嘘のピースと現実のパズル



 その男は、ふらりと立ち寄ったとの風情でいつも訪ねて来る。
 片手に小さな旅行鞄、もう一方の手にはくしゃくしゃになった茶色の紙袋を抱えて、しょぼくれた顔で玄関に立っているのだ。
 宿を貸してくれよと、ここに泊めてもらえなければ、駅のホームで一晩過ごすしかないというような雰囲気を醸し出していて、いつも断れなくなってしまう。いや、本当はこうしてふらりと訪ねて来る男の存在が自分は決して嫌ではないし、断るつもりも毛頭ないのだが、ふとそんなことを思う。
 自分よりも年長の男は、とても紳士である。
 いつもはしょぼくれた冴えない中年男性を演じているのだが、中身は全く違う。幅広い知識と教養、洗練された礼儀作法を懐に隠し持っている男なのである。
 その証拠に彼は自分の生活に必要以上には踏み込んでは来ない。一見、冷めたいとも捕らえがちなその姿勢は、この男の優しさの象徴だ。
 その証拠に、自分はこの心の距離感が何よりも、心地良いものに感じる。
 気紛れと映る行動だが、手土産は自分好みのモルト・ウィスキーを必ず1本は持ってくる。これはロンドンにある酒屋でしか小売りをしていない銘柄だと知ったのは最近で、日本に住む彼がそれを持って来るということはロンドンのその酒屋に立ち寄ってから、ベルリンに来ているということになる。
 だとすれば、突然の気紛れのようで、そうでないことは知れる。
 それを悟らせないスマートさが、羨ましくもあり、その気遣いは特別扱いされているようでこそばゆくもある。
 彼が土産に持ってきたウィスキーの琥珀色の液体に氷が溶け出し、綺麗な模様を作り出している。明かりに掲げてそれを見詰めていると、落ち着いた気分になれる。独りで呑んでもそうは感じないのに、彼が一緒だと、酒を味わうことができるのだ。
「お前さんも、女っ気がないねぇ」
 ハインリヒに背を向ける形で座り、ドキュメンタリー番組を見ていたグレートが最後にシニカルな笑い声を添えてそうコメントした。
 部屋は整えられていて、それなりに掃除もちゃんとされているが、所詮は男の独り暮らし、華やかさの欠片もない殺風景な景色から、女がここに通ってくる証拠は見つけられない。
「誕生日の前日だってぇのに、独りで、寂しくかい」
 グレートは、あまりにもハインリヒらしい自分のことには頓着しない、そんな性格が好ましいと思っている。だから、誕生日だとギルモア博士から聞いて、ベルリンへ観劇に行くとの口実を作って、様子を伺いに来たのだ。
 もちろん女性や友達と過ごすのであれば、黙ってホテルにでも泊まって予定通りに観劇をして、ハインリヒには会わずに日本に戻るつもりでいた。
 女っ気どころか、友達らしい友達すら作ろうとはしないこのストイックな男のことが気にかかって仕方がない。
 鋼鉄の躯に武器を搭載した無愛想な、しかもドイツ人気質を剥き出しのこの男に最初は好意など抱けなかったけれども、第一世代と呼ばれる古い仲間に対してはどうしてだが、そんなことを忘れさせるような優しい穏やかな表情を向ける。
 むずがるイワンを抱き上げた時の、柔らかな表情に不覚にもグレートは見惚れた。性的な意味ではなく、その表情の向こうにある男の深い精神世界に惹かれたのかもしれない。未だ、何に見惚れたのか自分でも解らないが、それからハインリヒを見る目が変わったのは確かだった。
「あんたに、言われる筋合いはないだろう」
 と少し拗ねたような声で年上の友人に対して、そう反論してくる。
「だいたい、俺は自分で選んでいるが、あんたは張大人の尻に敷かれてるんだ。女に縁がないっていったって、全然意味が違うさ」
 暗に自分はもてないわけじゃないと、アピールする辺りにグレートはこの男が自分よりも10歳以上年下であることを実感する。彼の冷静な判断力に誤魔化されて本当の年齢を忘れてしまいそうになるが、自分が30歳であった頃よりも、ハインリヒはずっと大人だ。いや、ある部分のみを老成させなければ、生き延びることはできなかったのだ。でも、こうして、時折、覗かせる歳相応な部分がとても好ましい。
「おいおい、まるで、我輩と張々湖が夫婦みたいじゃないか」
「違うのか?」
 意地の悪そうな笑い方は、悪戯好きなアメリカ人に感化されたに違いないのだ。
「まあ、確かに、口煩いって点ではカミさん以上なんだろうけどな」
 と盛大に溜息を吐き出すと、肩を揺らしてハインリヒは笑った。普段、他のメンバー達がいる場面ではこんな笑い方はあまりしない。全員が集まる時、非常事態が多いせいなのだろうが、こうして二人きりで会う時のハインリヒはとても表情が豊かに感じる。
「でも、俺の誕生日を何処で?」
「ギルモア博士がな…」
 そう返すと、ああそうなのかと得心がいったとそう視線だけで返すと、CMが終わり再びドキュメンタリー番組が始まった。
 グレートは視線をテレビに戻して、ハインリヒは一人で土産のモルト・ウィスキーを舌で楽しみつつ、視線を誌面に戻した。
 グレートは早合点してくれたことに感謝していた。
 別に、ギルモア博士が教えてくれたわけではない。ギルモア博士の部屋にある書物や書類の一部を地下に移す手伝いをした時に、偶然に見てしまっただけなのである。几帳面に博士の文字で書かれた全員の誕生日のメモの中に、ハインリヒの誕生日も含まれていた。
 そして、何気にドイツで暮らす年下の友人の様子を見に行きたくなったのだ。幾度か訪れたことはあるが、独りきりで誕生日を過ごすだろう彼の為に、特別なことはできないが、一緒に居てやることは出来る。自分がそうしてやりたくて訪ねただなんて、もちろん口が裂けても言えない。
 博士が心配して様子を見る為に寄越したのだと、誤解してくれて反対に助かったぐらいだから、否定も肯定もせずに、ドキュメンタリー番組を見入っている振りをした。明日、観に行く予定の歌劇に関するドキュメンタリー番組であったというのもまたタイムリーである。
 年下の友人は音楽には興味があるらしいが、歌劇の方はあまり興味がないようで、背中越しにページを捲る音と重なり合った氷がウィスキーの熱で解ける音だけが届いてくる。
 こうして、ただお互い話しもせずに、自分の時間を過ごすことが嫌ではない。張々湖とは気も合うし、口煩いが最高の相棒だとは思っているが、こうして時間を過ごすことはあの男は苦手で、常に立ち働いていないと落ち着かない性質なのだ。
 けれども、ハインリヒとはこうした時間が過ごせる。
 こんな時間が欲しいと思うことが、自分だとてあるのだ。
 グレートは背中越しに感じる年下の友人の気配に安堵しながら、静かな笑みを浮かべた。





