死神と言われた男の素顔



 恐ろしかった。
 何がと問われてもジェットには答えられないが、あの凍えた瞳が恐ろしく、あの鋼鉄の手で心臓を鷲掴みにされるような恐怖に足が竦んでしまったのだ。
 それが、腹立たしい。
 彼がどんなに過酷な時を経て、サイボーグになったかは知らないけれども、あの目を見た瞬間その場から逃げ出そうと後退りをした自分に向けられた感情のない瞳が、そして、血塗れであっても、何の感慨も示さない彼は畏怖の対象でしかなかったのだ。
 その場では、生きていたのは自分達二人だけだったけれども、四肢を裂かれてバラバラになり骸と化した死体が起き上がってラインダンスを始めた方が、まだマシだとジェットは頭の隅で考えてしまっていた。
 人間は過度のストレスを感じるとつい思考を摩り替えたりしてしまうことがあるが、ジェットがしたのはそれと変わらないことだったけれども、でも、血塗れの顔と感情のない瞳を持った男からジェットは離れられないのだ。
 大切な仲間の一人だからこそ、ジェットには怖かった。
 男の持つ、深い傷跡を今後直視しなくてはならなくなるという予感があったからなのかは、未だにジェットにも理解できずに彼等を回収にやって来たヘリコプターが近くに着地するまで、その場に立ち竦んでいた。






「怖かったんだ」
 ジェットはそう呟くと宥めるように髪を梳いてくれるフランソワーズの温かで豊かな胸に顔を埋めて、そう呟いた。
「何が、怖かったの。今日の訓練はそんな大変だったの」
 フランソワーズはいつも優しい。母のように姉のようにそして、妹のようにジェットの心を抱き締めてくれる。確かに、肉体的にはジェットの方が優れているのかもしれないが、彼女には情報を収集する為の力が備わっている。
 そして、女性特有の精神的な強さも持ち合わせているのだった。
 どんなに虚勢を張っていても、ジェットの優しい純粋な心が傷つき易く出来ているのかなど、フランソワーズは出会った時からわかっていた。ジェットは自分がどんなに辛くとも、悲しくとも、笑ってみせられるだけの強さを持っていたが、それは哀しいまでの強さで、その姿を見た瞬間、フランソワーズ中で強い何かが生まれたのだ。
 彼を守ってあげたい。
 好きとかではない。恋でもない。
 ただ、同じ境遇で生きていかなくてはいけない者として、彼の心を抱き締めてあげたいとそう自然と思えた。肉体的にはどうであれ、精神的には強くならなくてはと口唇を噛み締めた。自分だとて抱きしめてもらいたい時もあるし、抱き締めてあげたいこともある。だからこそ、いつも自分を守ってくれようとするジェットを抱き締めてあげたいのだ。
 どんなに辛い時も、フランソワーズのことを優先的に考えてくれた。
 自分がどんなに改造の後遺症等で悩まされて立っているのが辛くとも、フランソワーズの体調が悪ければ、寝入るまで傍についていてくれて、今、フランソワーズがジェットを抱き締めているように抱き締めてくれた。
 最初は抱き締められるだけの関係が次第に逆転していった。
 今はこうしてジェットを抱き締めてあげられる割合が多くなったことに、フランソワーズは少し満足をしていたのだ。
「訓練は…」
 ジェットは言い澱んだ。
 今更であるのだけれども、人を殺した事実をフランソワーズに告げるのは躊躇いがある。彼女も実際には、今日の自分達の訓練と同じような訓練は受けているけれども、躊躇してしまう辺りがジェットが彼女に対してどう思っているかの表れであった。
「あまり、素敵な訓練じゃ、なかったみたいね。ジェット」
 フランソワーズはそう言って、赤味の帯びた金色の髪にキスを一つ落とした。甘いフランソワーズの体臭がジェットの鼻腔をくすぐっていく。安心できる匂いを胸一杯に吸い込んで、言って御覧なさいと穏やかに促してくれる彼女の強さと自分に対する愛情に促されるようにジェットは言葉を続けた。
「あっ、うん、生身の人が相手だったから…」
 ジェットはそう言う。
