愛が宿る夜明けの街



 紙と紙が擦れ合うような僅かな音が彼の意識を逆なでする。
 昨夜、腕に恋人を抱き眠りにおちた時には、感じられなかった違和感だ。人の気配でなく天気が変わった気配であった。
 不思議なことに生身であった頃よりも、サイボーグになってからの方が気象の変化には聡くなった。空気の湿り気や僅かな風の揺らぎが感じられて、雨が降るとか、晴れるとか感覚で分かるようになった。
 ジェロニモに言わせれば、それは人であることの証だと、とても良いことだと、ジェットを愛している風の精霊がジェットが愛しているお前にも、愛を分けてくれているのだと、そう言った。とても、照れ臭い言葉であったが、自分とジェットの関係を彼なりに祝福してくれているのだと知れて、とても嬉しいと思ったものだ。
 昨夜は非常に寒く、夜半から雪になるだろうと予想だったから、驚きはしないが、その気配で目が覚めてしまった自分には呆れる。
 だから、ジェットに年寄り扱いされるのだ。
 でも、その雪を確かめたくて、そっとベッドを抜け出した。
 毛布からはみ出していたジェットの腕を毛布に優しく導くと、ジェットは子猫のように暖を更に求めて躯を丸くして、満足げな笑みを零すと再び寝息を立て始めた。赤味を帯びた毛が薄い水色のシーツのピロケースに散っている。
 さんざん自分の腕の中で啼かせて、乱れさせて、縋らせた。
 そんな時間から、まだ数時間しか経ってはいない。
 床の冷たさがひんやりと機械の躯に伝わってくる。足音を立てないようにとスリッパを履かずに素足のまま窓際まで歩き、カーテンを自分が覗ける程度に捲ると、ようやく太陽の一部が顔を出し始めた時刻であるが故に、世界は薄紫色に綺麗に染まっていた。
 古い煉瓦で造られた町並みは、それだけでも時間に取り残された錯覚を覚えることもなくはないのに、雪という化粧が更にこの街をミステリアスに見せようとしている。
 雪が僅かな太陽の光を反射して、幻想的な風景を作り上げていた。
 まるで、誰も外を歩いていない風景は自分達二人だけが、世界に取り残された錯覚に陥ってしまいそうになる。
 でも、それでも、良いとアルベルトは思うのだ。
 ジェットと二人っきりで、畑でも耕して、牛や馬を飼って、自給自足の暮らしも悪くないかもしれない。サイボーグであることを隠して、BG団との戦いに明け暮れることもない二人だけの世界。
 ジェットが居てくれれば、誰も居なくとも自分は耐えられる。
 いやむしろそれを望む傾向にある自覚はあるのだ。
 そうすれば、ジェットを独り占め出来る。誰にも、嫉妬することもない。
 仲間であったとしても、ジェットと仲良くしていれば、嫉妬を感じることがある。ジェットが悪ふざけして笑っている姿を見て、その相手に羨望と嫉妬を覚えるのだ。仲間達の誰もが、ジェットに自分と違う意味であるが、愛情を注いでくれるのは理解できるし、自分とジェットの仲を表に出さずとも認めていてくれることも空気で読める。
 それでも、独占したくて堪らないのだ。
 まるで、余裕のない若造のようだなと、自嘲すると、眠るジェットの隣に腰を下ろした。通常、弾薬やマイクロミサイルをフル装備していなくとも、最低の護身用程度にしか身に付けていなかったとしてもアルベルトの体重は200kg近い重さがある。
 彼等用に特注で作ったベッドであったとしても、それはきしんだ。
 ジェットの丸めた背中側に腰を下ろしたおかげで、ジェットは背中からずり落ちるような不自然な感覚に無意識に寝返りを打った。
「っうーーーーん」
 鼻に掛かった甘えるような声で、アルベルトの姿を無意識に手を伸ばして探している様子が、とても幼く見えて保護欲をそそられる。肉親の愛情に恵まれなかった子供は躯だけ大きくなっても、やはり愛情を受け取るのが下手であった。
 おずおずと伸ばされた手の感触が今でも、忘れられない。
 本当に自分でいいのかと縋る瞳の彩りを死ぬその瞬間まで、きっと自分は忘れられないに違いない。今も、時折、アルベルトの愛を確かめるような行動に出ることがある。これでも、こんな自分でも愛してくれるのかと、その行動と裏腹に瞳は必死で自分の存在を求めてくれる。
 それが、彼を慈しみたいとアルベルトに思わせるのだ。
 寝返りで乱れたジェットの髪を好きだと言ってくれる鋼鉄の指で顔から払うと、その狭間からうっすらと晴れた空の青が開けた。
「アル?」
 情事の名残りで枯れた声。
 何度も、長い睫毛が瞬いて、やがて少しずつ覚醒を始める。
 アルベルトはその姿を飽きずに、凝視していた。まるで、寝足りないと目を擦り機嫌悪そうに、口唇を尖らせて言葉にならない言葉を発する子供のような仕草だ。外見は大人だし、精神的にもタフだ。
