心が壊れる時1



 バイキン星でもっとも発展した都市を望むことができる場所にバイキン大城は建っていた。
 バイキンマンは、そのバイキン大城の主であるバイキン大王の末の息子であり、バイキンマンというのも本当の名前ではない。母親は、大王の最後の王妃と呼ばれた女性で、この星で最も優秀といわれた科学者の娘でもあった。
 しかし、母親はバイキンマンを産んで以来、病床に臥すことが多くなっていた。そして、とうとうバイキンマンが六歳の時に眠るように安らかにこの世を去った。
 それまでは、母親と数人の侍女に囲まれてこの大城の北側にある離宮で暮らしていた。母親が生きている頃から父親である大王には、一度たりともバイキンマンに触れたことなどなく、声すら掛けてもらったこともない。
 大王は、愛する女性であるバイキンマンの母親の命を縮めたともいえる出産によって産まれてきたバイキンマンを憎んでいた。彼さえ生まれなければ、彼女は今も生きていたのだとそう思っていて、バイキンマンには殊更辛く当たっている。
 母親の死に顔すら見ることも、葬儀に参列することも許されず、バイキンマンは祖父である科学者の元に引き取られた。大王の気持ちを知っていた科学者は、万が一を考えて、その身柄を親友であり、大王が唯一手を出すことができないバイキン仙人の元へと預けたのだ。
 そして、時は流れて、バイキンマンは十六歳の見目も麗しい少年に成長していた。
 科学者としての才を祖父から、その麗しい美貌は母親から譲り受けたものであった。そして、父親である大王からは紫の瞳を受け継いでいた。
 十六歳の誕生日を迎えた翌日、大王から呼び出しがあった。親子でありながらも、呼び出されるということなど一度もなかった。
 バイキン仙人は止めたが、バイキンマンは父親である大王からの呼び出しに応じて、今、こうして十年ぶりにこのバイキン大城に遣って来ていた。
 与えられた部屋は、北の離宮へと続く廊下にある小さな部屋であった。
 北の離宮は、あの日のまま封印され、入れるのは掃除を命じられた老婆と大王だけになってしまっていて、バイキンマンですら母親と過ごしたあの日々を思い出させる場所に立ち入ることは出来なかった。
「もう、二度と来れないかも……なのだ」
 窓の向こうに見える離宮の姿を、バイキンマンはじっと見詰めていた。
 バイキンマンを呼び出した大王は、ろくに顔を見ようとはせずに、挨拶もそこそこにアンパンマンを倒して、地球を制服しろとの命令を出した。それも一人で、速やかに、更に、そこにバイキン星が介在していることを悟られることなくとのことであった。
 要するに、バイキン星から追放されるに等しい命令であったけれども、バイキンマンには断る術などなかった。
 父親らしい言葉も掛けてもらえず。
 分かっていたことなのだけれども、バイキンマンは哀しくなった。
 明日は母親の墓参りをしてから、バイキン仙人の元に帰ろうと決めた時、扉が叩かれた。
「誰だ」
「私だ」
 その声は、バイキン星の第二王子。つまり、バイキンマンの兄の一人であった。第一王子は大王の跡取りとして様々な仕事があったし、歳も随分離れていたから、遠くから顔を見たことしかなかった。しかし、この第二王子は唯一、母親を亡くして、部屋の隅で涙を堪えていた自分に優しい声を掛けてくれた人だった。
「兄様」
「入れてもらえないか」
 二番目の兄は外見が大王に一番良く似ている。茶褐色の髪と瞳、浅黒い肌、バイキンマンが見上げなくてはならない程の長身と、バイキンマンが隠れられる程の立派な体格を有していた。剣の腕前も見事なもので、並ぶものがないと言われた武術家でもあった。
 現在は軍部の指導者として、父親である大王の為に働いている。
「どうぞ」
 断る理由を見つけられずに、部屋に招き入れると兄は部屋を見渡して、不機嫌な顔をした。
「随分な部屋に押し込められたな」
 その意味を知っているし、そういう扱いしかされなかったバイキンマンは部屋の隅で小さくなって立っていた。兄は当り前のように部屋に一つしかない椅子に腰を下ろす。
「別に、馬鹿にしたわけじゃないさ。お前に対する親父殿の……、まあ、ベッドにでも座れ」
 声は父親とそっくりだけれども、口調は比べるまでもなく優しく、バイキンマンは少し安心した。そして、ゆっくりと移動して、ベッドの上に腰掛ける。
 どうして、兄が来てくれたのか想像もつかないけれども、少しだけ気に掛けてくれていたことが嬉しい。
 バイキンマンには五人の兄がいるけれども、彼以外誰一人として言葉を交わしたことなどなかった。顔は一方的に知っているけれど、相手が自分の存在を知っているのか、それすらもバイキンマンには分からないことだった。
「兄様、御用は……」
 幼少の頃、大城で育ったとはいえ、北の離宮から出たこともないバイキンマンはこの大城に住む人達が苦手であった。どう接したらよいのか分からないのだ。母親付きの侍女達はとても優しくしてくれたし、声を荒げたり、嫌味を言ったりするようなことなどなかった。
