いねむり



 優しい海風が、ぱらりと雑誌のページを捲る。
 落としていた視線を上げると、眼前には前に見た時よりも少し寂しげな雰囲気に衣替えした海が広がっていた。
 後書きを読んでしまえばこの本を閉じることが出来る。
 と再び視線を誌面に落とすと、肩に心地良い重みが加わった。見なくともそれが恋人の齎したものであることはわかる。そのまま文字に視線を走らせ、数分後アルベルトは本を閉じた。
 隣に座っている恋人の膝の上で、パラパラと雑誌が捲れる。
 そっと雑誌を取り上げて、自分の読み終えた本と一緒に自分の膝の上に置いた。
 そして、左腕で恋人の躯が二人で腰掛けているベンチタイプの椅子からずり落ちないように固定した。
 細い腰は昨夜激しく抱いた時と変わらないはずなのに、劣情が湧かない。ギルモア邸にいるからでも、昼間だからでもない。セックスをしたいとの渇望は所構わずやってくるもので、現に真昼間から、誰もいないのをいいことにリビングでことに及んだことも数度あった。
 それは不思議な感覚だ。
 こうして全てを自分に委ねて眠っているジェットを見ると、触れているにも関わらず劣情が湧かない。
 自分達を取り囲む風景がとても穏やかで、自分達を優しく取り巻いて守ってくれているようにも感じられる。そんな穏やかで満たされた気持ちが湧き上がってくる。
 激しく抱き合うばかりが愛情を確かめ合う術ではない。
 こうして穏やかに相手の存在を感じるだけで確かめられる愛も存在するのだ。自分は、今まで急ぎすぎていたのかもしれない。BG団に居た頃は心を寄せていたとしても抱き合うことすら、キスを交わすことすら出来なかった。視線で愛していると伝えるしか方法はなかった。
 一度だけ交わした。
 キスと愛の言葉だけが二人を結んだ最初の接点だった。
 ずっと、何十年も瞳の動きだけで愛していると互いにそう囁き続けていた時間があったからこそ、自由になった途端アルベルトのタガは簡単に外れた。ジェットが根を上げるまで、気絶するまで欲望が止まらないのだ。触れるだけで、自らの牡が反応して、ジェットを欲してしまう。
 休暇中、風呂とトイレ以外は裸でベッドに縛り付けたことだってあるのに、いつもジェットは、そんな自分に応えようとしてくれた。その気持ちをわかっていながら欲望が止められなかったのだ。
 でも、今はそんな気持ちになれない。
 少し尻を移動させてジェットが楽な体勢で眠れるようにと、半身だけジェットの方に向け、肩と首で不安定な頭部を受け止めた。
 フランソワーズと同じシャンプーの香りがする。きっとまたフランソワーズの愛用しているシャンプーを借りたのだろう。でも、フランソワーズから香る匂いとジェットから匂う香りは全然違う。
 こんなにも自分を安らいだ気持ちしてくれる。
 ジェットの髪に鼻を埋めてその香りを堪能した。シャンプーとジェットの体臭、お日様の香りもする。温かな感触を味わいたくて、そのまま髪に小さな口付けを落とした。それだけで、至極幸せな気持ちになった。
 アルベルトは、ジェットの髪に口唇を埋めたまま瞳を閉じた。まだ陽は高いし、寒くなる季節でもない。ちょうど良い日差しと穏やかに凪ぐ海風が湿った空気を払拭して、程好い気温を作り出していた。
 サイボーグでも触覚に疎い躯だとしても、それがアルベルトには感じられる。触覚だけてなく、他の自分の持てる全ての感覚がそれらを生身であった頃と同じように脳内にリアルに再現させる。
 それが、とても大切で嬉しいと思う。
 ジェットと一緒にいると世界が明るくなるのだ。赤味をおびた金髪がまるで自分の周りを照らしてくれているかのように、独りで居る時はグレーだった景色が明るい色彩を帯びる。鈍っていた感覚が研ぎ澄まされて、風の匂いや躯に触れる感触がわかる。
 随分とそのことに戸惑い悩んだ時期もあったけれども、今は、それはジェットが与えてくれた愛情に基づいた現象だと信じている。
 傍に彼が居てくれるから、多分、自分はこうして生きていられる。
 ジェットの手が何かを探すように動いた。
 アルベルトは空いていた右手をジェットの指先に触れさせると、ジェットの手は迷わずにその鋼鉄の手を握った。そして、安堵の溜息を零すと、すぐに再び穏やか寝息を立て始める。
 たかが、それだけのことにアルベルトは例えようもない幸せを感じた。
 ジェットに右手を握られたまま、ジェットの髪に口唇を埋めたまま、アルベルトもまた瞳を閉じた。
 広い世界の中でこうして寄り添っていられる幸せをもっと深く堪能したかった。深い意識の下でジェットと同じ時間を共有したいと思った。
 優しい海風が、ぱらりと雑誌のページを捲る。
 けれども、今度は誰も開かれた雑誌を閉じるものは現れなかった。





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