終章というプロローグ2
一年前に別離を告げた男の顔があった。 左手には小さな旅行鞄と右手には似合わぬ花束を持っている。バラにカスミソウ、フリージア、ジェットが分かるのはその程度だ。色とりどりの花の洪水の向こうには不機嫌そうなドイツ人の顔があった。 どうしてよいのか分からないジェットにアルベルトは、落ち着いたいつもの彼の口調で久しぶりだなと挨拶をする。そして、入れてもらえないかと半ば強引に自分の躯でジェットの躯を押すように入ってきた。 「あ、あんた」 「随分、元気そうで安心した」 ジェットはまず彼がこのアパートを知っている理由が知りたかった。知っているのは、フランソワーズとジェロニモだけだ。確かに、仲間意識の強い彼等だから自分が知らぬ顔をしていてもジェットの住まいぐらいは全員の知ることとなるであろうが、引っ越して来たのは昨日だ。 ドイツからNYまでの距離を考えると昨日ドイツを立ったことになる。 誰にこの場所を聞いたというのであろう、何の為に、何の用で、フランソワーズに頼まれたというのだろうか。ジェロニモが多分、連絡を入れているだろうから二度手間を踏むとは思えないし、と様々な憶測が頭の中を駆け巡る間にも、アルベルトはまるで、其処にいるのが当たり前のように狭いアパートの部屋を物珍しそうに見物していた。 彼が動く度に、花の香りが無機質であった部屋に広がっていく。 「暖房ぐらいつけろよ。NYの冬は寒いんだろう?」 と当たり前のように備え付けのヒーターの火を入れる。冷たく凍えていた部屋に温かな火の匂いが徐々に広がって少し明るくなったような気すらしてくるのが不思議だった。 「あ、あんた…」 「ああ、これな。誕生日とバレンタインの…まあ、男に花をもらっても嬉しくないだろうが、路上で売ってるのが目についてな」 と自然な仕草でジェットに手渡した。花の香りと色彩の洪水で目がハレーションを起こしそうになるほどのものであった。手渡されても飾る花瓶もないし、入れておくバケツもない。どうしたものかと手にした花束をぼんやりと抱えて立ってるしかない自分が情けない。 何をしに来たんだと、そう聞く前にアルベルトは旅行鞄を床に置きぼんやりと突然訪ねて来た仲間を見ているジェットに向き直った。 「今日は話があって来た。本当はもっと早く来たかったんだが、お前がNYに戻るとかで色々とあるだろうと思ってな。でも、まだ、片付いてなかったみたいだな」 と部屋をぐるりと見渡した。 その視線の先には買い込んだ日用品の山があった。 「ああ、ドイツくんだりから、何しに来たか知らないが、オレは仕事も探さないといけないし、片付けもある。話が済んだら帰ってくれないか」 少し、いつもの歯切れの悪いアルベルトの口調にジェットの本能が警戒しろとそう囁いた。自分を傷つけるような真似をする男ではないのに、本能のエマージェンシコールが鳴り響いていた。 「そう、邪険にするな。コーヒーぐらい煎れられる程度になるまで片付け手伝ってやるよ。お前、片付けるの下手だからな」 まるで恋人のような台詞、二人が恋人であった時代のような口調にジェットは腹が立った。どうして、ようやく自分はアルベルトのことを思い出というファイルに移す準備が少し出来てきたのに、何故、自分の前に現れるのだと、次に会うまでには普通に仲間として接することの出来るようにとそう思っていた自分の心をどうして踏み躙るのだろうかと、怒りにも似た激情が、生還して初めての激しい感情が腹の底から湧き上がってきた。 「だから、用ってなんなんだよ。さっさと言えよ。あんたが居たら、女も呼べねぇじゃねぇか」 花束を投げ捨てないだけの理性は辛うじてジェットにも残っていた。 突然、湧き出た感情だった。 止められなかった。 仲間同士なんて薄笑いを浮かべて、誤魔化すことも出来ない。彼に対してずっと封じていた感情が堰を切ったように流れ出してくる。 「何、イライラしている。体調でも悪いのか」 優しいドイツ語訛りの英語。ココロに響いて胸が温かくなった言葉なのに今は神経を逆撫でするように聞こえる。