赦されざれる者へ寄せる背徳の囁き4



「入れ」
 重たい足を引き摺って、促されるままその部屋に足を踏み入れた。
 大きな窓からはNYの夜景が見え、ネオンが優しく瞬いている。後手にドアを閉めたジェットだったが、それ以上、部屋の奥へと踏み込めなかった。
 少し俯いたまま視線を部屋に走らせる。
 男娼として培った癖はなかなか抜けてくれないものだと、ぴんと張り詰めた空気の中で、ジェットはふとそんなことを考える。
 部屋のランクはどの程度のものなのか、荷物はどうしているのか、ベッドサイドやテーブルに置かれている雑誌や新聞等でその人の懐具合や人と成りを観察するのは自分の身を守る為の手段だった。
 この部屋の主で、ジェットと連れ立って戻って来た男はジェットを視界に入れることもなく、ベッドに腰掛け、上着のポケットから煙草を出した。
 口に咥えて、ライターで火を点ける。
 上着に皺が寄り、彼の分厚い肩や胸の動きを伝えてきた。
 しなやかに動くそれらが機械で構成されていると洋服の上からでは決して判らないだろう。抱き締められて、その躯が人とは違うことに初めて気付かされる。堅い躯は戦う為だけに造られた証であった。
 溜息と共に、紫煙を吐き出す。
 とんとんとんと灰皿に灰を落とす音がジェットには自分を責めているように聞こえて来ていた。でも、自分がこのNYで何をして生きていようと彼には関係ない。確かにBG団が相手ともなれば、00ナンバーサイボーグ達の力を結集しなくては生き抜いて来られなかったし、また未来にもそんな時間が遣って来るかもしれない。
 ジョーが言っていた。
 人類が存在する限り、BG団も再び、蘇るだろと。
 正義の味方を気取るつもりはないが、向こうが自分達を抹殺しようとするのなら、自分達は自分達を守る為に戦うしか選択肢は残されていない。
 彼が仲間として自分の心配をしてくれるのは分かるし、それが昔は嬉しかった。わざと馬鹿な真似をして、彼を心配させようとしたこともある。仕方ないと言いつつも、自分に付き合ってくれたり、本気で怒ってくれるその気持ちがとても心地良かったし、嬉しかった。
 そんな彼に惹かれていることに気付いていたけれども、手の掛かる年下の弟のような友人の立場で満足していた。
 でも、その気持ちは臆病な自分が無理に作っていた表向きのものだった。
 本当はそんな綺麗事で片付けられない程の、劣情を彼に抱いていたのだと気付かせてくれたのは、同じように彼を愛した一人の女性の存在であった。彼が兵器として造られたことを受け入れ、その鋼鉄の手の優しさを理解した女だった。
 女性としての優しさと、強さを兼ね備えた美しい容姿をしていた。
 自らの運命に敢然と立ち向かい、決して怯まなかった彼女は、彼の腕の中で笑って死んでいった。
 『ハインリヒ』と、彼の名前を呼びつつ、その腕の中で短い一生を終えた。
 その瞬間、ジェットの中に眠っていた何かが目を覚ましたのだった。涙は浮かんでいなかったが、心が泣いていたことにジェットは気付いていた。今まで、一度も見せなかった人の死を、心を寄せた女の死を悼む一人の男の姿を目の当たりにした瞬間、ジェットは彼女が憎いと思えた。
 彼女の存在は、これからずっと彼の心の中で生き続ける。いずれそれは美しい思い出となり彼女の綺麗な部分だけが彼の心に刻まれるのだろう。自分がその存在になりたかった。でも、自分は彼女と同じように彼の中で思い出として残ることにも失敗した。
 無様な姿を晒しつつも、生き延びてしまったのだ。
 だとしたら、疎まれることしか彼の心に残る術をジェットは知らなかった。
 そして、堕ちることを選んだのだ。
 彼は煙草を1本吸い終えると、次の1本に火を点ける。
「突っ立ってないで、座ったらどうだ」
 と背を向けたままそう言う。
 その口調は怒っているわけではない。
 昔、ナンバーリングされたという枠の中に強制的に組み込まれたただけで、互いの心が通わぬ頃の彼の口調と変わらぬものがそこにはある。全ての感情を押し殺しているのではなく、消失させてしまった、戦う為のだけの機械になってしまえばよいと感情を放棄しようとしていた彼、そのものであった。
 そういう行動をとらせてしまった自分に、いや間の悪さに、ジェットは口唇を噛むしか出来なかったのだ。






