劣情の行方1



 彼の口唇は、濡れていた。
 その肉厚な口唇の質感が、肌を通して感じられる。
 吸われた涙の跡がとても切なくて、優しくしないでとそう彼に言いたかった。性欲を満たすだけの相手として割り切ったまま、黙って立ち去って欲しいとそう願わずにはいられない。
 触れられたその感触を自分はいつまでも、きっと忘れられない。切ないまでの優しさを胸に抱き、意識を深い暗い、唯一、自由になれる眠りの世界にジェットは落とし込んでいった。 






 ベッドサイドに置かれているインターホンが三度鳴る。
 それは、もうすぐここに客がやって来るという合図だ。
 サイボーグになってからも、生身だった頃もやっていることは大して変わらない。空を飛べた時、サイボーグにされた苦しみから一瞬でも開放された気がしたが、飛べるのはジェットだけではなくなってしまった。
 ジェットに躯の中に搭載されているエンジンを改良し、背負うことで空を自由に飛ぶ技術が開発され、量産化に向けての研究は進んでいる。
 それは、ジェットが飛べるという価値を失った瞬間であったのだ。
 それからすぐにジェットには再改造が施された。しかし、その再改造は戦闘能力とは全く関係のないもので、暗にジェットを00ナンバーから外すとの意味合いをも込められていたことくらいジェットにも分かっていた。
 でも、囚われの身では何も出来ない。
 逃げ出せば、待つのは死でしかない。
 このサイボーグ研究所から半径30キロ以上離れると、頭の中に埋め込まれている通信機が電流を発する仕掛けになっている。更に、脳に流される電流の激痛に耐え、例え気を失わずに逃走を続けたとしても、50キロ以上離れると脳内に埋め込まれた毒が流出して、それは脳を溶かし、やがては苦しみながら死に至る。
 死にたくなければ、ここに居るしかない。
 戦闘訓練に狩り出されたのは、もう1ヶ月前のことで、それ以来、こちらにはお呼びがかかっても戦闘訓練にはとんとお呼びがかからないし、部屋も移されてしまった。フランソワーズやイワンがどうしているのかすら知ることも、今のジェットには不可能だった。
 虚ろな日々が、躯の上を通り過ぎていくだけだ。
 扉の向こうに人の気配を感じて、横になっていたベッドから上体を起こす。素肌に着けているシルクのローブがするりと痩せた肩を滑り落ちた。ジェットは乱れたローブを直そうかどうしようかと考えるが、今更だとそのままに扉に視線を遣る。
するとジェットの身の回りの世話と監視をしている老女が男を伴って入って来た。こんな場所には不釣合いな男の来訪にジェットは聊か驚き、一瞬眼を見開いた。
 老女は男にごゆっくり、と言うと姿を消す。
 ジェットは視線だけで座るように促すと、男は口をへの字に結んだままその重量級の体躯をベッドの端に沈めた。そして、背を向けたまま何も語ろうとはしない。
 久ぶりに見る仲間の顔だ。
 フランソワーズのこと、イワンのこと聞きたいことがジェットには色々あったが、聞ける雰囲気ではない。彼の神経がぴりぴりと逆立っているのが、一目見ただけでわかる。何か言ったら、自分がその感情の稲妻でショートさせられてしまいそうな激情が彼を渦巻いている。
 初めて見る彼だ。
 実験として自分を抱いた時ですら感情を見せなかった男が、どう分類してよいのか分からぬ感情ではあったが、空気の質量すら、変えてしまいそうな程のそれをシジェットの前で露にしている。
 ここに来たということは、話をしに来たのではない。
 それにかこつけて自分を訪ねて来るような男でもないだろう。彼がここを訪ねて来るのは自分を抱く為で、何かを語る為でも、自分を心配して様子を見に来たわけでもない。感情の凍えた男にそのような人を思いやる、特に、自分を思いやる感情が乏しいことぐらい長い付き合いでジェットは分かっていた。
 フランソワーズやイワンに対しては、優しい心遣いを見せることはよくあったが、決してジェットに対してはそのような心遣いを一度も見せたことはない。
