愛を忘れられない魂



 独りで過ごす二度目の夏だ。
 ジェットの最期を看取ったその小さなコテージでアルベルトは今も暮らしている。別に、何をすることもなく、日々がゆったりと過ぎていく。
 ギルモア博士が残した回顧録を整理したり、自分たちの戦いの記録を整理するだけの日々。そして、時折、ドイツ語の翻訳の仕事を引き受けたりと、ほとんど外に出掛けることもなくここ数日を過ごしている。
 もうすぐ、日本でいうところの彼岸がやってくる。
 ジェットの墓はジェット本人が生前から望んでいたように作られてはいない。ただ、二人で最期の時を過ごしたコテージから少し歩いた場所に小さな桜の木が植えられていて、それはジェットを偲ぶ為に仲間たちが植えたものであった。
 ジェットの遺体は本人の希望通りに洋上で爆破され、粉々になり何一つ残らずに太平洋に深く沈んでいった。
 何も残さないでくれと、そうジェットは常に言っていた。
 自分も多分、そう思う。
 無様な機械の躯を晒したまま死ぬのならば、いっそ何も残らぬほどに木っ端微塵になってしまう方を自分も選択するであろうから、そうしたのだ。独りでジェットの遺体を爆破した。多分、仲間たちは泣くから、そんな姿を死んだとはいえジェットには見せたくなかった。人一倍、仲間思いの優しい青年をあの世に旅立たせる為に未練を残させたくはない。
 今更、神も仏もないけれども、そう自分が思ったから、自分ならそうして欲しいと思えるから、自分の一存でそうした。
 仲間たちがジェットの死を知ったのは、ジェットが死んでから、一ヶ月も経った後のことで、遺体は跡形もなく太平洋に沈んだ後だった。
 誰もが、死すら知らせなかったアルベルトをフランソワーズを除いた全員が責めた。冷たい奴だと、ただの一言も言い返さぬアルベルトに掴み掛かって泣いたのは意外にもブリテンであったのだ。
 あれ以来、会った仲間はフランソワーズとジョーとイワンだけである。
 もっとも、イワンは彼の研究のデータを取り纏める仕事を手伝っているということもあるが、アルベルト自身が仲間を避けてしまっている。
 彼等に会えば、いやでもジェットを思い出す。
 忘れたいわけではない。
 だからこそジェットが最期の時を迎えたこの場所から、動けないでいる。ヒルダを失ったあの時とは違う。消失感はあるし、心に空いた空洞を埋められはしないけれども、自棄になるようなことも深い悔恨に囚われることもない。
 自分に死が訪れる日を待てる、そんな穏やかな心持ちにようやくなれたのだ。
 いい年をした男がと思うが、ジェットの思い出に浸りたくなる夜もあるし、横に居たはずの恋人の躯を探して目覚める夜もある。艶やかな媚態を思い出して、独り行為に耽ることもなくはない。
 人が聞けば情けないと言われるかもしれないが、ようやく普通の男に戻れた気もするアルベルトなのだ。仲間に普通の顔をして会える自分になれるまでには今暫くは時間が欲しいし、ジェットを失った悲しみから仲間が立ち直れるにも時間が暫し必要だろう。
 でも、不思議と独りでこのコテージで暮らすことが寂しいと思ったことはない。
 ジェットの残した空気が今でも自分を優しく包んでくれいるようで、それがアルベルトの心を和ませる。
 本を読みながら、ゆっくりと午後を過ごすつもりがついぼんやりと考えことをしてしまっていた。
 最近の自分はこうだ。
 仕事がないとすぐにぼんやりと思い出に浸ってしまっている。
 自分の老い先も長くはないのかと思うけれども、反対にジェットを失った今は死ぬことが怖くはなくなった。戦いに明け暮れていた頃は死ぬのが怖かった。ジェットを失うことが、自分が死んでジェットを悲しませることが怖かった。死という未知な世界が怖かった。
 でも、ジェットは死んでしまったのだ。
 自分が死んでもジェットはもう悲しまない。それが救いである。残される側の悲しみは誰よりも自分自身が知っている。どんなに後悔しても、苦しんでも、戻れないあの時間を一生背負って生きていくことは決して、楽なことではない。
 それでも、長い年月を生きて来た。
 自分が生まれてから、既に一世紀以上という時間が過ぎていったのだ。彼らが見て感じた時代は既に歴史の1ページになってしまっている。あの悲劇の元となったベルリンの壁も辛うじて、教科書に影を残して、その時を生きてきた人たちもほとんど地上には存在してはいない。
 十分に生きたと思う。
 これ以上何かをしたいという欲求は生まれては来ない。
 ただ、日々だけが通り過ぎていく。
 何もないただぼんやりと過ごした一日が終わろうとしていた。
 太陽がその半身を水平線に隠して、茜色のジェットの赤味のかかった金髪を彷彿とさせるような彩はすぐに褪せて紫の空に取って代わられてしまっていた。
「さて、夕飯は何にしようか?」
 と独り言をへの字に曲げた口唇に乗せて、アルベルトはテーブルのまだ一口残されていたコーヒーカップを手に取り立ち上がると、足を引きずるようにしてキッチンに向かった。
 足に内臓されているミサイルも今は最低の護身用を残しているだけで、関節の具合が良くなくギルモア博士の後を引き継いで彼ら00ナンバーの面倒を引き受けてくれている女性科学者の元にマメにメンテナンスに通っているが、アルベルトが過ごしてきた長い時間を考えれば仕方ないことである。