「J!!」
 市場に連れられていく子牛のように、見えない縄で拘束されたジェットは項垂れながらハインリヒの後をとぼとぼと歩いていた。ハインリヒは時折、振り返り早く来いと視線でそうジェットを促してくる。
 逃げようと思えば、加速装置を使ってだって、走ってだって、逃げ足の速さならジェットの方が上なのに、その視線に秘められた強い意志に逆らうことは出来なかった。その視線には、逃げれば、00ナンバーを総動員してでも自分の居場所を探しに来るぞと、そう脅迫しているような意味合いが込められていた。
 そんなジェットを呼び止める者がいた。
 気付かぬ振りをして歩き去ろうとしたが、その相手は諦められなかったのか後ろから走ってきてジェットの腕を掴んだ。
「J。やっぱり、Jじゃないか」
 その男はJの常連客で、この界隈のホテルにジェットを呼びつけるモデル事務所の社長であった。女性モデルを山のように抱えて、幾人ものトップモデルを輩出している名門事務所社長は女性が嫌いで、女性を商品としてしか見ることのできない性癖があった。
 もっとも、それがあったからこそ、彼はその業界で成功を収めたのだが、唯一、困ったことといえば彼女達が身に纏ったドレスを持ってきてはそれを着ることをJに強要するくらいのことであった。
 金払いもいいし、チップも弾んでくれる。
 変わってはいるが、悪くない客の一人だ。
「あっ」
 ハインリヒと距離を空けて歩いていた為、てっきり一人だと思ったのだろう。誰かと一緒にいる時に声を掛けてくるような野暮な男ではない。
「何だ。こんなところにいたのか、エージェントに連絡を入れたら今夜はダメだと断られてしまったよ」
「あの」
 ジェットは何とか、男をやり過ごしながらも、ハインリヒを納得させるような言い訳を考えるのに必死で、一瞬、ハインリヒの背中から視線を外してしまった。
「キミに似合いのドレスを見つけたもんだからね。来てもらおうと思ったんだよ。何時なら、空いてるのかね。出来れば早いうちがいいんだが……。J」
「連れがいるんです」
 ジェットはようやく言葉を搾り出して、ハインリヒを指差そうとしたが、其処にはハインリヒはいなかった。夕食に出掛ける人、家路を急ぐ人、何処ともなくふらりと散策する人、様々な人々の中にハインリヒの姿はない。
「嘘はいけないなJ。用があって急いでいるならそういえばいい。それとも私を袖にする程の上客を待たせてるのかね」
「本当に・・・」
 その台詞に客の瞳に剣呑な色が浮かび上がる。
 どんなに優しい言葉を掛けてくれていたとしても、客にとってJはただの男娼でしかない。金を払うことによって、自分の意のままに行動する生きた人形のようなものだ。だから、自分が描いている男娼のJの姿から外れようとすると、途端に隠している本性を剥き出しにする。
「男娼のくせに、客の選ぶのか、いい加減にしろっ!! 私は、お前を当分、放しはしないからな。エージェントも私のように金払いの良い客を逃すほど馬鹿じゃなかろう」
 ジェットの細い顎を指輪で飾られた男の手が捉えた。
 ジェットはどうして男達が自分に執着するのかわからなかった。
 元々、ジェットがこの仕事に舞い戻ったのは、ハインリヒに対する想いを秘めたまま、結局、再構成後、彼に一度も会わずにNYに帰って来てすぐのことだった。何もせずに夜の街をふらふらと彷徨い、声をかけられたら、行きずり男達と躯を重ねる日々の中で、まだ彼が生身で男娼の仕事をしていた頃の知り合いにそっくりな男を見付けたからだった。
 その男は、エージェントだと言っていたが、要するには男娼専門のポン引きであった。男娼達のスケジュール調整して、厄介事を処理する代わりに上前を頂くのが彼の仕事だ。ただ、彼の持つ顧客層は比較的質の良いものだった。
 『あんたなら、すぐに売れっ子だ。タダで男に触れさせるのは勿体ない躯してる』と、彼に誘われたのだ。
 堕落を望んでいたジェットにしてみれば、断る理由など見付けられなかった。
 もちろん生身の頃のジェットの知り合いが同じ歳頃であるのは不自然で、彼の持つ雰囲気がジェットの知っている昔を懐かしませるそんな空気を纏っていたから、昔の知り合いに似ているとそう錯覚させたのだった。
 NYの下層階級の人々が住む街には彼のような人が、数人は必ず居るものだ。
