渡すと、ベッドサイドには煙草の吸殻があったし、その隣にはスコッチウィスキーを入れたグラスがあった。其処に残ったそれは未だに豊かな香りを湿った空気に溶かし込んでいた。 耳障りな音に外に気配を探る手を伸ばせば、激しい雨音が聞こえてくる。 自分がベルリンに到着した時は、雨の気配などなかったのにとジェットはカーテンの引かれた窓を見詰めたが、その向こうは見えない。何故か、カーテンが霞んで見える。どうしたのだろうと、視線を愛しい恋人に転じようとすると、優しい声と手がジェットに触れてきた。 「どうした」 ひっそりと胸に響く、甘い声。鋼鉄の手ではないけれども、人の手にしては些か硬い感触のある左手が頬に触れた。右手をジェットにしっかりと握り締められたまま、アルベルトは腹筋の力で自分の躯を起こすと、ベッドの上でちょこんと子猫のように心許なげに座るジェットの痩躯を引き寄せた。 頬を伝う涙に口唇を寄せて、それを吸い取ってやる。 そう、目が覚めたのはこの気配だった。 戦うことを強制的にプログラムされた男はどんな気配にも聡かった。通常とは違う何かがあっただけで、眠りが自然に浅くなる。隣で恋人のジェットが眠っている時だけ、アルベルトの眠りはいつもより深いものになる。 けれども、彼が眠っている間も働いている器官が、いつもとは違う気配を察してアルベルトを眠りから呼び戻したのだ。 何があるのだろうと目を開けたアルベルトの視線に飛び込んで来たのは、ぼんやりとベッドの上に躯を起こし、暗い部屋に視線を漂わせているジェットの姿で、その瞳には涙があった。頬を伝い毛布にほとほとと流れ落ちる涙に本人は気付いていないようであった。 ジェットが声を出して泣くのはまだ自分の感情をコントロール出来る状態である。泣くことにより、自分の昂ぶった感情をクールダウンさせるのだけれども、声を出して泣かないジェットは危険ではないが、心が弱くなっている状態であることをアルベルトは知っている。 初めて躯を重ねた夜もこうして、彼は声に出さずに泣いていた。 何度かこういう場面に出会ったことがあるけれども、ここのところそれがなかった。随分、安定していると思った矢先の出来事にアルベルトは不安にさせてしまった自分の不甲斐無さに腹が立つ。 「ジェット」 優しく名を呼び、全ての涙を拭おうと口唇を這わせる。意のままに抱き締められてジェットは動かない。自分よりかなり高い体温の躯とすべらかな皮膚の感触が心地好い。 飛行能力を追求した結果、彼の体温は通常の人間よりも高くなっているのだ。 高度の飛行では体温が奪われやすい、それでなくとも高速による飛行ではただでさえ体温が低下するからだ。いつも彼に触れると火がついたかと思う程に温かい。自分の躯はあまり体温を感じないように出来ているからかもしれない。彼から自分の躯に体温が伝染する様はまるで、彼の心が自分に伝染しているようで嬉しい瞬間でもある。 この温もりは機械の躯に、ただ哀しみだけを伝えてくる。 何を哀しんでいると言うのだろうか。自分がここに居て彼を抱き締めていると言うのに、何がジェットをここまで、哀しませているのだ。それをマシンガンで打ち砕けるものならば打ち砕いてしまいたい。 けれども、それはきっと出来ないのだ。 それが、歯痒くてならない。 出来るのはただ、優しく彼の躯を抱き締めることだけなのだ。彼の涙が果つるまで、ただ、抱き締めて『ジェット』と名前を呼び続け、自分はここに居る、独りではないのだとの想いを込めてそう名前を呼ぶしか方法がない。 「ジェット」 甘い響きの声が自分の名前を呼ぶ。 その声にはアルベルトの自分への想いが、積め込まれている。名前を呼ぶだけの声がどんなに自分の心を癒して安らげるようにしてくれるかわかりはしない。優しさを求めても決して、アルベルトはその代償を要求はしない。 ただ、自分の傍に居て欲しいとそれだけを願っていてくれる。 サイボーグの躯で出会った時、既にジェットの躯は清いものではなくなっていた。処女性に拘らないジェットではあるが、それら全てが好きな相手とのセックスではないことにアルベルトに引け目を感じていた。 もし今まで関係した相手が恋愛によって結ばれた相手だとしたら、ここまで自分を卑下したりはしなかった。でも、自分は保身の為に玩具にされるのを承知していて機械の躯を良いようにさせていたのだ。 生身の頃もサイボーグになっても変わらなかった自分の境遇。 でも、今はアルベルトだけなのに、愛している男と躯を重ねているのに、どうしてあんな昔の思い出したくないことをとジェットはそんな自分が厭になった。 アルベルトの久しぶりの休暇なのだ。 前の休暇は同僚の事故で急遽、仕事が入り結局、会えないままであった。そして、ようやく巡ってきた久しぶりのアルベルトの休暇。NYから飛んできたジェットは、合鍵でアパートに入り、直後に帰ってきたアルベルトと挨拶もしないまま抱き合い、離れていた時間を埋めたくて獣のように求め合った。 