 それだけで、フランソワーズはその意味を理解した。時折、生身の兵士を相手に訓練をさせることがある。如何に効率よく生身の相手を殺傷するかの訓練と人を殺傷した場合に訪れる心身的なショックを和らげる為でもある。
 あくまでもサイボーグは兵器として存在しなくてはならない。
 兵器の価値は殺傷能力で決まる。
 相手を殺すことに躊躇がある兵器など、地上には存在しないからだ。
 フランソワーズといえども、その過酷な訓練の日々を生き抜いている。特殊部隊以上に過酷な訓練の中で彼女自身、生身の人間から見ればとても考えられぬほどの能力を持った兵士としての能力を持っているのだ。
 いくら歩くレーダーとしての能力を持っていても、戦場に出れば自分を守れるのは自分だけなのだと、戦う術を叩き込まれていた。
「そう……」
 これ以上、何を言えというのだろうか。
 約束したのだ。地を這ってでも、他人を犠牲にしてでも、研究所の連中に性的な玩具にされようとも、歯を食いしばって生き延びようと、いずれここを出られるチャンスの来ることを信じて二人で生き抜いていこうと固く誓ったのだ。
 確かに、人を殺すことに罪の意識がないわけではない。
 それが出来る自分が恐ろしいと思うこともあるし、夜中に自分が眉間を打ち抜いたはずの男が立ち上がって自分に襲い掛かる夢を見て飛び起きることもあるけれども、でも、ジェットがいる限りは死ねないと、そう言い切れるフランソワーズがここにはいる。
「……だったのね」
 フランソワーズは知っていた。ジェットが恐れているのはそのようなことではないことぐらい。彼が恐れているのは、何故なのかは分からないが、最近、自分達と同じように改造されて同じ境遇に置かれたドイツ人であることを。
 今日の夕刻、訓練を終えて、ジェットの方が一足早く部屋に戻ってきていた。
 何かから逃れるように、せかせかと部屋を動き回り、遅れてハインリヒが戻って来た時、フランソワーズの隣に座っていたジェットは明らかに身体を緊張で強張らせたのだ。朝、訓練に向かう前までは普通だったのだ。今日は訓練等の予定のないフランソワーズの頬にキスをして、出掛けていった時の二人には何もなかった。
 とすれば、訓練の間に、何かが起こったと考えるのが妥当である。
 閉鎖的な空間に閉じ込められて、外部の情報をあまり与えられない生活の中で、僅かな事柄を繋ぎ合わせて一つの推察をすることをフランソワーズは覚えた。自分が手に入れられる情報から、少しでもここから出る為の活路を見出すには、塵すら見逃すわけにはいかないのだ。
「違う…、怖かったのは、そのぉ、ハインリヒなんだ」
「彼が?」
 確かに今夜のジェットの行動はそれを示唆しているけれども、でも、何故、ジェットがハインリヒを恐れなくてはいけないのかまではフランソワーズにも予測がつかなかった。
 ハインリヒが故意にジェットを怯えさせるようなことをするわけはない。
 何故なら、ジェットがいない間、いつも、どんなにジェットが良い子で優しく、そして傷つき易い純粋な心を持っているのかさり気に話して聞かせていたし、存外に保護欲のある面倒見の良い年長者は、一見、跳ねッ返りのジェットをフランソワーズにしか分からぬ形でフォロしてくれている。
「彼、イイ人だと思うわよ。少し、変わってるけれども…」
「うん、分かってるよ」
 ジェットはそう答える。
 自分でも、どうして怖いのか、どうやったらフランソワーズに伝えられるのかジェットには分からないのだ。確かに、色々なことを経験しているけれども、幼少の頃より恵まれなかった生活をしていたジェットはフランソワーズに出会うまで文字すら読めなかったし、自分の名前すら書けなかったのだ。
 決して、知能的に劣っているわけではないのだが、苛烈な環境が彼から学ぶことを奪い去ってしまっていた。
 英語を多少だが理解できたフランソワーズは一緒に勉強しましょうと、ジェットに読み書きを教え始めた。ようやく小学校2、3年程度の読み書きが出来るようになったのだ。だからして、ジェットのボギャブラリーは特に形容詞に弱く、自分の気持ちを旨く相手に伝えられなく誤解を招きやすい。