 冷たい支配者のように絶対的な質量でジェットを押さえつけて、レイプに近いセックスを強要したことすらあるのだ。
 どこか、蔑んだ目で自分を見ている。
 今更だ。
 どうせ自分は躯を売るしか脳のない人間だ。
 昔も今もただ、変わらないだけだ。
 昔の方がマシだったとここに来てからはそう思う。食べる為、生きる為に躯を提供していることは過去も現在も変わらないが、過去の方が男としてのプライドを持てた気がする。少なくとも、誰もがジェットを男として抱いた。
 でも、ここでは違うのだ。
 男としての機能を持ちながらも、そうでない部分も強制的に持ち併せることになってしまった。
「なあ」
 背を向けた男の肩に、そっと手を添わせた。
「一杯、やるか?」
 とそう声を掛けてみた。感情が高ぶっている時に強い酒は暫し、神経を鎮めてくれることがあるからだ。
 どんなに蔑まれていても、自分を仲間と認めていなくとも、ジェットにとってこの男はかけがえのない仲間で、大切な人になっている。訓練という名の戦場で、共に死線を潜り抜けて来たのだ。それは互いの助けなくては、生き延びてこられないほどの熾烈な場所であった。
 一杯の酒を鎮静剤代わりに取りに行こうと分厚い肩から手を離した瞬間、男はジェットに伸し掛かった。ベッドの上を白いシルクのローブだけを羽織った痩躯が跳ね、赤味を帯びた金髪が乱れて、長めの前髪の狭間から少し驚いたような瞳が覗いた。
 一瞬だけ姿を見せたその瞳に男はわずかな安堵を覚えると共に、痛みを覚える程の怒りをも感じる。
 どうして、自分の前では全てを諦めたような、どうでも良いとの態度を取るのか、彼には理解出来なくて、それがジェットに対して心を開けぬ最大の理由であった。
 気になるけれども、何を考えているのか分からない。
 自分がサイボーグ研究所に連れてこられた時には、既にジェットは幹部や兵士の性的な相手をさせられていた。ジェットが去勢をされなかったのは妊娠の心配のない、性欲処理の為の人形としての役割を求められていたからだ。
 最初は命令を忠実に実行させるには、去勢をした方がとの意見も出たが、去勢をしてしまうと闘争本能が弱体化するのではないのかとの議論が持ち上がり、結局、それを確かめる為に科学者達はジェットとのセックスを彼に強要したのだ。
 『今度は、あんたか?』と、諦めを顔に滲ませてジェットは慣れた仕草で彼のズボンを下ろし、ペニスを迷わずに口に咥えた。不覚にも舌に拠ってもたらされる快楽に、忘れていた男の本能が燻り出されて、気付いたらその幼さを随所に残す躯を抱いてしまっていた。
 一度、外れたたがは簡単に戻せるわけもなく、科学者達に言われるがままに、勧められるがままに幾度も、ジェットを抱いた。
 恋人同士のように甘い雰囲気で抱き合いセックスを始めたとしても、ジェットは自分を客のようにしか扱わない、決して対等に抱き合うことをしないのだ。せめて、そうして欲しかった。そうしてくれれば、もっとジェットに胸の内を伝えることが出来たかもしれない。
「ハインリヒ」
 ジェットの口唇がそう綴られた。
 諦めたように瞳を閉じ、躯の力を抜く。
 どうして、諦めるのだ。自分とのセックスが嫌ならばどうして拒絶しないのだ。嫌だとそう告げないのだと、余計に腹が立ってくる。
 あの男とはキスをしたのにとハインリヒの躯の中に蓄積していたジェットに対する感情は、零れ出てしまう程にたまりに溜まっていた。
 鋼鉄の手をペニスに這わせても、ひくりと反応しただけで、ハインリヒの意志に沿うようにと足を僅かに開いてすら見せるのだ。
 首筋に顔を埋めれば、そこからは女物の香水の匂いがする。
 ジェットが本意でつけてないとは思うが、それを許容している彼もまたハインリヒの怒りを駆り立てる。
 太陽の下で見たジェットの青い瞳と赤味の掛かった髪はとても美しかった。正直に、性別や年齢といったもの全てを超越し、ただ美しいと正直に感嘆できたものであったことをハインリヒは明確に記憶している。