分かっている本当に自分を心配してくれることぐらいは、でも、感情はジェットの全てを置き去りにして暴走を始めていた。 「っるせぇっ!!あんたが居るからイライラするんだよ。話しがあんなら、さっさとしろよっ!!」 ああそうだなと、ジェットの激昂に動じることもなく、アルベルトはもう一歩とジェットに歩み寄った。手を伸ばせば触れられる距離に近づいた。睨みつけるような視線でしか今のジェットはアルベルトを見ることが出来ないのだ。でなければ、まだ愛していると抱きついてしまいそうになる。別れを告げた自分とあっさりと別れて、女にココロを寄せた男なのに、そんな女々しい自分にもジェットの怒りの矛先は向いていく。 「もう、一度、やり直したい」 その言葉がジェットには信じられない。 「オンナが死んじまったから、次が出来るまでオレを繋ぎにしたいんなら、お断りだっ!!」 思っていない、言葉が勝手に口から出てくる。 今だって、彼を愛している。だから、辛い。別れたのだと言い聞かせても、ビーナと共に居る彼を見てココロが痛かった。ちくちく痛む胸を自分で打ち抜きたいくらいに嫌だった。でも、同じ思いを二度としたくはないのも正直なジェットの気持ちである。 「俺は言ったはずだ『それでも、俺はオマエを愛している』と…」 「忘れたよ」 嘘だ。 今でも、さっきまでその言葉を思い出してココロが痛んだ。 愛して欲しいと、そう咽元まででかかった言葉を呑み込んで、独り膝を抱えて、ただ冬で暖房をつけなかったから寒いのではなく心が寒いと感じているのを必死で、そんな感情を振り払おうとしていたのだ。 「忘れたなら、何度でも言う」 アルベルトの真摯な瞳を見詰め返すことも出来ない。恋愛に不器用な男だとそれを一番知っているのは自分だ。 「お前を失うかもしれないと、それが分かった時、俺は後悔した。何故、別れようと言ったお前の言葉に頷いたのか、そんな自分を責めた。みっともない真似をしたとしても、お前と例え、一時であったとしても俺達の関係を切るような真似をするんじゃなかったと、繋いでおけばよかったと…。どうせ死ぬんなら俺はお前を思って死んでいきたい。俺の身勝手かもしれないが、お前にも俺のことを考えていて欲しいとそう思った。だから、俺は決めていた。お前がNYに戻ったら会いに行こうと、この気持ちを伝えようと」 淡々と綴られる熱いアルベルトの心。偽りがないことぐらいわかるけれども、素直にイエスとは言えないのがジェットだ。 「だったら、どうして別れたくないって言わなかったんだっ!!」 「戦いの前にお前がナーバスになってるだけで、落ち着いたら話そうと思っていた」 教本の答えの如く、澱みのない答えが憎らしい。 「だったら、どうしてオレの手を離したんだ」 「後悔している。だから、二度と離したくはない」 「ビーナを愛していたんじゃないのかっ」 「彼女を愛していたんじゃない。彼女とは互いに似たもの同士だった。兄弟を姉妹を自分が引っ張っていかなくてはとの義務感に押し潰されそうになっていた。それが、昔の俺の姿とダブったに過ぎない。彼女もそれを知っていた。だから、俺と彼女は分かり合えたとしても、決して愛し合うことはない。それに、俺にはお前がいるから…」 言葉通りにジェットはアルベルトに抱き締められる。 一年前と変わらない整髪料と煙草とそれに混じる僅かな火薬の匂い。 硬く厚い胸も肩も何も変わっていない。 ジェットを愛していると告げる言葉も心も何も変わっていなかった。 自分だけを愛し続ける男がここに居る。 なのに自分は不安に駆られた。 怖かった。 彼が自分を失うことではなくて、自分が彼を失うことを恐れた。恋人だったら彼を失っていたら、自分はきっと冷静ではいられなかった。何をしていたかすらも自分で予測出来ない。 戦いの中にあったとしても、ビーナと理解しあう彼を見たら嫉妬にかられて何をしていたのか、自信はない。そんな自分を決してアルベルトには見せたくなかった。 「愛している。二度と離れたいとは言わないでくれ、俺にはお前しかいない」 抱きこまれた腕の胸の中でジェットの激昂した感情は簡単に沈静化していくのが分かる。