 それをちゃんと知っているから、時間をかけてフランソワーズは一つ、一つジェットの杞憂を解していこうとしていた。
「でも、戦闘の時の目が怖かったんだ」
 とジェットは思い出してしまっただけで、身を震わせて、更にフランソワーズにぎゅっとしがみついてきた。
 ハインリヒが来てから、ジェットと二人で過ごしていた部屋の内装に変化が見られた。
 今までは一部屋を二人で使っていたし、ベッドも同じであったけれども、その部屋を真ん中にして、左手に二つ、右手に一つ部屋が増設されて、それぞれの個室となったのだ。二人で使っていた部屋は三人共有のスペースになっていて、眠る以外に三人はこの場所で時間を過ごすことが多かった。
 それでも、今までの習慣からか二人は何かあるとこうやって抱き合って眠る夜が未だに多くある。
 それだけで、荒んだ心が癒されるのだ。
 互いの存在だけが支えであった二人にしてみれば当然の行為であった。
「それはね…」
 フランソワーズはそう言って苦笑した。
 戦闘訓練から戻った時、鏡で自分の顔を見るのが怖いことがあるのだから、それはもう戦いの中に身を置かなくてはならない立場ならば仕方がないことだけれども、でも、ジェットもそれくらいは理解できているはずなのにと、フランソワーズは眉を顰めた。
「う、うん。確かに、フランの言うこと分かる。でも、あいつの目、ガラス玉みたいだった。普段は、そんなことにないのに…。昔見たことのある。マフィアの殺し屋みたいな目ぇ、してた。その目で睨まれた時、すっげぇ、怖かった。足が竦んで、何も出来なかった。仲間なのに、イイ奴だって分かってんのに、でも、オレ、怖くって…フラン」
 途切れ、途切れの断片的なジェットの言葉から、その心の内をフランソワーズは推察した。でも、どうしてやれるわけではない。二人の間に、自分と一緒とは言わないが、何らかの形で信頼関係が成り立たなくては、ジェットの心の中に生まれてしまったその恐怖を取り除いてはやれないだろう。
「あたしも、良くは知らないんだけどね。ちょっと小耳に挟んだことがあるのよ。事故で、恋人を失って自分も死に掛けていたのを、ここに運び込まれたって…。恋人に死なれてしなったことを…、それが彼をそう見せているのではないのかしら」
「わかんねぇけど…、オレは」
 ジェットは何かを言いかけて止めた。
 怖がってばかりいたいわけではなく、本当は数少ない仲間としてジェットはちゃんとハインリヒと向き合いたいとは思っている。でも、何処か彼の存在は擦りガラスの向こうにあるようで、踏み込めずにいるのだ。でも、彼が優しい心を持っていることは、眩暈で倒れかけたフランソワーズに手を伸ばして、ソファーに横たえた時の仕草でそれは見て取れる。
「ごめんな、フラン。ヘンなこと言っちまって…」
「いいのよ。久しぶりにジェットと寝れてあたしも嬉しいわ」
 そう言うと二人は互いを守るように抱き締め合って、自由になれる眠りの世界へと旅立っていったのだった。






 穏やかな眠りだった。
 まるで、心地の良い温かな闇に吸い込まれる感触にジェットは逆らえなかった。
 でも、その温かな場所から何者かが、自分を連れ出そうとやって来るのが肌で感じられて、手で払おうとするが足からじわりと這い上がってくるそれに勝てるはずもなく畜生と自分のふがいなさを嘆いたその時、それは確実にジェットの膝に襲い掛かった。
「イテッ!!」
 眠りに落ちていた神経が躯が全て叩き起される痛みにジェットは顔を顰めた。膝に乗せていた本をぱさりと床に落としてしまう。ソファーの反対の端で本を読んでいたもう一人の住人がちらりと視線を流してくる気配を肌で感じ取りながら、痛みの波が引くまでジェットは俯いて耐えていた。
「大丈夫か?」
 もう一人の住人はその重量級の体躯には似合わぬ身軽さでジェットの隣まで移動すると、痛みに歪んだジェットの顔を覗き込んだ。視界を横切る銀髪にジェットは昨日の訓練のあの彼の容貌を思い出して、痛みではない恐れという感情から躯に震えが走った。