 どんな状況にあっても、生き抜いてきたその事実が、彼の意思が強固であるかは教えてくれるだろう。
 でも、ジェットの魂は思いの他、幼くて無垢である。
 それはこういう日常生活に於いてのちょっとした仕草から、伺うことが出来るのだ。美味しいものを食べた時の反応や、寝転がってテレビゲームに興じていたり、そんな姿が子供のようで、でも、躯は大人で、アルベルトが陥落されてしまうような艶を放ちながらも、そんな躯と精神のアンバランスさが、ジェットの魅力なのだとアルベルトの目には映っている。
「何時だよぉ〜」
「朝の5時だ」
 と時計にちらりと視線を流して、答えるとジェットは舌打ちをする。
「1、2、……3時間も寝てないじゃねぇか。睡眠不足はお肌の大敵だぜ。オレはともかく、アルはお肌の曲がり角過ぎたんだからな」
 お肌の曲がり角の言う日本的な言い回しをこの間、ギルモア邸にメンテナンスに訪れた時にテレビで聞いてきたらしく、最近、ことあるごとに使いたがる。そんなところも、少し子供っぽいところで、アルベルトにとっては好ましい。
「そうだな」
 と静かに、毛布をしっかり掛けてやるとジェットは、目をパチパチと瞬かせてから首を傾げた。そして、彷徨うようにベッドに置かれたアルベルトの鋼鉄の手を取ると、自らの頬に寄せた。
「ほら、冷えてる。さっさとベッドに入れよ。あったまろーーぜ」
「ああ」
 何処かぼんやりとしたアルベルトの反応にジェットの眉間に皺を寄せた。
「雪が、降ってる」
 どうりで寒いわけだとジェットは愚痴ると、さっさともう一眠りしようぜと鋼鉄の手を更に引っ張った。しかし、アルベルトは遠慮がちにそれを放すと、カーテンを半分程開けた。ジェットが眠っているベッドからでも外を見ることは出来る。
 テラスの柵を通して見える町並み。
 薄紫色に染まった町は幻想的で、人一人もいない風景は一枚の絵画のようですらあった。喧騒の中で育ったジェットにしてみれば、音のない世界はとてもシュールに感じられる。いや、違和感、違う。
 ああ、とジェットは声を上げる。
 これは嫌悪感だったのだ。
 この美しい風景に自分は嫌悪を感じたのだ。
 自然を見て、美しいと思う。語る言葉こそ持たないが、美しいと心からそう思えるし、その営みに感動すら覚える。そして、自分の存在の意味を考えることもあるのだが、この風景には嫌悪がある。
「雪は、嫌いだ」
 ジェットの拗ねた口調にアルベルトは視線を窓の外からジェットに戻してくれる。
「雪は、大嫌い」
 どうしてだと優しいブルーグレーの瞳がジェットを温かく包み込んでくれる。離れてしまった鋼鉄の手を求めて、毛布から手を差し出すと当たり前のようにアルベルトの手がジェットの手を捕まえて、握り締めてくれる。
 少し離れただけで、ジェットの体温を吸って温かさを保っていた手が冷たくなっている。それが、自分と離れていた証拠だ。
「だって、寒いじゃないか」
「オマエさんは、雪合戦とか好きそうなんだがな。それに今日はクリスマスだぞ」
 嫌いと渋面を作ったジェットは、隣に来いとベッドをぼんぼんと叩いて見せるが、アルベルトは動く気配を見せない。仕方ないと、ジェットは肩を竦めると昔を語り出した。
 NYの冬は寒い。
 都会であったとしても、外気温は摂氏を記録する夜は少なくはない。
 幾人ものホームレスが冬の寒さで死んでいく。凍ったホームレスの死体から僅かな金を取ろうと別のホームレスが集る姿は何度も見ている。
 それに、家のない子供達が寒空で死んで行く、あるいは寒空に耐えられなくて一夜の暖が欲しいが故に躯を売る子供達も沢山いた。
 温かな家のある者達から見たらも雪は綺麗だし、ウィンタースポーツも楽しめることだろうが、自分達にとっては雪は白い悪魔だった。自宅に客を連れてくる夜はいつもアパートから追い払われた。僅かな小銭を握らされて、母親に外に放り出されたものだ。
 たまたま母親の娼婦仲間が家に入れてくれることもあったが、そうでなければ、ビルの隙間で寒さを避けたりするのだ。眠ってしまったら、物騒な町では何をされるか分からない。必死で、寒さと眠気と戦った。
 クリスマスやハロウィンの夜は教会が解放されていたから、潜り込んで寒さを凌いだが、明らかに教会に通うとは思えない身なりのジェット達に向けられた視線の冷たさは、幼い心に深く突き刺さった。
「だから、オレは寒いの嫌い。雪も嫌い。こんな景色も嫌い。ホワイトクリスマス、冗談じゃねぇ、っつうの」
 とジェット言い切った。
