恋愛の手順



 順序がテンデバラバラだと暫し、ドイツ男は考えた。
 ジェット・リンクという目に入れても痛くない程に可愛い恋人を手に入れた。それはそれで、荒んだサイボーグ生活に彩りを添えるもので、恋人とイチャイチャしたりしているとサイボーグでも悪くないなんて思えたりする。
 赤味がかった金髪と透けるような白い肌、薄い上唇がちょっと拗ねたように尖っていて、瞳は青空の如く綺麗に澄んでいる。頬を赤らめると白いそばかすの痕が浮き出て何とも艶めかしい。
 もちろん、あっちの具合の最高で抜かずの三発など朝飯前というくらいなものである。
 なのにだ…。
 なのに、自分の名前は呼んでくれない。
 正確に言うと、ベッドの上でセックスをしている時以外、自分のファーストネーム、いや愛称を呼ばない。いつも、どういうわけかファミリーネームなのだ。
 自分以外の仲間に対してはファーストネームで呼び合うのに、どうして自分だけと、つい欲張ってみたいアルベルト・ハインリヒ、30歳なのである。










「ジェット」
 腕の中で転寝をするジェットを抱き寄せ、右手を頬に添え、目元にキスを落とすと、瞼を薄っすらと上げてアルベルトを見る。はんなりと笑い、頬に置かれた右手に自らの左手を添えて軽く握った。
「なあ、ジェット」
 何、とまだ眠気を纏わりつかせているジェットは、恋人の逞しい肩に顔を埋めるようにして甘える。彼の愛用している整髪料と愛飲している煙草の香りが鼻を擽る。それを深く吸い込んで、ジェットは愛された幸福感に暫し浸っていた。
「イワンは、イワンだろ?フランソワーズはフラン、ジェロニモはジェロニモ、張々湖は張大人、グレートはグレート、ピュンマはピュンマだろう?」
 アルベルトは突然仲間達の名前を羅列し始める。何が言いたいのかよく分からないまま、ジェットはいちいち相槌を打ってみせている。
「ジョーはジョーだよな」
 それがどうしたんだと、ジェットは恋人の皮肉っぽく歪んだ口唇の端に軽くキスをした。
 昼食を済ませて温かな日差しの当たるベッドの上で日向ぼっこをしながら、そのままセックスに雪崩れ込んだ。そして抱き合った姿のまま午睡を楽しんでいたはずなのに、ロマンテックな恋人同士の午後の時間を過ごしているしては無粋な台詞だと、少し抗議の意味を込めて睨んでみたりする。
「なのに、恋人のオレは何時までもたっても、『ハインリヒ』 なのか?」
 軽く睨むジェットにそう言うと、馬鹿馬鹿しいという顔の答えが返ってくる。
「ナニ、くだんねぇこと言ってんだ。あんたは」
 セックスして愛してるって何度も囁き合って、濃厚な恋人の時間を幾らも過ごしてきておいて今更ナニを言ってるのだ。別に、呼び名なんかどうでもいいじゃないか。問題は愛し合ってるか、そうでないかということが重要なんじゃないかと、そんなことを言い出した年上の恋人をジェットは見た。
「ったく、くだんねえこというなよ」
 ジェットがおどけて台詞を渡しても、それをアルベルトは返そうとはして来ない。眉間に皺を寄せて難しい顔を止めようとはしないのだ。
「なっ、気分直しに、セックスしようぜ」
 とアルベルトの下半身に手を伸ばしたが、それをアルベルトは軽く払い除けた。そして、二人で少ないスペースを分け合っていたベッドから躯を起こし、ジェットに背を向けてベッドの端に腰掛け、頭を抱えるようにして躯を丸めた。
「おい」
「お前にはくだらなくとも、俺には重要なことなんだ」
 向けられた背中が拒絶を表していてジェットはそれ以上、言葉を綴れなかった。
