砕け散る魂



冷たくなった骸。
愛した瞳を見ることは永遠に叶わない。
不思議と泪は溢れずに、心にぽかりと穴が空いただけ。

哀悼、虚無、消失……。
何一つ、感情が見当たらない。

暗い心の平原だけが見えている。
光も色も形も存在してはいない。
ああ、彼が自分の全てを連れて、いや、自分の全ては彼と共に旅立っていったのだ。

ただ、愛した人の骸が其処に存在しているだけだ。
いや、今でも愛しているのだけれども、心は彼と共にある。
愛は自分の内には存在はしていない。

心のない肉体。
早く砕けてしまえと小さく呟いた。
心も魂も、肉体もそして生命も全てが砕け散ってしまえと……。
何もかもが砕けてしまえと、闇に向かってただ呟く。

―――――呪詛のように紡がれる言葉―――――

『砕け散ってしまえ』











 太陽が沈みかけた海は終焉を迎えようとする自分たちの人生を反映させているようで、アルベルトはもの哀しさを覚える。生身の人間であることを止めてから長い年月が流れた。外見上は年を取らない自分たちの周りを駆け抜けて行った人達の面差しが、茜色に染まりつつある海に空に映し出されては消えて行く。
 隣に座りぼんやりと砂を掻いているジェットの人生の終焉の時はもうすぐ其処まで来ていた。
 出会った時と何ら変わらぬ容貌であるのに、別人に見える。
 斜に構えたあの子供っぽい言い草や、アルベルトに躯を摺り寄せ甘える仕草も、抱いて欲しいと妖艶に迫る媚態ももう見られないのだ。
 ここ数十年ほど、BG団にとっても、彼等00サイボーグは過去の遺物と成り果てて、抹殺しようとつけ狙われるようなこともなくなった。彼等の肉体の面倒を見られるのは自分だけだと老体に鞭を打って生き長らえていたギルモア博士がこの世を去ってから、既に半世紀近い年月が流れている。
 ギルモア博士は自分が死んだ後、彼等の面倒を見て欲しいと時折、博士を手伝っていた遠縁にあたる女性の科学者に後を託したのだ。
 ちょうど一年前に彼女によるメンテナンスが終わった数日後に、アルベルトは独りだけ呼び出され、そして、ジェットの病気のことを告げられた。
 現代の医学をもってしても治療不可能といわれる類のものであった。そう言えば、ジェットの物忘れの激しさを単なる年のせいだと思っていたのだ。いくら外見は変わらなくとも、彼等の脳と生体機能は生身のままなのだ。普通の人間が年を取るように次第に衰えていく。物忘れが多くなったりしてしまうことも仕方がないことなのだ。アルツハイマーに対しての特効薬が出来た今でも人間の老いを止めることは出来ないのだ。
 その病はある箇所に腫瘍を作り、まず、記憶を司る部位を壊死させ、次第に躯を動かす為の脳の各部位を壊死させる。ジェットはもう、ほとんど昔のことは記憶してはいないし、自分の名前すら口にして綴れなくなってしまっている。されるがままにまるで人形のように動くこともなく息をしているだけである。
 軽やかなステップを踏む足も動かないし、しなやかに自分の躯に回される腕も時折、動く程度でほとんど何もできない。
 今日は調子が良いのか指先で砂を掻いている。
 ジェットの記憶をコンピューターに移し換えて記憶の再構成を行う技術が開発されつつあり、試してみるかと彼女に打診されたが、アルベルトは断った。脳すらも、機械に変えてしまったらもう自分たちは本当に機械でしかなくなってしまう。
 このままジェットが死ぬのであれば、安らかに穏やかに死なせてやって欲しいと願う。
 ギルモア研究所近くのコテージに引越し、二人きりの静かな生活を始めて、ちょうど今日で一年経った。
 ふいに涙が零れそうになる。
 一緒に逝くと約束したのにと、その約束を故意ではなくとも反故にしようとしているジェットに腹が立つと同時に、一緒に居てやる以外に何もできない自分が腹立たしい。
 唯一、救われていることは、もうほとんど、記憶も人の認識もせぬジェットがアルベルトの世話以外を拒むことである。アルベルト以外の人物が触れただけで、躯を震わせ恐怖を訴えてくる。
 アルベルトを求めて、動くこともままならぬ躯で縋りついてくる。
 脳の中の記憶に自分の存在はなくとも、躯や心の中に少なくとも自分の面影が残っていてくれると思いたい。寝ていても時折、縋るように、探すように伸ばされる手を鋼鉄の手で握り締めてやるとジェットはまた再び、安らかな眠りへと落ちて行くのだ。
 それだけでも、アルベルトには救いであった。
 どんなになっても、まだジェットは自分を忘れてはいない。
 何処かで求めていてくれるのだ。
 そういえば、最初は自分がジェットに随分甘えていた気がしていた。ヒルダのことを引き摺りながら、ジェットに誘われるままに彼に愛情も感じぬまま欲と負の感情をぶつけていた日々、そして、彼を好きだと自覚し始めていながら好きだと告げられなかった日々。BGから逃げ出し、彼がどんなに甘えん坊で寂しがり屋なのか知っていった日々。愛していると告げた日。穏やかに抱き合った日。戦いの中で死を覚悟した日。様々な日々がアルベルトの脳裏を走り抜けて行く。