 ここに居るのは、あの彼ではないけれども、覚えてしまった恐怖からジェットは逃れられずにいる。幼少から、怖い思いは沢山してきたし、それを克服する方法も知っているけれども、彼に感じさせられた怖さは今のまでに味わったことのないもので、それが故にジェットの恐怖心を更に煽り立てたのだ。
 様々な感情が心の中を行き交い。何でもない、ちょっと居眠りしてただけだと、そう言い訳をするチャンスを逃してしまった。
「待ってろ」
 ジェットの震えを寒気と勘違いしたのか、自分の部屋にとって返すと毛布をもってすぐに戻ってきた。ジェットの痩躯をまるで、壊れ物でも扱うようにそっと毛布で包むと、下の方から子供に語りかけるような面持ちで覗き込んでくる。
 こわごわと視線を合わせた其処には、穏やかな深い海の色を湛えたシルバーグレーの瞳があった。寒さを感じる彩なのに、そこに宿る光はとても温かなものに感じられる。
 昨日の、感情のまるでないガラスの瞳を持った男と同一人物の思えないものがあった。
「膝が痛いのか?」
 何も言わぬジェットに優しくそう問い掛ける。耳元で囁かれたドイツ語訛りの英語は何処か心地良く思えて、そんな自分にジェットは戸惑っていた。でも、どうして、自分が膝が痛いと一瞥しただけで分かるかジェットにはそれが分からなくて不安になる。
「どうして…」
 知っているのだとジェットは痛みで潤んだ瞳で彼を睨み付けた。知っているのはフランソワーズだけのはずだ。時折、膝の関節に激痛が走るのだ。そんな時はいつも、フランソワーズが撫でてくれていた。それだけで、痛みが和らぐような気がしていたからだ。
 フランソワーズが頭痛にさいなまれる時はいつも、首筋をさすったり、頭を撫でてあげたりしているのだ。機械を埋め込まれた躯はそこかしこでわずかに残った生身の部分が悲鳴を上げる。
 本当は膝が痛いわけではないのかもしれない。
 でも、ジェットの脳は膝が痛いと認識している。機械が痛みなんか感じるはずがないと思っていても、機械の部分であるはずの膝の関節が痛いのだ。
「フランソワーズが、言ってた。お前はすぐに膝が痛くなるから、自分がいない間にそうなったらと頼むと言われた」
 男は淡々とでも、決してそのことが嫌だとは思っていないのだとそう語りかけるような口調で言葉を紡ぐと、ジェットのパジャマのズボンをまくりあげて膝の具合を確かめてくれる。触れるその手は鋼鉄が剥き出しになった手なのに、温かさをジェットの人工の皮膚に伝えてくる。どうしてなのかは分からないけれども、触れる度に僅かに痛みが和らぐのをジェットは感じて、そんな自分に戸惑っていた。
 昨日の訓練の時の男は全く違う男がここにいる。同じ容貌なのに、まるで別人のように見えた。
 不思議な男だった。二重人格なのかとも思えるそれほどに違う二人がこの男に中に存在している。
 ぼんやりと男の心地良い手に任せていたジェットだが、捲り上げたパジャマのズボンの裾を直され、毛布の上から大切な壊れ物を扱うかのように抱き締められてようやく我に返り、声を上げた。
「おいっ…っ!」
 ジェットが驚いて身動ぎするのも構わずに、ぎゅっと抱き締めると膝の辺りを毛布の上から探り出し、ゆっくりと撫で始めた。どうしてとジェット覗き込むように男に戸惑いに揺れた視線を当てた。男は僅かな笑みを整った容貌に乗せて、低くジェットの心に染込むような優しい口調で囁いた。
「こうすると、少しは楽になるだろう?」
「それも、フランに聞いた?」
「いいや。小さな弟妹がいたから、調子が悪い時はこうしていつもさすってやっていたからな」
 初めて聞くこの男の過去であった。
 ここに来てから、語ったのは名前と、年齢、そしてドイツ人であることと東ドイツから連れて来られたと言うことだけであった。鋼鉄でそのほとんどを構成された男のその中身にジェットも興味がなかったわけではないが、笑うことのない男のその瞳が前々から何処かで怖いと思ってはいた。
