赦されざれる者へ寄せる背徳の囁き8



 どさりと男が固い地面に崩れた。
 まるで全てがスローモーション画像のように男の目にはには映っていた。
 ジェットはこの事実が虚構であると思い込んでいたし、ここに居る004は自分が創り出した都合の良い虚構の中の存在で本物ではない。そう考えられるように、幾重にも罠を仕掛けて本人が気付かぬように追い込んだ。
 短気な自分にしては時間と手間をかけたはずであるから、自分に向けられた銃口の存在が男は信じられない。ジェットの心は既に自分の思うがままになっていたはずだ。
 堕ちたいと願ったジェットに何食わぬ顔で近付き、恋人として一緒に暮らしながら徐々にジェットから思考を奪い取っていった。水や酒の中に微量の薬品を混ぜ、眠っているジェットの耳元で囁いた。
 そして、ある匂いに反応させられるようにしたのだ。
 ジェットが懐かしいと思わせる匂い。
 数十年前、女性の間で流行った香水の匂いだった。ジェットの母親に対する複雑な思いや、決して楽しくはない子供の頃の記憶を引きずり出すことにより、ジェットの心に動揺を呼び込み、弱くなった心に漬け込んで、自分が望むジェットを創り上げていっていたのだ。
 ただ、堕落することを望む以外を考えられないジェットに徐々に仕立てていた。
 自分の催眠術を用いた暗殺計画は今まで一度も失敗したことはないし、最後の仕上げに手抜かりはなかったはずだ。
 ハインリヒに抱かれたジェットは、傷付いていた。いや、傷付いていだけれども、幸せでもあった。とにかく全ての感情が入り混じってどれが自分の本心で、どれが違うのか、何を望んでいるのか、ハインリヒを愛しているのか、様々なものが混沌の心で渦巻き、真実と現実を見失いかけていたところに、男は声を掛けたのだ。
 真実はここにある。
 全てはジェットの勝手な幻想で、創り上げた虚構で真実とは別のところにあるものであって、それを壊さなくては本当の真実を見つけることは出来ないとそう言い聞かせた。
 ハインリヒを呼び出し、ジェットを連れてこの場所に遣って来た。
 ジェットはされるがままであった。瞳には感情は一切浮かんでおらず、男の言うことに、ただ頷くだけの人形のように其処に存在するだけだ。
 なのにどうして、先刻までハインリヒに銃口を向けていたではないのか。
 安全装置も外して、引き金に指も掛かっていた。
 本当ならばハインリヒの眉間を打ち抜いていたはずではなかったのか。と男は考えながら地面に倒れていった。
 暗い空が瞳に映る。
 確かに、ろくな死に方はしないだろうと、そう思っていた。
 でも、こんな形で死ぬとは予想はしていなかったのだ。
 もっと、屑に相応しい死が自分には訪れるはずだったのに、意外と悪くない死に方じゃないかと男はそう考える。
 少なくともジェットのことは嫌い、ではなかった。こんな出逢いでなかったとしたら本気になっていたかもしれない。甘えるようにしなだれかかる細身の躯はサイボーグであることが信じられないくらい温かく、柔かかった。セックスの最中、何かに縋るように腕を伸ばし、子供の如く抱きつくジェットの仕草は、むしろ好ましかった。
 もっと、抱き締めてやればよかったと、そんなことすら思えてしまう。
 好きな人に殺されたのなら、文句は言えないと男は暗くなっていくNYの夜空を見上げていた。