 伸ばしかけた手はそのまま宙で止まり、嫌な予感が胸中を全力疾走始める。今までにないアルベルトの態度に、掛ける言葉とタイミングを完全に見失ってしまったのだ。どう言えば、アルベルトが喜んでくれるかなんて自分は心得ていると、そう思い込んでいた自分の甘さを痛感する。
「俺はずっと、待っていた」
 ジェットに聞かせようとするのでなく、自分の気持ちを確かめるかのように綴られる言葉にジェットは黙ったまま耳を傾けるしか出来なかったのだ。
「お前を好きだと、いや愛していると気付いた時から名前を呼んでもらいたかった。『アル』 と、誰でもないお前にそう呼ばれたかった」
 深い溜息を落とした後の背中は、広かったはずなのに小さく丸まったように感じられる。そんなに名前を呼ばないことがアルベルトを傷つけていただなんて、ジェットには思いもよらなかったのだ。
 それ以外のことは、特にベッドではアルベルトの意向を最大限に汲んだつもりだったし、彼が望めば、どんなことにも応えてきた。でも、本当に望んでいたのはそんなことではなかったのだ。
「日常の中で、お前が俺の名前を呼ぶ。そんな当り前の日々を俺はずっと夢見て来た。お前が、いつも傍にいて、泣いたり、怒ったり、笑ったり、喜んだり、そんな表情の中で綴られる名前が自分の名前であって欲しいとそれだけを願っていた。セックスの時だけ名前を呼ぶなんて、俺は………」
 アルベルトの台詞はそこで途切れた。
 泣いているわけではなのに、泣いているようにジェットには見える。
 何と名前を呼んだらいいのかジェットにはわからなかった。アルベルトを愛していることには違いない。
 でも、と心の中で言い訳をしてみるが、それは自分の都合だけなのである。
 半年程前のことだった。
 セックスの最中に、無理矢理自分の名前を『アル』 と呼べとアルベルトはそうジェットに強請った。快楽に弱いジェットを翻弄して追い詰めて『アル』 と呼ばせたのだ。そのことについて、ジェットは怒っているわけでもないし、それくらいしてくれなかったら、今もそう呼ぶことは出来なかった。
 強引に引っ張っていってくれないと、踏み出せないくらい恋愛には臆病な自分がいる。何故なら、ジェットにとって実った初めての恋がアルベルトとの恋なのであり、それまでは一方通行であったり、恋ではなく、ただの思い込みや遊びであったり、本当の意味での恋愛など経験したことはなかった。
 だから、正直どうしたら良いのかわからなくなることがある。
 普通の恋愛なんて知らない。
 アルベルトは大人だし、今でも忘れられない愛した人がいたし、幾人かの女性と普通に恋愛をした経験を持っていることは明白だった。そんな恋愛の昔話しを聞きたこともあるから、知っている。
 いつも臆病で無知な自分をアルベルトは優しく包んでくれて、時には強引にそんな自分の殻を破ってくれたりもした。
「俺はただ、お前に名前を呼んで欲しい、だけ…だ。普通の恋人のように、それは過ぎる要求なのか? それとも、お前はベッドの上でしか俺を愛せないのか? そうなら、俺はお前と別れるしかない」
 突然の別れ話に、嫌な予感は的中したとジェットは口唇を噛んだ。
 別れたくなどない。
 絶対に、嫌だ。
 苦しみと、絶望と、迷いと、様々な負の感情の果てに見出した一筋の光がアルベルトであったのだ。一目見た時から、ジェットは心を奪われた。迷いながらも決して、膝を折らない男の強さに、崩れそうになる自分の心を抱き締めてくれた腕の温かさに惹かれた。
 自分の褒められない過去も、醜い心も、ひっくるめて愛していると言ってくれた。あまつさえ、与えられなかった愛情を自分が埋めてやれるくらいに愛したいのだと、そう言って自分を抱き締めてくれた。その言葉だけで、ジェットには過ぎる贈り物であったのだ。
