名前のない天使



『ここに来てから、一度も名前を呼ばれたことはなかった。博士、あんたが、初めて俺の名前を呼んでくれた。それだけだよ』
 そう言って、苦しい哀しい想いを押し殺して彼は笑っていたけれども、今は随分違う。本当の意味で笑えるようになったことが、ギルモアにとっては嬉しいことでもあった。ギルモアの半生は彼と共にあったといっても過言ではない。
 彼が研究者として始めて出会った被験体が、002いや、ジェット・リンクであった。
 まだ、幼さを残す青年にBG団の科学者は、まるで実験動物のような扱いをしていた。次から、次へと手術を施し、来る日も来る日も実験を重ねて、初めて出会った時の彼は瞳はスモッグで汚れ澱んだ空のような色をしていた。まだ、目元にそばかすの跡を残す少年の域をようやく脱したばかりの若い肢体は、まるで関節の錆びたロボットのようにぎくしゃくとした動きをしていて、覇気が感じられることはなかった。
 最初の本格的な戦闘サイボーグとして稼動している大切な成果である彼に対して、何という酷い仕打ちなのだと、科学者としてのプライドが許せなかったから、出来得る限りの権限を最大限に利用して、彼を擁護した。それは、少なくとも人道的な立場から派生した感情ではなく、あくまでも科学者として、自分の実験結果が最良の状態に保つということに対してのプライドだった。
 00サイボーグ計画の研究開発主任に選ばれたギルモアがまずしたことは、ジェットの生活改善であった。黴臭いコンクリートが剥き出しになった倉庫のような狭い部屋から、設備の整ったワンルームのコンパートメントタイプの部屋に移した。
 そして、体調が整うまで数ヶ月間、実験も改造も一切行われなかった。
 体調の回復を見計らって、002のプライベートルームを訪ねたギルモアをジェットはきょとんとした本当に幼い子供のような瞳で見ていた。一度も、彼らのプライベートエリアに科学者が訪ねて来ることはなかったからだ。青い綺麗な瞳の向こうにはギルモアに対する、次に何が起こるのだという怯えが存在していたけれども、若いギルモアにはそんなことは理解出来なかった。
 生立ちなどは知らされずに、犯罪を犯して本国に居られなくなり、サイボーグ手術を志願したとだけ聞かされていて、本名もようやく知ることが出来たのだ。
 誰もが、ナンバー2、もしくは002としか彼を呼ばなかった。例え、サイボーグだとしても人としての心と記憶を持つ以上は名前が必要だと、ギルモアはようやく上層部から本名と年齢と出身を聞き出すのに、それだけの時間を要したのだ。
『ジェット君じゃったな。わしは、アイザック・ギルモア』
 手を差し出したギルモアに対して、ジェットは黙ったまま毛布を引き寄せて、毛を逆立てる猫のように警戒心を露わにしている。それは仕方のないことだとギルモアは思った。志願していたとしても、あんな人間扱いもされない、倉庫のような部屋に閉じ込められ、一人きりで時を過ごした彼の心情を思いやると、科学者として決して被験者に対して、行っても良い行動だとは思えないのだ。
『君は、空を飛びたいと思わんかね』
 前置きもなくギルモアはそう切り出した。
 何を言ったとしても、この青年が自分の言葉に耳を傾けないのは分かっていたことだ。だから、用件のみを単刀直入に伝えるしかない。
『あんた……』
 それが、二人が交わした最初の会話であった。
『わしは、君にジェットエンジンを取り付けて空を飛んでもらいたいと思っている。決めるのは、君だ。すぐにとは言わん。体調もまだまだ良くないようじゃから、よく考えて欲しい』
 そう言って部屋を辞した。
 彼の実験の態度を見ていても、何処か投げやりで、自棄になっている風体が見受けられた。あんな扱いの中でどうやって正気を保ち、生き続けていられるのか、科学者として興味が沸いたのだ。
 どんな実験にも、訓練にも根を上げない彼の強さの源を知りたかったし、それがどのような形で戦闘サイボーグに必要なのかを見極めたいと思っていた。其処にサイボーグでなくてはならない理由というものが存在していることを、ギルモアはまだ自身で気付いてはいなかった。
 数日後、自らギルモアの元に出向いたジェットは空を飛びたいとそう告げた。
