赦されざれる者へ寄せる背徳の囁き7



 心が重い。



 汽笛の音がする。
 船影が目視出来る距離にあったとしても、汽笛はどうして遠くから聞こえてくるように感じるのだろう。
 ヘドロの海は、やはりジェットが知っていたNYの海の色と変わらないままで、コンクリートに打ち寄せる黒い波は生身であった頃と同じに見えるのだ。
 今の自分と昔の自分。
 今、見ている風景はまるで汽笛だ。そして、昔、この景色を見て感じたことが船影のようである。自分が体感、しているにも関わらずに、過去の出来事の方がとてもリアルだ。現実が、何処か遠くにあるようにしか感じられない。
 それでなくとも、頭の芯がぼんやりとしていて何も考えたくはないのにと、眉を寄せて溜息を零した。
 何もかもが曖昧で、茫洋としていて、何か強い拠り所が欲しくなってしまう。
 現実味がないからこそ現実感が欲しくなる。いつもは現実が嫌で逃げてばかりいたのに、今はその現実が恋しいなんてどうにかしていると苦笑を零した。
 そして、現実を探す為に、腰に手を当てるとジーンズのウエスト部分に突っ込んであった拳銃に触れる。
 既にジェットの体温でその拳銃は温まっている。
 その鉄の感触はこれが現実なのだと、強くそう訴えてくる強い存在感があり、ジェットを安心させてくれる。まるで、恋した男の右手を彷彿とさせるようで、ジェットは指先でそのフォルムをそっと辿り、断片でしか残ってはいない彼の堅い鋼鉄の感触を必死で思い出そうとしていた。








「ジェット」
 恋する男の声だ。
 その瞬間、現実感を求めていたジェットの心ががらりと変わってしまう。人格が入れ替わってしまったようであるが、自分はどうかしてしまったのかと、そう考えることすらジェットはしなかった。
 現実など要らぬと突然、自分を取り巻く全ての現実に憎悪すらわいて来たのだ。自分をどうしてそっとしておいてくれないのか、お節介にもどうして自分に関わろうとするのか。
 自分の横を通り過ぎる見知らぬ人ですら、ジェットにはその存在が疎ましい。
 泣き、笑い、叫び、生きる人々が虚構の存在に見える。現実でないと認められないのなら、それは虚構である。虚構であるのならば破壊しようと、構築しようと、創造主は自分なのだから、好きなように出来るはずだ。
 オンナの代わりであったとしても、感情をぶつける為の人形であったとしても彼は自分を抱いてくれた。よく考えれば、彼が彼である限りは、自分を抱くはずはない。ならばそれは自分の都合のよい夢で虚構の出来事にしか過ぎない。
 昨夜の出来事ですら、ジェットの中では既に現実ではなくなっていた。
 自分の作り上げた虚構の一つで、それを作り上げるのに自分はただひたすら堕ちることを願っていたのだと、それがジェットにとってて、何処かで摩り替わってしまった真実になっている。
「ジェット」
 彼は、こんな自分をあんなに優しい声色で呼んだりはしない。責めるような口調で自分の名前を呼んだはずだ。自分が知っている彼は清廉潔白で素面で男を抱けるような、そんな性癖など持ち合わせてはいない。
 一人の女性の面影を胸に仕舞ったまま、まるで修道士の如くに清廉潔白に生きている男なのだから、自分に清廉潔白で意志の強固な修道士を堕落させられる魅力などありはしない。
 そう、虚構なら、壊してしまえばよい。
 本物の彼なら、きっと自分に掴みかかってこんな生活はやめろと真剣に説教を始めるはずだ。同性愛に対しての戸惑いを見せながらも、恋人がいるなら自分をもっと大切にしろとか言うに決まっている。
 馬鹿なことをする度に、彼は本気で自分を叱って、まるで自分のことのように苦悩する姿すら晒してくれていたのだ。
「夢を見ているのだよ。悪夢だ。これを打ち砕けば、ジェット、君は解放される」
 耳元で、そう囁かれた。
 優しい声がジェットの躯を支配する。
 腰にある拳銃を引き抜いた。
 S&W M19 COMBAT MAGNUM。
 随分、ポピュラーな拳銃を持たせてくれたものだなと、ジェット笑った。個人的な趣味をいわせてもらえば、リボルバーよりもオートマチックの方がすんなりとしたフォルムが実現できて好みなのだがと、どうでも良いことにだけは頭が良く回る。
 目の前にいるハインリヒが虚構なのか現実なのか、自分に囁いたのは誰なのか、大切なことは頭が思考を拒否してしまう。自分の心も頭も、そして躯も全く意のままにならない。虚構の出来事なのに、自分の思い通りにならないことが悔しくてならない。
「そうだ。これは虚構なのだよ」
 ああ、虚構なのだからとジェットは、手にした拳銃の安全装置を解除した。
 BG団時代に叩き込まれた銃器の扱いは、頭がぼんやりとしていて自分で思考することすらろくに出来ずにいるのに、躯がそれを覚えていて迷うことなく手が動いてしまうことは皮肉であった。
 自分の目の前の男の眉間に狙いを定める。
 距離して10m強、ジェットの腕前ならば拳銃の性能から考えても、ハインリヒの頭を確実に撃ち抜ける距離であった。
 けれども、ハインリヒに動じる様子は全く見受けられない。
 ただ、ジェットの向ける銃口に視線を向けながらも、両手を上着のポケットに突っ込み、おいジェット何をしているのだといわんばかりの態度でそこに立っている。
 突如、大きな汽笛の音が響き渡る。
 その音に釣られるようにハインリヒは視線をジェットから外して、汽笛を響かせた船影へと遣った。そして、海の香りを胸に吸い込もうとするかのようなに大きく息を吸い込んで、再びジェットに視線を戻す。
 身動ぎせずに狙いを定めたままのジェットに撃ってみろよ、と挑発すらするような表情を浮かべて笑ってみせる。
「さあ、ジェット」
 耳元でそう囁かれた瞬間、ジェットの拳銃が火を噴いた。





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