自分でも分からなかった。彼が傍にいないことへの不安がこんな形で現れていて、感情すらも外に出すことを恐れてしまう自分になっていたのだ。 彼をまだ愛しているのだとの、そんな感情すらも押し殺しておけなくなるのが怖かった。 「アル」 自分の躯を抱き込んだ男の腕は震えていた、力を込めているからではなくてここに来るまで、アイシテルとジェットに告げるのにどれだけの勇気を掻き集めたか、分かってしまうような震えだった。 ひょっとして、ジェットに好きな女でも居たらとそうアルベルトだとて考えなかったわけではない。でも、後悔だけはしたくなった。自分が死ぬ時にジェットを思って死んで行く為にも、伝えなくてはいけない言葉だったのだ。 恋愛一つにいい年をした男がと、そう思うが、ジェットに関してはアルベルトにとって特別なのだ。 ナニモノにも代えられない大切な大切な恋人。 自分の魂を救ってくれた大切な愛する人なのだ。だから、性別は関係ない。ジェットがジェットであることがアルベルトにとっては必要なことであった。ゲイだと後ろ指をさされたとしても相手がジェットなら一向に構いはしない。 ジェットが自らの腕に居てくれるのならば、どんな場所に住んだとしてもアルベルトは良いのだ。其処までアルベルトはジェットに惚れていた。 『ごめん』 耳元で囁かれたジェットの吐息にしかならない声が、全ての返事であった。 ジェットはイエスとそう言っているのだ。 もう一度、やり直そうと、ただ、恥ずかしがりやのジェットはイエスとは言えないから、こうして、こんな形で答えてくれているのだ。 暫し、二人はただ抱き合っていた。 キスを交わすよりも、セックスをするより相手の存在が腕の中にあることを幾度も確認したかった。離れていた時間を埋めるように、自分の躯が覚えていたサイズが間違っていないかと、微に入り、細に入り、あらゆる角度で確かめ合う。 アルベルトの肩越しにNYの空はどんよりとした灰色の大きな雲がゆっくりと流れて行く、その合間に僅かに夕焼けの色が顔を覗かせた。 一年前の空は灰色ばかりだった。 でも、今年の空は僅かに光が差し込んでいる。 同じではないのだ。 毎年、一日、毎日は違う。 抱き締められているだけなのに、こんなにも目に映る景色の色合いは違うものなのだろうか。 「なあ、遅くなったが、誕生日に欲しいものはあるか」 ああ、欲しいものはある。 たった一つだけ、ある。それを欲張って欲しいと強請っても良いと教えてくれたのはアルベルトだから、責任を取ってもらわないととジェットは思う。視界に広がるNYの景色にライトが灯り始める。 ゆっくりと、転々と明かりが灯って行く。 まるで、アルベルトが自分の心に愛を灯してくれたかのようにその明かりがはっきりと見える。それは一年前のようにとぼんやりとは決して見えなかった。それが愛されている確証にすらジェットには思えた。 「うん、ある」 「少しは奮発してやれるぞ。お前が寝てる間、仕事しかすることなかったからな」 嘘だ。 この日の為に、いつも自分に何かプレゼントをしてくれる為に、普段倹約家だってことは、幾度も訪ねていったベルリンのアパートは必要最低限のものしか置かれていなかったから、そんなアパートを見れば分かるではないか。ただ、世界で一人の自分という人の為に、してくれるそれが嬉しい。 「アルが欲しい。一生、死ぬまでオレの恋人で居て欲しい」 「安いもんだな」 と最後にふんと鼻で照れ隠しで笑う恋人の振動が愛しくてならない。自ら、硬いその背中に腕を回した。右手に持った花束が少ししおれているのが、妙に二人が遠回りした時間を表しているようでジェットは少しだけ嬉しくなる。 「浮気も、余所見もダメ」 「お前以上のベッビンはいねぇよ。お堅い、ヘタレなドイツ野郎には勿体無い恋人だ。大切にしてやる」 そんな睦言を聞きながら、ジェットは抱き締められたまま暮れ行くNYの景色を見続けているのだった。 |
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