 それからギルモアとジェットの筆舌し難い日々が始まったのである。
 改良と実験と訓練の日々、もう、止めたいと思ったのはギルモアの方であった。そんなギルモアにジェットは苦痛に歪んだ顔に笑みを浮かべて、『空を飛ばしてくれるんだろう』と笑ったのだ。自分の半端な同情心が彼を苦しめているのだとギルモアは知った。彼を苦痛から開放する手は一つ、早く飛行型サイボーグとして彼を完成へと導くことである。
 そして、時が流れてジェットは完璧に近い形で、飛行するサイボーグとして最初で最後の完成形となり得たのだ。
 最終実験で、空から舞い降りたジェットのマフラーがふわりと風を孕み広がった。太陽の反射と相俟ってそれが、ギルモアの目には天使が羽根を広げるように見えたのだ。まるで、自ら贖罪せよと言われているようにすら感じられた。
 開発を手掛ける日々の中で、彼に対しての愛情にも似た感情を抱いていることに気付いてはいた。自分の造り上げた作品だという自負もあったけれども、一人の人として認めようとする葛藤もギルモアの中には介在していた。それが皮肉にもギルモアのサイボーグ研究の成果に繋がっていったのだ。
 機械に対する拒絶反応への有効な手立てが見付からぬまま、ガラスの棺桶の中で眠り続ける彼等を見詰め続けながらも、もう一度、マフラーに風を孕ませて飛ぶ、彼の姿を見たいと思った。
 それが、長きに渡るギルモアのサイボーグ研究に対する原動力でもあったのだ。
 もう、一度、空を駆ける彼を見たい。
 彼は眠っていて知らないかもしれないが、自分の傍らにはずっと彼が居た。ギルモアのサイボーグ研究の成果は全て、彼の上に成り立っている。
 だからなのかもしれないが、ギルモアは彼が愛しいと思えるのだ。恋ではない、そんなものを語る資格もないし、そんな歳でもないことをギルモアは知っている。それは歪んだ感情だということも十分に承知してるけれども、彼が愛しくてならない。
 何と言うのか、見詰め続けていた天使がようやく自分の目の前に降りてきてくれた感覚とでも言おうか、眠り続けるジェットを見詰める度に、教会に通った子供の頃を思い出さずはいられなかった。ステンドグラスに壁に天井に描かれた天使の美しさに焦がれ、羽根を持ち空を自在に飛ぶ姿に果てなき青空への憧れを感じていた。
 天使に会いたいと子供の頃は願っていた時期もあった。
 長じて出会ったのはジェット・リンクと言う名前をもった、鋼鉄の翼で空を飛ぶ天使だったのだ。
 だから、ギルモアにしてみれば、ジェットの存在は他のメンバーも可愛くはないわけではないが、格別なのである。共に歩いて来た険しい道も、冷酷な科学者の顔をしていた若かりし頃のギルモアもジェットは00ナンバーの誰もが知らないギルモアを知っているのだ。
 けれども、ジェットは一言も昔の冷酷な科学者の目をしていたギルモアのことを話したことはなかった。どうしてなのかは今だに聞いたことはないけれども、時折、自分に向ける瞳は決して自分を恨んでいないことを告げている。
 時には、孫が祖父に甘えるように、無邪気にギルモアに心を寄せてくれる。そんな彼が可愛くないわけはない。一緒に暮らしているジョーも可愛いと思うが、遠い空の下で何をしでかすかわからないやんちゃなジェットが心配でならないのだ。
 今度は、何をしでかすのかと、そう思うと、苦笑が漏れる。
 いつも、イワンにはジェットに甘いと言われるのだが、あの破天荒で、綺麗に艶やかに笑う鋼鉄の翼を持つ天使が愛しいのだから仕方がない。天使はいつもトラブルを運んでくるけれども、人々に愛される存在であると、ギルモアは思うのだ。
 空を見上げると雲一つもない空に真っ直ぐな飛行機雲が白く艶やかに伸びていた。
 明日はジェットとアルベルトのメンテナンスが予定されている。あの鋼鉄の翼を持つやんちゃな天使がどんな顔をして自分を訪ねて来るのかと思うと、年甲斐もなく心が浮き立つのをギルモアは止められなかった。
 早く帰って来ておくれと白い飛行機雲に、そう願い乗せ、ギルモアは穏やかに笑った。





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