「行く……、つもりなのか」
 大王が命じたことに対しての質問であった。
「はい」
「帰ることは出来ないぞ。分かっているのか。親父殿は地球を征服する気なんて毛頭ない。もし、その件でお前が捕まって処罰されてしまえば、都合がイイぐらいにしか思ってないんだぞ」
 バイキンマンは答えなかった。
 自分が性格的にも体格的にも、戦いに向いていないことぐらい承知している。出来るなら科学者として、このバイキン星の片隅でひっそりと生きて行ければそれだけでよいと願っていた。それ以上の望みなどバイキンマンにはなかったのだ。
 アンパンマンを倒し、地球を征服する。出来ないとわかっていての、無理難題でしかないことだって理解出来る。
「親父殿も、ひどいことをする。いくら、顔を見たくないといってもな」
 知っていたことだけれども、父親に近しい場所にいる兄から聞かされるととても哀しくなる。期待などしていなかったけれども、呼び出された時に僅かな希望が胸にあったことは否定しない。
 俯いて黙ってしまったバイキンマンの所まで兄はゆっくりと移動し、その隣に座ると、細い華奢な肩を慰めるように優しく抱いた。
「ほら、こんなに細い身体で何が出来る」
 こんなに優しく触れられたことのないバイキンマンはつい、心を許してしまいそうになっていた。バイキン仙人は優しくも厳しく、愛情をもって自分を育ててくれたけれども、スキンシップが得意ではなかった。
 スキンシップを好むのはドキンちゃんであるが、こうして、包むように抱き締められることなど母親が生きていた頃以来の出来事だった。
「本当に似ている」
 兄は顎に太い指を沿わせて、バイキンマンの顔を上げさせた。
 白い小さな顔を縁取るのは黒髪で、紫色の瞳は哀しみで潤んでいた。噛み締めていた口唇は紅く染まっている。大王の最後の王妃に生き写しだ。愛していたからこそ、バイキンマンの存在を嫌うという父親の気持ちが分からないわけではないけれども、本当に似ている。
 バイキンマンを今日、遠目から見た時、彼女が蘇って来たのかと思った。
 少年の頃、淡い恋心を抱いた女性を目の前で父親に奪われ、臍を噛んだのは遠い昔の出来事だったけれども、未だに、彼女の面影を忘れることは出来ない。生き返ったのかと思うくらいに、成長したバイキンマンは彼女に似ていた。
「兄様」
「なあ、お前も遠い誰も知らない場所に一人っきりで、戦いに行きたくはないだろう」
 兄は優しくそう言ってくれた。
 本当は行きたくない。
 王位を争うつもりもないし、王族としての権利を主張するつもりもない。ただ、バイキン仙人とドキンちゃんと三人でささやかで静かな暮らしが続けられればそれで良いのだ。
「はい。行きたくは……ない、です」
「そうだろうとも」
 自分に対して、こんなに優しくしてくれる人がいるとはバイキンマンは思いもしなかった。始めての出来事だったから、兄の腹の内を疑うこともバイキンマンは出来なかったし、父親の自分に対する悪意があまりにも強烈で、それ以外の悪意を感じる余裕がバイキンマンにはなかった。
ただ、兄の与えてくれる優しい言葉が、心に沁みてきて、この人の弟でよかったとすらそうバイキンマンには思えたのだ。
「バイキン星に、いたいとは思わないか」
 その問いに、バイキンマンは頷いた。
 わずかに下に顔を動かした時に堪えていた涙がほろりと白い頬を伝って、兄の手の上に落ちた。兄はそれを自分の舌で舐め取ると、しょっぱいなとそう言って笑ってくれた。
 その優しさに、また堪えていた涙が零れそうになる。
「バイキン仙人の元で暮らしたくはないか」
 バイキンマンはまたも頷く。
「一つだけ、方法がなくはない」
 兄はそう言って、バイキンマンを抱き寄せた。
 広い胸の中に小柄なバイキンマンは簡単に収まってしまう。けれども、バイキンマンはイヤだとは思わなかった。
「お前にしか出来ないことだ」
 抱き締められたまま、耳元で囁かれる。
 そして、抱き締められたままベッドの上に横たえられ、兄の顔が上から覗き込むようにバイキンマンを見詰めていた。
「ワタシノモノになれ、そうすれば、親父殿にこの命令を取り消してもらえるように働きかけてやろう」
 その意味がバイキンマンには分からなかった。
「兄様」
「そう、お前は、何もしなくとも良い。私の言う通りにしていれば悪いようにはしない」
 兄の顔がぼやけてしまうくらい近寄って来て、そのまま口を塞がれた。生温い感触が口唇を支配して、逃げようとするのだが、兄に押さえつけられていては逃げることも叶わない。
 何が起こっているのか、その時のバイキンマンには理解することは出来なかった





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The fanfictions are written by Kurataki Humiharu since'19/11/09