温かな想いと



 アルベルトは目の前で、カレーライスにぱくつく子供を見詰めた。
 口の端についたカレーに気付かないで、食べることに一生懸命な様子が微笑ましいけれども、彼がただの微笑ましい子供ではないことを知ってしまった今、どうやって接したらよいのかとの迷いが心の奥底で拭い去れないでいる。
「なあ、オレの作ったカレーが不満なのかよぉ〜」
 あまり食の進んでいないアルベルトに対して、目の前の子供は子供らしい仕草で口唇を尖らせた。アルベルトに手伝ってもらったとはいえ、彼が初めて作った料理だったのだ。言われるままに危なっかしい手つきで、ジャガイモと玉葱と人参を切って、鍋に放り込み、市販のカレールーを入れただけのものだが、彼にとってみれば誰かの為に作った初めて料理だったというわけだ。
「そんなことはないが……、よく食べるな」
「だって、あんたと一緒にメシ食うの久しぶりジャン。やっぱ、独りのメシはイヤだ。我侭ってわかってるけど、あんたとこうして一緒にメシ食うのが一番美味い」
「ジェット」
 そう呼ばれたアルベルトの向かいに座ってカレーを食べる子供は、何処か寂しそうに笑った。
 右隣からはコーランを読む声が、左隣からはポルトガル語で喧嘩している女達の声が聞こえてくる。そして、頭の上からは中国語の姦しいおしゃべりが聞こえ、ここが日本という国であることを忘れてしまいそうな雑多な民族の人々が住むアパートの一室だ。
 そして、部屋の中には必要最低限の物しか置かれてはいない。二人が食事をしているテーブルも、リサイクルショップで500円で買った折りたたみ式のテーブルであった。
「そりゃぁ、あんたは迷惑かもしんない。オレを拾ったばっかりに、あっちこっち転々となきゃいけないし、迷惑もかけてるよ。それくらい、わかってる」
 食べかけのカレーの皿の上にスプーンをかちんと置くと、ジェットは正座している膝の上で両手をぎゅっと握った。はらりと落ちた長めの前髪が子供らしい表情を覆い隠してしまう。
 こんな雑多なアパートだし、決してお世辞にも綺麗とは云えない住まいだが、10分も歩けば日本で最大の歓楽街がある。
 アルベルトの仕事先は、その歓楽街の一角にあり、彼は長い間世界のあちこちを転々と渡り歩いてきていた。日本にやってきたのは5年程前のことで、日本各地を流浪して、最後に流れ着いたのが、この街だったというわけである。
「一所に長くいられないのは、俺自身の問題だって言っただろう。お前のこととは関係ない」
 わかっていてもつい無愛想な言葉しか口からは出てこないのだ。心配しなくともここに居ていいのだと、いや自分と一緒に居て欲しいと思っていても、不器用な自分は優しい言葉をかけることが出来ない。
 仲間はいるけれども、互いに生き延びる為にある一定の距離を保って行動していた。一緒に暮らしているわけではない。歩いて数分という場所に住んではいるが、普段定時連絡以外に接触することなど稀であった。
 一緒に暮らしているジェットですら、アルベルトの仲間についてはほとんど知らない。
「でも、オレのせいで危ない目にあわせて……」
 だが、アルベルトにとってジェットの言うところの危ない目といっても、自分も似たような経験をしてきているから、然程だとは思わない。それにジェットを追っていた連中は、既にジェットは死んでしまったものだと思ったらしく、あの北の港町での出来事以来、追っ手がかかる気配は全くといってなかった。
「今更だと言っただろう。それに、あの程度で死ねる俺じゃない」
 もっと優しい言葉をかけてやりたくとも、出てくるのは、そんなぶっきらぼうな台詞ばかりだ。ジェットの存在がたった独りでなるべく人と関わらないようにして生きてきた自分の孤独をどんなにか癒してくれたのか、言葉にしようもないから、気にせずとも良いのだと、伝えられない。
 悪夢に目覚めても、隣で眠るジェットの安らかな寝顔を見るだけで荒んだ心が癒されてしまう。仕事でどんなに疲れていても、ジェットの『おかえり』の一言で、ボロアパートが温かな自分の本来帰る場所に見えてしまう。
 どんな背景がジェットにあったとしても、アルベルトにとってはジェットの存在そのものが救いだった。
 荒んだ自分の心を、どんなにか慰めてくれたのか図り知れない。
「死にたくとも、簡単には死ねない躯だ。皮肉にもな」
 そう呟くと、テーブルの上に置かれた氷水を飲んだ。
 そうだ、この水が汚染されていたとしても自分が死に至ることはない。水を取り込んだとしても体内で原子レヴェルまでに分解された水は、この戦闘を目的として造られた躯に必要な物質だけを取り出して、残りは破棄してしまう。
 毒物を摂取したとしても、体内にあるこの分解装置で分解されてしまうものであれば、自分には何の効果もないのだ。脳に損傷を与えられない限り、生き続ける躯を望まないのに得てしまった。