玄関先でキスを交わし、口唇を重ねたまま服を脱がし合い、性急に求め合う。何度も、何度も、絶頂を迎えて、嬌声を上げて、アルベルトに縋った。 そして、二人でシャワーを浴び、温めだけのインスタント食品で腹を満たすと、ベッドで裸で抱き合いながら眠りについたのだ。こんなに幸福な一時なのに、とジェットは歯痒くてならない。 「アル」 それでも、アルベルトの優しさが欲しい。 手を伸ばせば、アルベルトはどうしたともっと深く抱き締めてくれる。硬い感触の肩に頬を乗せて甘えように擦りつける。もっと優しくして欲しくてならない。自分がアルベルトを起こしてしまったこともわかっている。仕事で疲れているのも理解しているつもりだけれども、アルベルトの優しさが欲しくてならない。 躯を繋ぐとは別の欲求だ。 ひんやりとしたアルベルトの躯の感触がジェットは好きだ。抱き合うと自分の体温が移っていく様にまるで、ひとつに溶け合えるのではないかとの錯覚を覚えられるからだ。躯がセックスでひとつに重なるように心も溶け合えないのかと思うことがあるけれども、アルベルトの考えが全て理解出来るわけでもない。 でも、自分を愛しているとその気持ちだけは理解出来る。 「アル、俺を愛して欲しい」 肩に頬を摺り寄せたまま呟くジェットのその台詞の意味が、決して、抱いて欲しいと言う事ではないとアルベルトもわかっていた。そう、本当に心から愛して欲しいと言っているのだ。 こんなに本気で、過去すらも精算して愛していると告げているのに、男とセックスをしたのは後にも先にも彼一人だというのに、どんなに彼が大切で愛しくて、まるで、少年のようにジェットの姿を見ただけで胸が高鳴る自分が居るのに、とアルベルトは思う。 「ああ、愛している。誰よりも…」 ジェットは決して彼女よりも、とは聞かない。それがまたアルベルトの心を責めさいなむのだ。ジェットがそう聞けば、イエスと答えられる自分がいる。確かに、全てが吹っ切れて過去と成り果てているわけではない。時として、彼女の姿を夢に見ることもあるし、失った喪失感が消えるわけでもない。 でも、死んでしまった彼女よりも、今のアルベルトには生きて腕の中に居るジェットが大切だ。確かに二人を同じ次元で語れはしない。でも、自分の心の葛藤をねじ伏せたとしても、ジェットにそう答えてやりたい。 今は、お前が大切なのだと、お前が俺の愛しい人なのだと、そう伝えてやりたい。 「愛している」 「うん」 ジェットは小さな声で返事をした。 知っている。どんなにアルベルトが自分を愛しいと思っていてくれるかも、愛してくれているのかも、だからこんなにも優しいのだとも、だからなのかもしれない。優し過ぎるから不安になって、雨と煙草とアルコールが要因となって過去のことを思い出してしまったのかもしれない。 優しくして、でも、優しくしないでと相反する感情がある。 優しくして欲しい、でも、優しくされると代償を払わなくてはならないと、何処かでジェットの心にはそれが天井の染みの如く、取れないのかもしれない。 それが切な過ぎる。 「優しくして、でも、優しくしないでくれ」 「難しい注文だな」 アルベルトは僅かに煙草とアルコールの匂いの残るキスをジェットの耳朶に落としながら、そう囁きを吹き入れる。 「うん、ごめん」 いいんだとアルベルトはジェットの素肌を心ごと抱き締めた。 そして、冷えるはずもない躯が冷えては可愛そうだと思う自分の考えに苦笑しつつも、剥きだしの肩に毛布を掛けてそれごともっと深く懐に抱き寄せる。 『愛してる』 本気でその言葉を伝えたい時は、アルベルトは必ず母国語を使う。そして、今、ジェットの心に落とされたのはそれであった。ただ、一言なのに、まるで重く垂れ込めている雨雲が一瞬にして消散し、温かな陽光が差し込むように心がほんわりと温かくなる。 哀しみに支配されていた心がアルベルトの愛がそれを駆逐して、今度は彼の愛に支配されていく。計算も打算もないただ愛情を伝えたいという気持ちに満ちた抱擁と時折落とされるキス、そして、睦言。 それが、ジェットの心を和ませて安心させてくれる。 どんなに自分がアルベルトを必要として、また、彼が差し伸べる全てに安堵を覚えているか、アルベルトは知っているはずだ。そしても彼を自分が愛おしく思っているかも。 少しずつ、溶かされていく意識に染み込むように伝えられる愛が心地好くてジェットは全てを彼に委ねるように、その腕の中で微かに笑みを浮かべた。 どんなことがあっても何があったとしても、彼のこの腕を失わなければ自分は生きていけるのだとジェットは思う。安心出来るこの場所で安らかなる時間を享受したいのだと、ジェットはゆっくりと瞼を閉じて、自分だけに許される彼の腕の中で無防備にその胸に深く顔を埋めた。 「アル……」 「ああ、お前を愛しているとも、ジェット」 |
The fanfictions are written by Urara since'09/04/01