 アルベルトは黙ってジェットの話しを聞いていたが、やがて口を開いた。
「ああ、まるで、この景色を見ているとお前と二人しかこの世界には存在しないのではと、思えてな」
 それだけを淡々と語った。
 アルベルトが言いたい意味も分かる。
 僅かにカーテンの隙間から入り込んでくる。薄紫の光がアルベルトを実際よりずっと年上に見せた。普段、見られない、何処か疲れたようなアルベルトの面立ちにジェットは心が痛んだ。
 戦いに次ぐ、戦い。
 最近、どうにか平穏な日々が続いている。
 戦いに疲れた男の顔が其処にはあった。
 彼は本来優しい男だ。戦いに向かぬ性格をしている。
 だからこそ、泣けないし、弱音は吐けない。
 凛と血の大地に立っている。心を凍えさせて戦うから、自分達は生きてこられたとも分かるし、戦いが果てることもないだろう。それは分かっている。自由と引き換えだった。生きると言う本当の意味を模索した結果だ。それをアルベルトも自分も決して、後悔してはいない。
 僅かでも、こうして普通の恋人のように過ごせる時間がありさえすれば、それで満足だ。
 多くは望まない、彼が傍に居てくれるだけで、ジェットは良かったのだ。
「オレ達だけだったらさ」
 ナンだとアルベルトの顔が僅かに表情を乗せる。右だけ上げられた眉が全てを語っていた。
「あんたが、いい男だって、惚気る相手いなくなんじゃん。一目を憚って腕、組んだり、キスしたり、ナンテ楽しみがなくなるから、オレはい・や・だ。だって、アルがどんだけオレを愛してくれてるか自慢したいもん」
 邪気なくジェットは笑った。
 出来るならアルベルトの手をひっぱって、NYのスクランブル交差点の真ん中で『見て、見て、コレがオレのダーリン』なんて馬鹿げたことをしてみたいなんて思うことがあるのだ。女だって、これほどのハンサムでカッコイイ、男に自分程深く愛されることはまずない。
 いいだろうと自慢したくなる。
 ジェットが人生で見付けた、唯一の大切な愛を齎してくれた男。
 アルベルトの心にあった現実味のない、例えようのない重く沈むような心持ちが綺麗に晴れていく。風景に囚われて、有り得るはずもない幻想に飲み込まれて自分の不甲斐なさに僅かに腹を立てる。
 クリスマスのせいなのか、自分も少しナーバスになっているかもしれない。
 自由を得て、ジェットと二人きりで過ごす初めてのクリスマスなのだ。こうして、ドイツで二人きりのクリスマスを堪能してから、一緒にギルモア邸に新年の挨拶に行く予定だ。
 若造のように恋人との二人きりのクリスマスにときめいているけれども、また戦いに駆り出されたら、との不安もあるのだ。
 自分は小心な普通の男なのだから、無理はさせないで欲しいと運命にそう呟いてみせる。
 恋人と二人きりのクリスマスぐらい静かに過ごさせてもらっても、とそう思える。
「そうだな。俺も、こいつが俺のカワイコちゃんだぜっ!て自慢したいもんだな」
「カワイコちゃん」
「そう、カワイコちゃん」
 ジェットはフンと鼻を鳴らして、不機嫌さをアピールしてみる。カワイコちゃんよばわりが気に入らないのだ。自分はオンナじゃないとことあるごとに言うが、男だってジェットは可愛いのだから仕方がない。
 ジェットはジェットであるから可愛らしいのだ。
「だったら、クリスマスにお前の大切なカワイコちゃんに一人寝させんなよな」
 そうだなと呟いてアルベルトは再び、ジェットの隣に潜り込んだ。
 待ってましたと抱きついてくるくせに、冷たいと文句ばかりを言う。なら、温めてくれよとアルベルトが耳元で囁くと、ジェットは曖昧な笑みを零して、堅い躯をしっかりと守るかのように抱き込んで目を閉じた。
 そして、アルベルトもジェットから伝わる心地よい温かさに、身も心も委ねて安らかなる眠りの時間を享受したのである。










 静謐な街角に鐘の音が響き、やがて静かであった街が少しずつ動き始める。白い雪に歓声を上げて、はしゃぎまわる子供達や、教会に向かう者、一晩中騒いでいた若者達が家路を辿り、一年に一度のクリスマスがやって来る。
 いつにない暖かな雰囲気が古い町並みに溢れて、人々は誰もが愛する者達と過ごせる幸せな時間を与えてくれた神に感謝をしていた。
 神など信じはしないのだと言い切るサイボーグである二人にも、クリスマスの朝の一時は平等にやってきている。
 それが神と言う名の運命が与えた、慈悲であることも知らずに、健やかなる眠りを享受する恋人達の朝は、まだ遠かった。





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