 二人の間に重たい空気が流れる。


 それに耐えられないかというように、突然、ジェットは姿を消した。
 身を沈めてテーブルの下から胡坐をかいたアルベルトの無防備な股間に口唇を寄せていたのだ。
「ジェットッ!!」
「あんたが、何考えてるかオレにはわからない。でも、オレが今、あんたにしてあげられることはこれぐらいしかない。人を殺すことと、セックスすることしか教えてもらってないんだ。オレは…。でもセックスだったらあんたを悦ばせてあげられる」
 アルベルトの股間をパジャマ代わりのトレーニングウェアーの上から、両手でやんわりと包み込んだジェットは、はっきりとそう言った。
 そんなジェットにアルベルトは無性に腹が立つ。
 ジェットを助けた後、どうして一緒に暮らそうと思ったのか、今でもわからない。でも、今言えることは、逃亡の果てに疲弊した心を癒してくれたのは、ジェットの存在だった。
 救われたのは他ならぬ自分の方だ。
 機械仕掛けの躯だとはいっても男なのだ、全くその気がないと否定はできない。ジェットの男を誘うツボを心得た仕草に幾度も心臓が跳ね上がったことなどあったけれども、それだけが目的でジェットと共に居るのでは決してなかった。
「悦ばせてどうする」
「?」
「悦ばせて、恩返しをしたら、トンズラしようってのか?」
 想像しなかったアルベルトの台詞に、ジェットはアルベルトの股間を両手で包んだままの体勢で僅かに視線を上げた。けれども、アルベルトの表情は蛍光灯の反射で見ることは出来ない。
「俺は用済みで、もっとイイ暮らししてる奴の所に転がり込むのか?」
 淡々とした口調が、アルベルトの気持ちをジェットに伝えにくくする。元々何処か酷薄な言い回しをする男ではあったが、そのハートは決して冷たくないことをジェットは一緒に暮らしているから知っている。