 それが前日の訓練で形となって現れただけだったのだと、ジェットは自分の気持ちに気が付いた。でも、同じサイボーグにされた者同士、過去はどうであれ人とはかけ離れてしまった者同士なのだ。互いにその苦しみを分かち合うことは出来るはずだ。
 そうフランソワーズと苦しみを分かち合って生きて来たようにと、それをどうして今までこの男に対してはそう思えなかったのかジェットは不思議だと思った。
「兄弟がいたんだ」
「ああ」
 それ以上、会話が続かない。弟妹達がどうしているのかハインリヒには知る術もないし、知ったからといってどう出来るわけでもない。こんな躯になってしまった以上、会わない方がいいのだと、ハインリヒは固くそう信じていたのだ。
「ほら、眠れるなら、眠れ」
 そう言うとジェットの頭を分厚い肩に凭せ掛ける為に、大きな手で顔半分を包み込んだ。見てくれは人の手に近い左手は少し人より固いけれども、でも、ジェットにはどんなにふかふかなクッションよりも柔らかくそう感じられた。
 誘われるままに分厚い肩に頭を預けると、その肩はやはり固かったけれども嫌だとは不思議と思えない。フランソワーズのように柔らかな躯ではないけれども、でも、この男が自分の思うような怖い男ではないのではとジェットはそう思い始めていた。
 まだ生身の躯だった頃、自分の躯目当てで優しくしてくれた男達は確かに居た。熱を出して寝込んだ自分を看病してくれた。その手も優しくて、でも、結局は彼等はそう躯か金のどちらかが目当てだったに過ぎなかった。
 でも、彼が自分に優しくしたとしても、何の得があるのかジェットには想像できないし、フランソワーズが自分のことを頼むと自分に危害を加える男にはそう頼まないことも理解出来る。フランソワーズならともかく男の自分をこうして抱き締めて、楽しくはないはずだ。でも、視線を横目に流した男の口元には見たこともない柔らかな笑みが浮かべられていた。
 どうしてだが、心地良い。
 時折、男が吸っているタバコの香りが鼻腔を掠めていく。フランソワーズからする匂いとは違うけれども、妙に安心出来る匂いだ。ジェットの膝をゆっくりとゆっくりと痛いと言わせないようにと撫でてくれ、身動ぎをする度に二の腕や髪を宥めるように撫でてくれる。
 大人の男にこんなことをしてもらったことは初めてだった。
 性的な意味の含まないそれは、ハインリヒに対するジェットの恐怖と言う塊を徐々に溶かしつつあったのだ。
 フランソワーズに対する態度から、この男にも優しい部分があることは知っていた。こうして直接世話になることは初めてなのに、前からこうしてもらっていたような錯覚に囚われる。違和感が不思議とないし、警戒心が沸いては来ないのだ。
「恋人、いたって聞いた」
 優しい抱擁と齎させる自分の痛みを和らげようとする気持ちによって、ジェット気も緩んでいた、何処か夢心地で聞いたハインリヒの過去の断片をぽろりと話してしまったのだ。
「何処で、聞いた」
 膝を撫でていた手が止まり、穏やかだった声が急に凍りつき冷たくジェットの心に突き刺さった。そして、恐る恐る顔を上げた其処には、感情を凍結させた、ガラスのような瞳を持つ男が居たのだ。
 咄嗟に逃げようと、躯を捩るが毛布に包まれていてはどうしようもなく、躯を強張らせ、恐怖の色を表したジェットにハインリヒは我に返った。自分の過去の汚点を探り当てられたからと言って、まだようやく少年の域を脱したばかりの年下の青年に当たることもないと自分を戒める。
 彼がどんなに孤独な心を抱えていて、一人で細い躯でまだ少年と言ってよい程の容貌で、揺らぐことなくフランソワーズを守って来たけれども、心はかなり疲弊しているはずだ。フランソワーズはそれを知っていて、二人きりになるといつもジェットの話をした。
 彼がどんなに感受性の強い、優しい心の持ち主で見かけほどに擦れてもいなければ、捻くれてもいない。人を甘えさせることが出来ても、甘えられない不器用なまだ子供の心を持っているそんな、少年なのだと、だから彼の心をわずかでも安らかにしてあげたいと彼女は言っていた。
「あっ…」
「すまん」