 BG団は今も存在しているけれども、彼らが戦ったのはBG団というのは組織の末端部署に過ぎなかった。確かに、彼らが改造された頃は戦争は大きな儲けに繋がったのかもしれないが、今はそうではない。戦争で利益は上げられない時代になってしまっていたし、彼らが戦った武器製造部門の開発を行う組織は既になく、追われることも狙われることもなくなった。
 00ナンバーたちは、BG団の言わば汚点であった武器開発製造部門と共に闇に葬り去られたのだ。だから、戦う必要はなくなってしまった。
 新しい技術を取り入れた再改造を行えば、スムースな動きが出来る躯になるというが、今更、どうしろというのだとアルベルトはそれを拒み続けて、古い機械の躯に固執し続けている。何故なら、新しい躯にしてしまったら、ジェットが自分の躯に残した名残りが全て消えてしまうような気がしていたからだ。
 ジェットの使っていた日用品はそのままになっている。誰も訪ねて来ないコテージのキッチンは寂しいほどに閑散としていた。
 冷蔵庫を開けるが、牛乳と卵、チーズにソーセージが入っているだけだ。
 独りの食事は味気ないものだが、何もしなくとも昼食を取っていないので腹は減った気がする。不思議なものだと自分の機械の躯をアルベルトはそう評した。
 明日はいい加減買い物に出掛けなくてはと心のメモにそう記すと小麦粉とベーキングパウダーとコーンスターチを棚から取り出し目分量でボールに入れた。卵1個に牛乳を注いで、乱暴に泡立てる。
 クッキングヒーターのスイッチを入れフライパンを温めながら、電子レンジでソーセージをボイルする。温まったフライパンにボールの中身を注ぐとすぐに泡が立ち始め、表面にいっぱいの泡を確認してから馴れた手つきでひっくり返すと小麦色に綺麗に焼けたパンケーキの肌が顔を出した。
 出来上がった大き目のパンケーキを皿に移して、その上にチーズでも乗せて、シロップがなかったからジャムでも添えようかとほくほくと湯気を立てるパンケーキを見た。
『アル。ハッピーバースディ!』
 突然、ジェットの声が聞こえた気がして、はっとする。
 死んだはずのジェットの声を姿を幻のように見たり聞いたりしてしまうこの頃であった。お迎えに来たいならさっさと来ればいいものをと思いつつも、それは自分が勝手に作り出した幻だと自覚すると苦笑が漏れてしまう。
 ああ、昔そう、ジェットが生きていた頃、まだ自分たちがBG団と戦っていた頃に、何度目かの一緒に過ごす自分の誕生日にジェットは顔や手にパンケーキのタネを引っ付けながら、表面の少し焦げたパンケーキ焼いて其処に30本のろうそくを立てて祝ってくれた。
 からっきし料理が苦手なジェットが料理の得意なジョーに泣きついて特訓に特訓を重ねた結果であったと知っていたから、嬉しかった。
 味の問題ではなくて、必死で自分のことを思ってくれるその気持ちが嬉しかった。
 それから、毎年ジェットは必ずアルベルトの誕生日にはパンケーキを焼いた。毎年、わずかずつでもアルベルトの味覚に沿うように上達していくその姿に微笑ましいものを感じた。そして、毎年30本のろうそくをたてて祝ってくれた。なぜ30本と聞くと、それ以上は飾れないし、アルベルトがそれ以上のおっさんだって認めたくないからとジェットはそう言って笑った。
 懐かしい思い出がアルベルトを支配する。
 ふとキッチンに置かれたデジタル時計を見遣ると9月19日と日付が刻まれていた。
「仕方ねぇな」
 とアルベルトは呟きながら食器棚の引き出しから、ろうそくを取り出した。何故、ろうそくがそんなにもあるのかというと、買い忘れるといけないからと思いつきでジェットが大量に誕生日用のろうそくをこれでもかと買い求めたおかげであった。全てを使い切るためには、後10年は生きていなくてはならないだろう量がまだ残っている。
 パンケーキにきっちり30本立てるとろうそくに火を点ける為だけに仕舞われていた時代遅れのライターで火を点す。その時代遅れのライターは、時代遅れの機械の躯を持つ自分と同じだと、そう思えた。
「これで、いいだろう。ジェット」
 アルベルトはそう言って30本のろうそくの立てられたパンケーキを見詰めて穏やかな笑みを浮かべた。あれは空耳ではなくてあの世にいるジェットからの声だと、そう信じたかった。
 魂の破片はまだアルベルトの傍にあっていつも自分を見守って、支えてくれているはずだからこそ、コテージにはジェット残した幾つモノ痕跡が消えぬままに残っているのだ。
 まるで、女房に置いていかれた年寄りの男やもめみたいだと自分をそう評したけれども、情けないとは今のアルベルトには思えない。誰もが、先の短い人生で最愛の人を失えば、そうなるのだと長い間、生きてきたからこそわかる。
 大抵、男というものはそういう情けない存在なのだと、ジェットを失って知ったことだった。
 でも、情けなくともジェットの面影が自分の中にある間は生き続けていこう。どんな辛くとも、逃げたり負けたりはしないでいたい。いつか、あの世でジェットに再会した時に情けない男になっていても、彼に恥じる行為だけはしたくないとそうアルベルトは思っている。
「ありがとう。ジェット」
 そう呟いてアルベルトはろうそくの火を吹き消した。





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