 どんなに優しい男なのか。


 けれども、淡々とした酷薄の口調は、アルベルトという男の人柄をどんなに理解していたとしてもジェットに冷たく突き刺さるのだ。
 呆然と自分を見上げるジェットの両手首を片手で捉えると、テーブルの下からそのまだ子供らしさを色濃く残した躯を引っ張りだした。突然のことに足をじたばたさせて暴れるジェットをいとも簡単に畳の上にねじ伏せると、鋼鉄の右手で顎をぎりり捉える。
「答えろ。何を考えてる」
「何も……」
 ジェットはぽつりと呟いた。
 青い瞳から、泪が溢れてくる。泣くことだって、相手陥落させる為の手段にしか過ぎなかったはずなのに、今の自分は自然と泣けた。誤解されてしまった自分の浅はかさと、自分のことをそう思っていたアルベルトに対する悲しみの感情が泪となって流れる。
 自分には行く宛などない。
「あんたには、助けてもらった。凄くよくしてもらった。言葉では伝えられないくらいで、オレだって、あんたと居たい。居たいから、オレばっかりしてもらうわけにはいかないじゃないか。オレもあんたに何かしてあげたい。でも、オレは生まれてからずっと、人を殺す方法とセックスで相手を悦ばせる方法しか教えられなかった。今のあんたに人を殺す必要がないんなら、セックスであんたを悦ばせてやるしかないじゃん。あんただって、いい年した大人だ。全くセックスしないで済む筈ないだろう」
「済む筈ないな」
 と呟く声がジェットの顔に落ちる。掴まれていた顎の手の力が抜け、鋼鉄の手が優しく頬を撫でた。時折見せる激しい感情の起伏が最初は恐ろしいと思った時期もあったけれど、彼の優しさが彼本来の心の柔な部分を押し隠そうとして起こる心の動きなのだと知ったから恐くはない。
「済む筈ないから、そういうことは止めろ」
 泪で霞んだ視線でアルベルトの顔を捉えると、困惑した男の顔が其処にある。決して、そんなことしか出来ない自分を軽蔑している表情ではない。
「困る」
 本当に困る。
 嫌いではないのだ。30過ぎた男がと笑われるかもしれないが、ジェットは自分にとってなくてはならない存在で、愛しているといっても過言ではない。セックスをしてみたいとの欲求だとてあるのだから、誘うようなことだけはやめて欲しい。
 愛しているから、彼が独りで生きていける時が来て自分の元を巣立っていく日が来たとしても、自分は笑って見送ることができなくなってしまう。人の中で暮らすことを知らなかった彼が経験を重ねて、やがて愛する相手を見つけた時に、彼の重荷だけにはなりたくはない。
「どうして? オレはあんたが好きだよ。一緒に居たい。だから、あんたに何かをしてあげたい」
 誰かに何かをしてあげたいとの感情など知らなかった。
「バカモノ、俺を犯罪者にするつもりか。どんなにお前が18だと言い切ったとしても、外見からじゃ、せいぜい13くらいの子供だ。いいか、この国ではな、13歳以下と淫行をすると犯罪になるんだ。全く…、俺を犯罪者にするつもりか。誘うんなら、外見が18歳以上になってからにしろ。それまで、ツケにしといてやる」
 そう言うしかないではないか。
 今は、こうして二人でささやかな暮らしを満喫するだけでよい。
 孤独ではない暮らしを与えてくれただけで、アルベルトは満足していたし、今はそれを壊したくはない。本来なら、彼を安全な場所へと送り届けて、ちゃんとした家庭生活を経験できるように手配してやらなくてはならないと分かっていても、ジェットを手放せなくなって、手元に置いているのは自分の我侭だ。
 仕事に行く自分を見送ってくれて、そして迎えてくれる。
 煎餅布団で互いの温もりを求めながら眠り、二人で食卓を囲み、テレビに興じる。仕事が休みの日には宛のない散歩に二人で出掛けることもある。決して贅沢でも、華やかな暮らしでもないけれども、静かな生活がここにはある。
 何時、この生活が終る時がくるやもしれないが、それでもアルベルトは今を享受したかった。
「うん。ツケにしといてくれよ。ツケを払い終わるまで、オレ、絶対にあんたと一緒にいる。駄目だって言われたってついていくから。オレがオレの意志で初めて選んだ人だから、絶対に離れない」
「ああ、せいぜい、ちゃんとツケが払えるくらい成長してくれ」
 ジェットの宣言にアルベルトはそう答えた。
 先は分からない。だから、この瞬間と互いの温かな思いを、いつまで生きられるか、この時間が続くのか分からないからこそ大切にしていきたい。



「カレーが冷めちまった」
「ああ、でも、お前の真心は冷めやしないさ」
 二人は明後日の方向を向きながらも、向かい合わせに座って再び何事もなかったかのように冷めたカレーを頬張った。
 右隣からはアラビア語の興奮した男達の議論の声、左隣からはポルトガル語で男達の悪口を言っている女達の声が聞こえてくる。そして、頭の上からは中国語での喧嘩の声が響く。いつもの当り前な日々の喧騒の中に二人は居る。


 そして、アルベルトは目を真っ赤にして、冷めたカレーにぱくつくジェットの膨らんだ頬を横目で見ながら、少しずつ積もっていく温かな想いの破片を鋼鉄の鎧で守られた心の奥底に仕舞いこんだ。





BACK||TOP||NEXT



The fanfictions are written by Urara since'03/11/14