「J、エージェントに言ってちゃんとアポとらせてもらうからな。誰と会うのかは、詮索しないが、こんなに地味な色はキミには似合わないよ」
 客は先刻の恫喝など何処吹く風とすんなりとジェットを放し、道路脇に停車させていたコンチネンタルリンカーンの後部座席に乗り込んだ。
 高級車は堂々とイエロータクシーの波を掻き分けて、優雅に走り去っていく。
 ジェットはそんな姿を見ながら、深く息を吐いた。
 前方を歩いていたハインリヒが見当たらないということは、人の波に流されてしまったのだろう。この会話を聞かれなくて、本当に良かったと胸を撫で下ろした。
 男と暮らしていることは目下の恋人と腕を組んで店に入るところを見られていたし、恋人に古い知り合いだとハインリヒを紹介した時、恋人は一緒に暮らしているのだとハインリヒに告げていたからだ。
 ゲイだと思われることは構わないが、男娼をやっていることは知られたくはなかった。
 どうしてもだ。
 何故なら、自分が堕落を望んだ全ての元凶はアルベルト・ハインリヒという男と出逢ってしまったことにあることを、決して知られてはならないからだ。でないと、自分の秘めた劣情すらも、ハインリヒの前に曝け出さなくてはいけなくなってしまう。
 それだけは出来ない。
 それが、ジェットに残されたただ一つのプライドだからだ。
 これからどうしようかと、ジェットは地面を見詰めた。舗道のブロックの継ぎ目を数えながら考える。アパートに帰ってしまおうか、この界隈にあるハインリヒが滞在していそうなにホテルを数件あたってみようか、それとも、このまま行方をくらませてしまおうかと、どれも選べなくて立ち竦んだまま、その場所にいた。
 急ぎ足で歩く、ビジネスマンに後から突き飛ばされる。
 たたら踏み、危うく転びそうになったところを助けてくれたのはハインリヒであった。
「あっ」
 転ばぬようにとジェットの痩躯を受け止めた分厚い胸は、とても堅くて、地下帝国に旅立つ前日に交わした抱擁の感触とナニヒトツ変わってはいなかった。
「行くぞ」
 その無表情な顔と口調が、ジェットと客との会話を聞いていたことを示していた。男の恋人と暮らしていると知らされても苦笑を零しただけのハインリヒだったのに、今の彼にはそんな表情すらも消えていた。
 004としての戦闘能力は最新の機能を搭載した009に次ぐものがあるのだ。人込みの中に紛れてジェットと客の会話を聞きつつも、その姿を悟られないくらいの芸当は出来る。そんなこと簡単なのだと、その無表情な瞳が物語っていた。
 仲間だから安心できるが、決して敵に回したくないのが004なのである。
 過程に拘る009になら、命乞いをすれば助けてもらえるが、この男はそうはいかない。結果を重んじるからこそ、その為には人の命を奪うことにも躊躇はしない。そういう意味では誰よりも恐ろしい男なのだ。
 戦いの場で見せる凍えた表情のない瞳が今、ジェットの目の前にあった。
「あっ…」
「おまえの行状については、ホテルでゆっくりと聞かせてもらうとするか」
 有無を言わせぬ声にジェットは逆らうことは出来なかった。
 刑場に引き摺り出される囚人のような面持ちで、ハインリヒの背後を、見えない鎖で繋がれた心持ちで、歩みを重ねて行った。






「あれは、どういうことなんだ」
 ようやく2本目の煙草を吸い終えたハインリヒは言葉を発した。
 ジェットは答えなかった。いや、答えられなかった。ハインリヒの質問の意味はよく理解していた。男と暮らしていることではなく、それは男娼をしていることに対する質問であった。
「誰と恋愛しようと、何も言わん。それはお前の自由だ。どんな仕事をしようとも、それもお前自由だがな。俺達はサイボーグだ。自分がサイボーグであることを知られるリスクをなるべく少なくするべきだろう」
 ハインリヒの言葉にジェットの何かが足元から崩れていく。
 せめて、馬鹿なことをしてとそう叱って欲しかった。馬鹿野郎と殴って欲しかった。仲間として自分を心配してくれているとの姿を見せて欲しかった。ったく馬鹿モノと罵りながらギルモア邸に連れて帰って欲しかった。
 地獄に堕ちて這い上がれなくなりたいと思いつつも、いつか彼が自分を救い上げてくれるのではないかとそう夢を見ていた。どんな形であっても、彼の心配を誘っていつも自分のことを考えてくれるようにと、願っている部分があることをジェットは否定できなかった。