 いつか、自分はアルベルトに呆れられるかもと思いつつ、その好意に甘え過ぎていたのかもしれない。
 情けなくて涙が零れる。
 アルベルトは沢山の愛を自分に与えてくれた。
 何も知らない小汚い子供を心から愛してくれて、様々なことを教えてくれた。今、人並みに社会で生きていけるのはアルベルトの心配りがあったからである。学校すら通ったこともなく、親に躾などされなかったジェットの欠けた社会性を埋めるように礼儀や作法、社会的な道徳を教えてくれた。
 困ったことや嫌なことがあって、ベルリンに押しかけても嫌な顔一つしないで、自分の愚痴に付き合ってくれる。泣きたいくらい哀しいことがあれば、抱き締めてくれ、嬉しいことがあれば、共に喜んでくれるのだ。
 自分を見て欲しくて我侭を言って困らせたことも幾度もある。
 でも、決してアルベルトは自分を見捨てることはなかった。
 そんな彼に少しでも、何かを返したかった。でも、不器用な自分に出来ることは限られている。身の回りのことだって、料理をしても消し炭が出来るだけだし、アイロンをかければシャツに穴が空く、掃除をすると何かを壊してしまうとなれば、何でも出来るアルベルトには却って迷惑になるだけだ。
 そんな自分に出来ることはベッドの上で彼を喜ばせることだけだ。だから、セックスに関しては積極的だし、彼が望めばどんなセックスだってNOとは言わないで躯を開いたつもりだった。それしか、出来なかった自分が凄く嫌になる。
「ごめん」
 そう口を開くと、後から後から涙と後悔が溢れ出てくる。
 そんな馬鹿な自分を嫌わないで欲しい。自分にはアルベルトしかいないのだ。別れたいなら仕方ないけれども、こんな自分に今まで付き合ってくれた方が奇跡的なことだから、幸せ過ぎたと自分に言い聞かせても涙は止まらない。
 こんな自分でも、アルベルトを愛しているのだ。嫌いにだけはならないで欲しい。
「ジェット」
 ジェットの押し殺した嗚咽にアルベルトは振り向いた。裸のまま下を向いてシーツをぎゅっと握り締め、細い肩を震わせて泣いている。ただ、アルベルトは名前を呼んでくれない理由を問い質したかっただけだが、ジェットは追い詰められないと自分の素直な気持ちを吐露できない部分があるから、大げさに別れ話を持ち出したのだ。
「ジェット」
 そっと顔を上げさせて、鋼鉄の手で涙を拭ってやる。
 ほろほろと青い瞳から涙がお天気雨の如く、溢れ出してくるのだ。怒っていないと、そう告げるとジェットはアルベルトに縋るように抱き付いてきた。ごめんなさいと連呼して、嗚咽を堪える。
 落ち着けるように背中を何度も優しく子供を寝かしつける要領で叩いてやり、鋼鉄の手で頭を撫でる。
「ごめん。オレ。恥ずかしくって…。セックスの時しか、『アル』 って呼んでないから、普段、そう呼ぼうと思う度に思い出しちまうんだ。あんたとセックスしたことを思い出して躯が熱くなる。インランな男娼あがりだから仕方ねえけど、あんたとしたくなっちまうんだ。こんなの嫌だ。あんたに知られて嫌われたくない」
 ジェットはそう全てを吐き出した。
「それでなくたって、あんたに甘えて迷惑かけてばかりで……、何もしてあげられない」
「しなくていいんだ」
 アルベルトの声にジェットはしっかりと抱きついていた腕の力を緩めて、横から覗き込むようにアルベルトの顔を涙で濡れた瞳で見詰めた。ブルーグレーの瞳は一欠けらの怒りもなく、向けられる温度は温かく愛していると告げるいつもの彼と同じであった。
「お前は、俺と一緒に居てくれるだけでいい。俺はお前の存在に何度も救われた。だから、お前はお前のままで俺と共に生きてくれればそれだけでいい。お前に多くを望みすぎたのかもしれんな」