 背中越しではグレートの表情は伺いしれないが、この状況に年上の友は満足していること感じ取ってハインリヒは嬉しくなる。
 決して自分はユーモアを解するタイプではない。どちらかといえば、融通に利かない一緒に居て楽しい男ではないくらいは、陽気なアメリカ人の年下の仲間に散々言われて反論できないくらいの自覚はあるのだ。
 でも、グレートは不思議とそんな自分を理解してくれているようで、何かリアクションをすることを要求してはこない。ただ、自然に其処に居ることだけを望んでいるようで、肩の力が自然と抜ける。
 現に、手の中で涼しげな音を立てるグラスの中身についても、自分だけだったら、嗜むことなどない類の酒である。ビールとたまにワイン、ウィスキーなど銘柄も味もわからない自分に対して、丁寧にその深い味わいを教えてくれたのは他ならぬ年上のイギリス人だった。
 酒だけではない。
 戦術に繋がる物にしか興味を示さなかった自分に対して、色々とさり気に人生を楽しむ方法を示唆してくれた。
 煙草を嗜むこともそうであった。煙が吐き出せれば何でも良かったのだが、嗜好品とはそういうものではないだと、煙草の歴史に始まって、ハインリヒの好みそうな銘柄までも手解きをしてくれたのだ。
 音楽を聴くことも、小説を読むことも、そんな当り前のことすら自分は生身の人ではないのだからと敬遠していた自分対して、だからこそ、それらを求めなくてはならないのだと、そう教えてくれた。
 その姿は、少し年上の叔父を思い出させる。
 長男で、妹や弟の面倒を常に見なくてはならず、あまり両親に甘えられなかった自分にとっては兄にも似た存在の人だった。
 色々な習い事も、読者や音楽の嗜好も彼に感化された部分が多大にある。
 容姿は全く似てはいないが、グレートのそんな部分がいつも彼を思い出させて、伝えられる言葉を素直に受け止められる。
 そんな時、自分はこの男が好きなのだと、そう自覚してしまうのだ。
 その能力と同じで、本心を覗かせることは滅多にさせてはくれないが、それが嫌ではなく、男の持つ深い世界を象徴しているようで、それすら好ましく頼もしく見える。戦いのどんな局面であったとしても常にフラットで居られる受難さは、人生経験を積んだ者だけが持ち得るものなのだろうと思う。
 少し落ちた肩や丸みを帯びた背中が、頼りがいのある年上の男を実感させるのだ。
 自分などまだまだ、彼から見れば青二才だろうと、自分の未熟さを素直に認められる数少ない男だ。
 彼がギルモア博士に頼まれた振りをしているけれども、本当は独りで誕生日を過ごす自分を心配して訪ねて来てくれたことは解っている。そんな優しい男だから、それを悟らせないようにとしてくれる。それがまた友人として大切にされているとの気持ちが伝わってきて、嬉しくなる。
 だから、自分も気付かない振りをする。
 時折、上がる感嘆符とテレビの音をBGMにして、ハインリヒはそんな静かな時間を堪能しようと本に視線を落とした。





 背中に感じる重みにグレートは小さな笑みを零す。
 背後で読書をしていたハインリヒが眠ってしまったのだ。仕事がとても忙しいのだと、そう言っていた。明日は、いや日付は越えたから今日だけれども、有給を消化しなくてはならずに昨日は忙しかったと近況をそう語っていたから、疲れていたのだろう。
 でも、戦いの場ではどんなに疲れていても、居眠りなどしない鋼鉄の男の人間らしい一面にグレートの顔に満足な笑みが浮かぶ。居眠りが出来てしまう程に、自分のことを信頼してくれているのだと思うと、鋼鉄の男に寄せられる信頼が心地良い重さを伴って背中に感じられるのだ。
 何ができなくとも、安らかに眠るこの男に僅かな温もりだけでも齎してやれるのならば、ドイツまで来たかいがあるものだ。
 静かに規則正しい寝息だけが、室内を満たす。
 その安穏として空気を壊さないようにブリテンは小さく囁いた。
「お前さんが、生まれたことに感謝していたいね。我輩は…」





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