「何をしようと自由なんだろ。だったら、男娼ってのは最高の隠れ蓑ぢゃねぇか。まさか、00ナンバーサイボーグの一人がこんな商売してるなんて思いもよらねぇさ。そうだろう。004」
「止めるつもりはないんだな」
 その声に含められた本当の意味などジェットはわかろうとは思わなかった。ハインリヒがどうして自分を探しにきて、何を言いたくて自分を訪ねたのかをジェットは知りたくはなかった。
 彼らしい筋の通った説教なんか聞きたくはない。
 心配して欲しかったと言えるなら、とっくに彼が好きだと告げていた。
 でも、出来るはずがないから、自分はこうするしかないのだ。
 嫌われてしまえばよいのだ。
 薄汚い男娼だと、嫌われて卑下されて、疎まれればそれでいい。そうすれば、少なくとも彼の心にどんな形だって残ることが出来る。仲間にも会わずにこうして男に抱かれるだけの人形となって朽ち果てたとしても、少なくとも例え、思い出したくもない思い出の一つとしてでも自分の存在を彼の心に残せるのなら、それすら幸せなのだ。
「ねえよ。ちょっとの時間、我慢して腰振ってりゃぁ、金が稼げるんだぜ。一日、汗水たらして働いてようやくもらえる金なんてたいしたもんぢゃねぇ。その気になりゃぁ。1週間も働けば、一月は好き勝手してられるしな」
 と言いつつも、ジェットはドア付近に立ち竦んだまま、握った拳を更に強く握り締めた。決して、自分と視線を合わせないその背中が、拒絶を表しているかのようにジェットの目には映った。
 ハインリヒは3本目の煙草を取り出した。
 口に咥えたまま、ライターの火を点けたり消したりしている。やがて、口に咥えた煙草とライターをサイドテーブルに置くと、上着の内ポケットから黒い皮製の財布を取り出した。
「幾らだ。幾らで、おまえを買えるんだ」
 ハインリヒはそう言って財布をベッドの上に、後手に投げた。
 その財布が弧を描いて落ちてゆく姿を見ながら、ジェットはあんたには自分の懐具合なんか関係ないだろうと小さく呟いた。
 答えないでいると、ハインリヒが立ち上げる気配する。重量級の彼の躯のお陰で沈んでいたベッドのスプリングがぎしりと音を立てる。
 立ったままのジェットに早足で歩み寄って来て、何も言わずにジェットの右手を掴み自分の方に引き寄せると、そのまま側面に回り込みジェットのベルトを掴んでベッドの上に投げ飛ばした。
 宙で捻るように半回転したジェットの躯は、背中からベッドに落ちて大きく2度跳ねた。ハインリヒにとってみれば、00ナンバー男性陣の中で最も軽量なジェットを投げ飛ばすくらい片手で足りることだ。全身を武器にさせられた男は、素手であったとしても戦えるポテンシャルを常に保持している。
 格闘術はもちろんであるが、サバイバル術や、爆弾、銃器等々に関する知識も豊富でサイボーグとしての力を使わなかったとしても、特殊部隊の中でもエリートと呼ばれる兵士に匹敵する能力を兼ね備えていた。それらは、日々の戦いの中で磨きを掛けられて、接近戦だとて、004と互角に戦えるのは戦闘のエキスパートで独立戦争の兵士でもあった008ぐらいなものである。
 跳ねた反動を利用してベッドから逃れようとしたジェットの躯をハインリヒが捕らえる。
 右手で顎を掴み、自分に視線を当てさせて、腹の上にその重量級の体躯をどっしりと乗せ、更に腕は纏めて頭の上で固定した。
 完全にジェットの動きは封じられる。
 一瞬の出来事であった。
「いくらだ。おまえを買うのに、いくらいるんだ? J」
 その名前を呼ばれてジェットの動きが止まる。やはり、全てを聞いていたとの再認識をせずにはいられなかった。
 いくらだと、ジェットの顎を鋼鉄の手で捕らえて、そう再び詰め寄った。
 ぎしぎしと顎が砕けてしまいそうな力で拘束される。喋ることもままならないハインリヒの拘束から、ジェットは逃れようと足掻いていた躯の力を抜いた。接近戦では彼に勝つことは出来ない。力ではもちろんのこと、彼が本気になれば、自分の腕を捻り切ることぐらい簡単なことだと、その性能の差をジェットは知り尽くしていた。








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