 どれも大切な日々。
 万華鏡のようにくるくると表情を変えるジェットのその全てをアルベルトは記憶していて、どんな仕草も鮮明に思い出せる。
「冷えてきたな。帰ろう」
 アルベルトはそう言うと返事もしないジェットを抱き上げる。アルベルトが何を言ってもぼんやりとした反応しか戻っては来ない。反応があればまだマシな方なのだ。ジェットの病状は其処まで進んでいた。
 大人しく抱き上げられたジエットの躯は、元々、飛行能力に重点を置かれてサイボーグ化された為軽量化されているが、にしても軽すぎる。病状の進行に伴って、意識を制御出来ぬままの飛行は危険だと、飛行能力を司る機能を取り外された。かつての空を駆ける美しい姿を物語っているのは、足の裏に残された噴射口と脇の下の排気口だけである。
 けれども、気温の低い高度での飛行を可能にする為に、体温が高く設定された躯は抱き締めれば、子猫のような体温が鋼鉄の手を通して伝わってくる。
「あ、ぁ〜」
 ジェットは指で夕日を差し示した。
 声を出すなんて珍しいこともあるものだと、アルベルトはジェットを横抱きにしたままその半身を水平線に隠した太陽を見詰めていた。ジェットの赤味のかかった金髪が、茜色の光りを受けて更に赤く炎のように燃え上がる。
 最後の命を燃やしているかの如くに見えてしまい、つい抱き上げる腕に力が篭る。
 太陽を見詰めていたジェットの視線がアルベルトに戻ってきた。
 そして、一度、その胸に顔を埋めて頭を子猫のように擦りつける。まだ、ジェットがジェットであった頃、よく甘えるようにこうして頭を擦り付けてきたものだと、アルベルトは泣きそうになる自分を戒める為、空を仰ぎ、ぎゅっと口唇を噛んだ。
 泣かないでと言わんばかりに、ジェットの温かい手がアルベルトの頬を包むように触れた。その感触にアルベルトは通じぬはずの意思が通じているような感覚に囚われて、視線をジェットに戻した。
 其処には、ガラス玉のような瞳はなく、あの晴れ渡る空のように鮮やかな青い瞳が蘇っていたのだ。夢なのかと、目を大きく見開いたアルベルトにジェットは笑い掛ける。
「アル……ごめん」
 あの鮮やかな日々の中にあるジェットの姿であった。
 枯れ果てようとしていたアルベルトの感情の泉が、凄まじい勢いで満たされるを感じる。色彩を失いかけていた世界が艶やかに彩られていく。彼がいないだけで、こんなに世界は変わるのだと、ジェットに伝えたかった。
「ジェット…」
 けれども、次の瞬間には、もう、そこにはいつもの人形のようなジェットしか居なかった。ぼんやりとガラスの瞳でアルベルトを見ているだけのジェットが居るだけだ。
 まるで、幻いや白昼夢のようなヒトコマであった。
 でも、あのジェットは自分が自分に見せた都合の良い幻ではない。そうアルベルトは確信しているのだ。
 ジェットのあの言葉に全てが伝えられている。死ぬ時は一緒だとの約束を破ってしまうことへの謝罪と、そして、こんな自分でももう一緒に居てあげられないと伝えに来たのだとアルベルトには直感出来た。
 ジェットの命は後数日、いや数時間かもしれない。
 最後には、生体機能すらも止まり自発的な呼吸が出来なくなるのだと言っていた。本人に痛みはなく眠るように穏やかな死が訪れるのだと聞いていたから、延命措置を施すことを自分だけの一存で断った。
 最後ぐらいは機械に繋がれたままではなく、人間らしく死なせてやりたい。
 アルベルトがジェットに出来る最後の愛の形だと、そう考えるのだ。
 こつんと、軽い小さな頭部がアルベルトの肩に乗せられる。そして、アルベルトのシャツをぎゅっと掴むと、寒いのか躯を縮ませる。そんな頼りなげなジェットの躯をしっかりとアルベルトは腕の中に抱き締める。
 そして、ジェットが残した全てを覚えていたいと彼が砂地を掻いていた場所に視線を落としたアルベルトはまたも、ジェットの自分に対する想いの深さを知らされる。
『I Love you』
 使い古された変哲のない愛の言葉なのに、深く深くアルベルトに突き刺さる。こんなになってもまだ、自分を愛していると告げなくてはと想うジェットの心にアルベルトは泣きたい気持ちをぐっと堪える。
 決して泣くものかと、いや泣けない。
 彼が安らかに死せるその瞬間までは、泣きたくはない。
 くだらない男のプライドなのかもしれないが、アルベルトはジェットの病気を告げられた日からそう決めていたのだ。
 細い躯を大切な宝物のように抱き、軟らかな髪にキスを一つ落として、アルベルトはゆっくりと2人のコテージへと残された時間を過ごす為に歩き始める。
 次第に満ちる潮の流れに消されてしまうであろう砂の上の文字だけれども、アルベルトの心に書かれた文字は消えることはない。
 夕日が2人を照らし、まるで愛の炎に包まれるかのようにその姿を赤く赤く映し出していた。





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