「ジェットッ!!」
 ハインリヒの声が耳に飛び込んで来る。
 駆け寄ろうとしたハインリヒの足を鋭い視線で止めた。
 生身の頃、初めて人を殺した時のような震えは訪れない。もう、数えられない人間を殺してきた。自分が生き延びる為だとの、言い訳は通用しないほどの数を屠ってきた。
 戦いの場であったとしても殺人には違いない。例えBG団兵士であったとしても、刺客であったとしても、全ての人に命は一つ、人生は一度きりなのだ。
 この男が自分に何か思うところがあって近付いてきたことは最初からわかっていた。けれども、人恋しいと思うこともあるのだ。どうせ何か企んでいるのなら、自分の傍に居てもらった方が監視しやすいと、そう考えた。
 恋人だった男が自分に何かしら仕掛けていたことにも薄々気付いていたけれども、それを回避するつもりなどなかったのだ。殺すつもりならばとっくに殺しているはずだ。自分を足がかりに00ナンバー達の中に入っていって暗殺をしようとしたとしても自分が00ナンバー達とコンタクトを取らなければそれは実現しない。
 とことん、この男に付き合ってみるつもりだった。
 この男が言う虚構の向こうの幸せを一度、見てやりたかった。普通の幸せなど知らないジェットは何が幸せなのか推し量る物差しすら持ってはいない。だから、一度、それを見てみたいと思った。
 ハインリヒに抱かれ、触れられたことに対して幸せを感じられるまでは、幸せなど体感したことがなかったのだ。
 幸せとは随分、自己本位で構成されているものだ。ハインリヒの意図や感情などどうでも良く、ただ、触れてもらえたことを幸せだと思うのだから、存外、幸せのいう感情はお安いものだ。
 今度はゆっくりと歩を進めようとしたハインリヒにジェットは迷わず銃口を向けた。
 狙いは眉間に定まっている。
「ジェット」
 それでも立ち止まろうとはしないハインリヒの頬を掠めて弾丸が軌道を描いていく。熱い感触がハインリヒ頬を舐め、それはジェットがこれ以上近付いたら撃ち殺すぞという確固たる意志の表れであった。
 その殺気に呼応するかの如く、ハインリヒの右手が上着のポケットから顔を出した。鋼色に輝くその手の指先がジェットに向けられる。
 そして、その姿にジェットは何故だか安心してしまった。
 死神とあだ名される男はこうではなくてはならない。多分、自分が本気で彼を殺そうと思ったとしたら、彼は自分を迷わず殺してくれるだろう。誰の手を借りるわけでもなく、その鋼鉄の手で止めを刺してくれるに違いないのだ。
 それが仲間であった自分へのせめてもの手向けなのだ。少なくとも仲間だったことを認めてくれていることがジェットには嬉しかったし、それは彼の誠実なる人柄を現していた。どんなことをされたとしても、ジェットは彼が不誠実で道理の通らぬことをする男とは思えない。
「一体?」
 そう問いかけるハインリヒの視線の向こうには、男の死体が転がっていた。
「オレを使って、あんたや、みんなを殺そうって企んでたからさ。殺し屋を殺すなんて当り前のことだろ? BGの連中に雇われた男さ。BGの連中なら、迷わずまずオレを殺してる。オレを操り人形仕立てて、00ナンバーを抹殺するつもりだったんだろう」
 ジェットは地面で冷たくなって行く、元恋人の死体を感情のない瞳で見詰めた。
 嫌いだったわけではない。
 でも、愛していたわけでもない。だったら何だといわれれば、かなり困るけれども、ジェットのとって僅かな安らぎを齎せてくれた男であることには違いない。
 違う形で知り合っていたらなんて、思えはしない。
 違う形だったとしたら自分は決して、彼とセックスをしようとは思わなかったし、一緒に暮らそうとは思わなかったからだ。堕ちたいと願う自分と知り合ったからこうなったのだ。
 偶然という神が画策したのでなければ、決してこういう結末は訪れなかったであろう。
 不思議と哀しいとは思えないし、それ以外の感情も湧いては来ない。
 心の中から様々なモノがなくなっていく。空洞がどんどん広がって、やがてがらんとした倉庫のように音だけが響く空間に成り果ててしまう予感がしていた。つまり、全てが終る。
 それは男の影響ではなく、男に出会う前からずっと、ジェットが感じていたことだ。
「だが…」
 恋人だったのだろう? と台詞が続くのを無理に引き取って、ジェットは苦々しく笑った。
「恋人だったら、オレをマインドコントロールしようとはしなかっただろうな。薬物を食べ物に混入して、夜な夜な耳元で囁いてたんだぜ。恋人?  何やらかすか見張ってただけだっ!! オレだって男相手にケツ振ってばかりぢゃないってことさ」
 そう、汽笛が大きく鳴った瞬間、ジェットの混沌としていた意識が一瞬だけクリアになった。その時に視界に飛び込んできたハインリヒの笑顔の中には、撃たれても決して恨みはしないさとの意味が込められていた。
 その笑顔が一瞬でジェットを現実に引き戻したのだった。
 もとろんジェット自身もBG時代にマインドコントロールや催眠療法についてのレクチャーや、それらに陥らぬようにする為の訓練を受けていた経験があるのだ。それが幸いしたというのは何とも皮肉な結果であった。
「いずれ、オレに殺される運命にあった男だ」
 そうなのだ。BGから逃げようとする限りは、追っ手や刺客、殺し屋等々と戦うことになる。相手を殺さなくては、再び狙われる。恨みはないが、そうして自分達は生き抜いてきたのだし、それが間違いだとはジェットは思ってはいない。
 ハインリヒの視線が男の死体にちらりと流された。
 その視線の意味をジェットは知りたくもなかった。
 そろそろハインリヒとの三文芝居にも終止符を打たなくてはいけないだろう。いつまでも引っ張っていてもよいわけがない。ハインリヒの心のどんな意味であったとしても残るという自分の望みは、達成されたも同然なのだ。幕引きぐらいは綺麗にしたい。
 その後には、何も存在はしなくなる。
 もう、今までの二人にも、今までの自分にも戻ることなど出来ないのだ。
 知ってしまった堕落はジェットにとって心地の良いものでもあった。何も考えずにひたすら転がり堕ちる感触はとても、戦いの中では得られぬ甘美な味がしていた。ドラックでハイになり、セックスで快楽を得て、酒を呑み、馬鹿騒ぎをし、一つずつ自分が何かを失っていって、いつかナニヒトツ残らなくなるのだという予感。
 それは、外れることはなかった。
 今はナニヒトツ、心に残ってはいない。








ただ、あるのは……。





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