 こんな自分に理解を示してくれて無理をするなと、言ってくれるのだ。優し過ぎる言葉に、止まりかけていた涙がまた溢れてくる。
 泣くなよとアルベルトは困った顔をして、ジェットを優しく抱き締める。
「オレだって、あんたを『アル』 って呼びたい。普通の恋人みたいになりたい。呼べるようにがんばるから、オレを嫌いにならないでよ」
 と必死にジェットは訴えた。
 この抱き締めてくれる腕の温かさを失ったら、自分は凍えて死んでしまうに違いない。愛するただ一人の男を失って、強くない自分は生きてはいけないのだ。アルベルトがいるから、生きていこうと思えることが沢山ある。
 彼に愛してもらえるようにと、がんばれる自分がいる。
「ああ、待ってる。お前が何時か、『アル』 と呼んでくれる日がくるのを」
 その答えを聞いてジェットは安堵した。
ずっとアルベルトと一緒に生きられる。別れなくてもよいのだと、それだけが嬉しくてまた涙が出てきてしまう。名前を呼ぶなんて当り前のことを躊躇してしまう馬鹿な自分を見捨てないでいてくれるこの男が愛しくて、胸がぎゅと締め付けられる幸福感に躯を突然支配された。
『アイシテル』
 となら素直に言えるのに、ジェットはそう自分を評すると抱き締められる温かさに、身を委ねたのだった。






 顔を真っ赤にして走り去って行くジェットの後姿を見送りながら、アルベルトの鼻の下は思いっきり伸びていて、口の端からはエロジジイ的な笑いを垂れ流していた。
『アル、オハヨウ』 と、ジェットはまるで、幼稚園児が憧れの先生に向かって挨拶をするかのように無意味に大きな声でリビングのソファーに座り、新聞を読むアルベルトに朝の挨拶をすると、脱兎の如くダイニングへと走り去ったのだ。
 確かに、アルとそう呼んでくれた。
 嬉しくてたまらない。
 鼻の下が伸びるのは当り前だ。
 こうして呼ばれることに、数十年憧れていたのだ。
 もう少し、慣れたら、今度はモーニングキス付きの朝の挨拶を所望してみようかと、考えるアルベルトがいる。
 そう、昨日の別れる別れないなどと、いい歳をした男がたかが名前ですったもんだしてみせたのは全て芝居だったのだ。落ち込んだ振りをしたのも、アルベルトの作戦のうちである。
 取り敢えず、ベッドで『アル』 と言えるようになったのに、普段が『ハインリヒ』 なのは大いに不満だったのだ。かなり独占欲の強いアルベルトは自分の愛称をジェットに呼ばせて、二人のラブラブ振りを密かに仲間に自慢したかった為だけに芝居をうったのだ。
 もちろん、ジェットが泣くことも計算のうちだ。
 本当に、泣いたジェットは可愛い。感情を爆発させたり、パニックに陥るとどうしてかジェットは涙を流すのである。泣かれて縋られるのはむろん大歓迎だし、望むところなのである。
確かに、利己主義の塊のようなことをしているかもしれないが、それが自分の愛し方なのだから仕方ないと、最近、アルベルトはすっかり開き直ってしまっていた。
「さてと」
 アルベルトは新聞を置いて、ソファーから立ち上がる。
 せっかく、『アル』 と呼んで、朝の挨拶をしてくれたのだから、ダイニングで一人少し遅めの朝食を取っているジェットにお返しをしないといけないだろうと、ハインリヒはダイニング目指してゆっくりと歩き始めた。
 すぐにでなくてもいい。
 ゆっくりといつか自然に自分を『アル』 とそう呼んでくれれば、恋の手順などきちんと踏まなくても、テンデバラバラだとしても互いに愛し合っていればいいさと、今朝のアルベルトにはそう思えたのだった。





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