 次の瞬間にはそこには今までの穏やかな男が居て、先刻の凍えた男は何処にもいなかった。
「気にしないでくれ」
 と言うが気にはなる。でも、問い詰めては今はいけない。恋人を失ったことに対して、こと男は深い悔恨と哀しみに囚われている。でも、今のジェットはどうしてやることも出来ないのだ。
 下手な慰めはこの男の生きてきた今までの人生を否定することにもなりかねない。どうして恋人を失ったのかはわからない。どう言う経緯でここに連れてこられたかも、知る術はジェットにはなかった。
 逃げ腰になったジェットの躯を再び、抱き寄せると膝をゆっくりと再び、撫で始めた。
「あんた、博士達に見せろとは言わないんだ」
 ジェットは本能から話題を変えようと、そう自分の中にあった疑問を一つ、彼に投げかけて見た。調子が悪いなら、博士達に見てもらえというのが普通だと思うのに、そんなこと言うどころか膝を撫でて、少しでも痛みを和らげてくれようとするばかりだ。
「ここが、いいんだろう」
 ジェットは大きく目を見開いて男をまじまじと見詰めた。
 男がジェットの視線に気付いて顔をこちらに向けた瞬間、その顔が僅かに歪んだ。そして、長い前髪でその表情を隠すように下を向くと、うんとだけ小さく頷く。
 ジェットは、その一言にこの男の全てが込められているような気がした。
 痛いと言えば、科学者達はジェットの躯をひっくり返して調べる。既にこの痛みが拒絶反応によるものだと分かっているから、効きはしない、それどころか更に苦痛がひどくなるような投薬をされるのがおちだ。同じ痛みならこうしてここで名前以外、知らないけれども自分の仲間と居た方がどんなにか心が満たされるか楽になれるか分かりはしない、
 それをこの男は理解してくれているのだ。
 それだけでも十分だとジェットは思う。
 多分、この男が”死神”と徒名される所以はあの凍えたガラスのような瞳にあるのだと思う。それは大切な人を失った消失感とサイボーグにされてしまった憤りから来るものだとしたのならば、それが彼の本質ではない。彼の中にある柔らかで純粋な魂を守る為に、彼は”死神”という仮面を纏っているのだろう。
 アルベルト・ハインリヒの素顔は殊の外優しく、穏やかで、人を思いやることの出来るそう言う人柄なのだ。
 だから、怯える必要もないのだとジェットはそう思った。
 どんなに凍えていても、その奥にある彼の心は凍えてはいない。感情を凍結させなくては自分を保てないのもジェットには理解出来る。ここはそう言う場所なのだ。普通のありきたりの道徳心は通用はしない。人を踏みにじっても自分達だけは生き延びようとしなければ、時として感情を凍えさせなくては心が砕けてしまいそうになる。
 でも、自分にはフランソワーズが居てくれた。彼女が居るだけで傷だらけの心が癒された。どんなに傷ついても、壊れそうになっても生きてこられたのだ。
 それを誰にも頼らずに独りでそうして生きていこうと足掻いている。自分の行き場のない感情をフランソワーズやジェットにぶつけることを躊躇ってくれる思いやりがある。
 だからこそ少しは、この男の心を安らげることが自分に出来るとよいのにと、優しい素顔を持った”死神”と呼ばれた男にジェットは躯を預けた。
 ゆっくりと瞳を閉じると、抱き締められている二の腕辺りをお休みと言わんばかりに軽く叩かれる。
 フランソワーズはハインリヒと自分の何処となくぎくしゃくした関係を心配してくれていた。すぐにとは言えないけれども、少しずつなら互いに歩み寄れる気がするんだと大切な彼女にジェットはそう伝えたかった。
「フラン、早く帰ってこないかな」
「ああ」
 それ以来、二人とも何も言わなかった。
 それでも互いの温もりがともすれば凍えそうになる心を温めてくれるのを感じて、身を寄せ合うようにしてソファーの上で長い夜を過ごしたのであった。





BACK||TOP||NEXT



The fanfictions are written by Urara since'02/10/22