 その色彩は鮮やかで、未だ脳裏に焼きついて消せない。
 そして、じっと見詰める自分にはにかんだ笑みを寄越してきたジェットがハインリヒの中では本当のジェットの姿として認識されてしまっていて、こんな場所で燻っているジェットはジェットではない。
 自分のしていることを棚に上げて、男達の性的な玩具にされて、それでも黙っているようなジェットを仲間として認めたくないのだ。
「っあ……」
 甘い声がハインリヒの躯の下から、漏れ聞こえてくる。
 本当に感じているのか、男の性的な玩具にされている日々から、自分が楽になる為に喘ぎ声を上げるのが習慣になっているのか分からない。確かめるように、ペニスに手を伸ばせば、既に塗れていて健気にも勃ち上がろうとしていた。
 僅かな刺激でこんなに浅ましく悶えるジェットが憎らしい。
 こうして、何人の男を誑かしてきたのだろう。それをジェットが望んだことではないくらい、ここが どういう場所であるかということぐらいハインリヒも知っている。自分達に選択権などない。逆らえば、死しかその選択肢は残されないのだ。
「っあ、いっ…」
 感情に任せて、ペニスを強く握ってしまうとジェットは痛いと、その意思を喘ぎに混ぜて寄越した。
 閉じていた瞳が、抗議するように開かれてハインリヒに向けられる。その瞳は情欲で潤んでいて、男を誘うように揺れていた。その姿は男の何処かに強く訴えるものがある。今まで、女性とのセックスしか知らなかったハインリヒがジェットとの関係に深い嫌悪を抱かずにすんなりと受け入れられたのは、一重に深い快楽があったに過ぎない。
 けれども、回数を重ねるごとにジェットの齎す快楽だけではなく、乱れるその姿に視覚、聴覚、触覚が刺激されて興奮を覚えるようになっていった。その姿を思い描くだけで、躯の芯が熱くなり、ペニスが反応を始めるまでになっていたのだ。
 でも、そう思う男が自分だけでないことが、妙に腹立たしい。兵士達がジェットと寝たのだと話しているのを小耳に挟めば、つい撃ち殺したくなってしまう。ジェットにしてみれば、そんな兵士達も自分もベッドの上では同じ存在でしかないだろうことが嫌であった。
 例え、多くの男達の一人であったとしても、何かしら特別な存在としてジェットの心に残りたいと思える。
 しかし、ハインリヒはその気持ちを自分の中ですら形に出来ずに、苛立ちを募らせるだけの日々であったのだ。
 そして今日、自分と同じような改造手術を受けた男と戦った。
 もちろん、ハインリヒはあぶなげなく勝った。つまり男を殺したのだが、息が途切れるまでの僅かな時間に男と会話を交わす機会があった。
 その男は、ジェットを愛していると言い、昨日の夜に贈られたキスを手向けの花にしておこうとそうハインリヒに告げたのだ。
 自分には、一度のキスすらも許さないジェットが、この男には許したというのか。とジェットへの怒りが自分と同じ躯中を武器にされた男を殺してしまったストレスを上回ってしまっていた。
 居住空間に戻っても、前のようにはジェットには会えない。
 居るのは、フランソワーズだけだ。
 彼女には、決してこの悲しみをぶつけることは出来ない。全てが見えるのに、何も出来ない自分を責めている彼女にこの苦しみをぶつけられない。訓練と称して何人も、確かに彼女も人を殺す技術の訓練を受けていたし、訓練の中で人を殺したことすらあるけれども、やはり自分より幼い彼女にこんな自分の気持ちを曝け出せない。
 でも、ジェットなら少なくとも戦場だけでは互いの気持ちを理解することが出来たし、そこに居たジェットは今のように決して何があったとしても諦めることを知らぬ男であった。それを好ましいと思ったし、そんなジェットに自分は幾度も助けられた。
「なあ、ジェット」
 自分に痛いと向けられたまま、動かないその瞳を覗き込みながらハインリヒは暗い笑みを零した。



「あの男は死んだぞ」





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