赦されざれる者へ寄せる背徳の囁き6



 心が重い。



 ベッドからも出たくはない。ずっとシーツに包まったまま何も考えたくない。
 油を差した方がいいのではないかと思うほどに、身動ぎする度に躯がギシギシと音を立てて痛むような気がする。サイボーグの躯だから、その気になれば痛覚を意識しないようにすることは出来るけれども、せめて心だけは人でいたいとの想いが深い00ナンバーは日常生活を営むにあたってそれをすることはほとんどなかった。
 戦いの場においてでも、生死の境に立つような状況でも生じない限り、痛みを失うことを良しとはしなかったのである。もちろん、ジェットだとてその思いは同じだ。
 躯の痛みは昨夜と変わらないが、心が至極重たい。
 哀しいとか、悔しいとかとの感情がまるで沸いてこないのだ。そして、自分は今からどうしたらよいのかすら考えられない。
 昨夜の鮮烈な出来事ですら、遥か彼方の話のように思えて自分の身に降りかかった出来事なのだと、どうしても認知できずにいるのだ。
 確かに、昨夜の出来事は記憶に艶やかに残っている。
 自分の中に放つ瞬間に眉を寄せる男の顔も、呻く声も脳裏にしっかり焼きついているのに、それに対しての感情が沸いてはこない。記憶をリフレインさせても沸いてくるのは砂を噛むような虚しさだけだ。
 溜息を一つついて、視界の中に入っている自分の腕を見た。
 手首にはあの男が強く握り締めた痕が残っている。
 変色した腕をジェットは見詰めて、自分の測りようのない心の動きに戸惑っていた。
 例え、そこに愛情がなかったとしても、確かにハインリヒは自分を抱いたし、男として快楽を得ていたのは確かだ。幾度も自分の体内に精を放ち、ジェットが激しさのあまり気を失うまでハインリヒはジェットを放そうとはしなかったではないか。
 ハインリヒが何を考え、何を思っていたのかジェットは全く理解できないが、男として自分の躯に反応してくれたことだけは残る痛みが教えてくれる。
 抱き合うことなど一生無理だと思っていただけに、抱き合えた事実だけはジェットの心に僅かな幸せを齎してくれた。
 朝、目が覚めた時にハインリヒは既におらず、テーブルに100ドル札が10枚置かれていた。その紙幣の束の隣には、チェックアウトした旨と、夕方まで部屋は使えるからゆっくりしていくと良いと書かれたメモが置いてあった。几帳面な彼らしい整った字と、その心遣いに幸せすら感じたものであった。
 もう、思い悩むことはない。
 多分、ハインリヒの中で自分は忘れられない存在になれたのだから、望むことはないと不思議と爽快感すら芽生え始めていたのだ。
 仲間と信じていた自分は、汚い男娼で仲間にすら金で抱かれるような恥知らずで、男に抱かれて女のようにはしたなく喘いで、あまつさえもっと欲しいと強請るような淫乱で、きっと彼は自分に絶望したであろうし、更に、初めて抱いた男としても彼の心だけでなく躯にも刻み込まれたのだ。
 ホテルを出て、痛む躯にムチを打ち、タクシーを拾って自宅アパートに辿り着いた。
 倒れ込むようにベッドに着の身着のままダイビングしたまでははっきりとした記憶があるし、自分がその時どんな気持ちでいたのかすらもはっきりと記憶しているのに、現実感が全く伴わない。
 躯には刻み込まれている事実が、心は事実として認識していないアンバランスなことすら奇妙なことに、自分は当り前のことのように受け入れていた。
 着の身着のまま倒れ込んだはずなのに、寝巻き代わりのTシャツに着替えている。着替えた記憶はないし、着替えた時に脱ぎ散らかしたであろう服が見当たらないことにも疑問は湧かなかった。
 当り前のことだとジェットには思えたのだ。
「ジェット」
 恋人がそっと扉を開けて、寝室へと入ってきた。
 そう全ては彼がしてくれたことなのだと、そうジェットには思えたのだ。
 銀色の前髪がさらりと落ち、知的な額を撫でていく。恋人の容姿に対して、ハインリヒと持つ色彩が似ている以外の感慨は持たなかったのに、今は何故かその姿がとても好ましく映った。
「大丈夫か」
 ゆったりと歩いてきて、ベッドの端に腰掛けながらジェットの髪を優しく梳いてくれる。
 鋼鉄の手ではない生身の手が、とても温かく深く愛されているのだとの幸福感すら覚えて、ジェットはゆっくりと瞳を閉じる。
 何処かで嗅いだ懐かしい匂いが、彼から漂ってくる。
 懐かしい匂いで、心が休まる匂い。柔らかな眠りへ誘う波動が出ていて、逆らう気持ちにはなれない。そうまるで、母親に抱かれていたような感覚のある匂いにジェットは安堵を覚えていた。
 そう、彼と出会って一緒に暮らし始めて依頼、時折この匂いに遭遇した。あまり眠れない時にはどうしてかこの匂いがジェットを取り囲み優しい眠りへと誘ってくれることがあったのだ。
 懐かしすぎて、気付かずにいた。
「ああ」
 何があったとは聞かない恋人の気遣いが嬉しくもある。
 ハインリヒとのことは、自分が体験したことではないような感覚があり、恋人を裏切ったとか、騙したとは決して思えない。お金をもらった以上は仕事だと割り切ってしまえる部分が何処かにあるが、ジェットにはあの出来事が事実として認識されていなかった。
「もう、少し休むといい」
 もう一度、優しく髪を梳いて、毛布を掛けなおしてくれる。珍しく優しい恋人の仕草にジェットはただされるがままになっていた。触れられる手の温かさも、掛けられる穏やかな声も自分が欲しかったもののように思えてきてしまっていた。
「うん、ありがとう」
 ジェットは目を閉じる。
 決して眠気があったわけではないのに、簡単に眠りにと誘われていってしまった。それでも何時までも優しく自分に触れる恋人の手の温もりだけは眠りに落ちたジェットにも感じられていた。





「目が覚めたら、きっとジェットには幸せがやって来ているよ」
 深い眠りに入る直前に、彼のそんな優しい声を聞いたような気がしていた。





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