歴史



 春らしい陽射しを僅かに感じられるようになったそんなある日、ハインリヒはベルリンの壁の前に立っていた。
 ここも、すっかり観光地と化してしまった。様々な民族や国籍を持った人々がうろうろとうろついている。それ以外にも、壁の破片を地面にビニールシートを敷いて売っている子供や、ベルリン危機に端を発した一連の歴史的な事実を声高に語るガイド達もいる。
 壁のいたるところに落書きがされていて、ハンマー持参の観光客が遠慮なく壁を削り取ったらしくちょうど胸のあたりのでこぼことしていた。
 そして、壁の向こうにはブランデンブルク門の裏側が見える。
 昔、自分はブランデンブルク門を表からばかり見ていた。サイボーグになってドイツに戻ってきてからようやくその裏を見ることが出来たのだ。
 長い年月の間に何もかもが変わってしまった。
 ベルリンの壁の崩壊もあの忌まわしいサイボーグ研究所で知ったのだ。コールドスリープから目覚めて以降は、待遇が格段とよくなり個室が与えられるようになった。その部屋にはバスルームまでもが完備され、防護服と手術着以外の洋服も用意された。
 希望すれば、煙草や酒の嗜好品は限定品や高価なもの、つまり贅沢さえいわなければ手に入れることは安易であったし、もちろんテレビやラジオといったメディアに触れることも許可された。
 コンクリートがうちっぱなしになった寒々とした窓一つない部屋の中に002、003、そして自分の三人で押し込められていた時代を考えれば随分とマシな生活であった。
 1989年11月9日、002と二人で自分の部屋で何をすることもなくグラスを傾けていた。音のない静かな生活は苦手だと002がつけたテレビから聞こえてきたニュースがベルリンの壁の崩壊のニュースであった。
 BG団から脱出し、自由を得て、再びドイツに戻って来たけれども、アルベルトが知っていた時代のドイツはもう残ってはいなかった。ドイツという国の空気こそ変わってはいなかったけれども、家族で身を寄せ合って住んでいた狭いアパートも、ヒルダとデートをした公園ももうなくなってしまっていた。
 ドイツに戻って以来、アルベルトはベルリンの壁の近くにいや、元東ドイツ領内で生活することを避けてきた。
 今日だとて、せがまれなければ連れて来るつもりはなかった。
 今でも、壁を見るとあの日の事が蘇ってくる。後悔と懺悔と数え切れない運命に対する呪詛が仕舞いこんでいたはずの胸から溢れ出して止まらなくなりそうだ。
 この観光客が群がっている壁ごと壊してしまえばさぞすっきりするだろうと、つい、そんな危険な思考までが顔を覗かせる。
 こんな壁、足に内臓されているマイクロミサイルを一発お見舞いすれば、瓦礫の山となるだろう。ミサイルを発射する感覚、それが宙を切り壁に向かって吸い込まれていくような映像、壁が一瞬揺らぎ、そして大小の破片が飛び散り、最後に辛うじて形を保っていた壁ががらがらと崩れていく様がまるでスローモーションの如くに脳裏に描くことが出来た。
 忌々しいと、アルベルトは壁に背を向ける。
 連れには悪いが、これ以上この場所に留まるにはあまりにも精神衛生上悪いことこのうえない状態なのだ。それでなくとも、実際にベルリンの壁に囲まれて過ごした人間にしか、この壁の齎した心に残る負の遺産というものは到底理解できないのだ。それを知らない連中の物見遊山な気配にも次第に腹が立ってくる。
 理解していたはずだ。
 この感情を分かち合える相手などいないことぐらい。
 今のドイツは完全に東西の壁を取り払い統合し、過去の負債に苦しみながらも明日に向かって進んでいる。それはドイツ人として好ましいこともアルベルトにとっては偽らざる気持ちである。
 けれど、神経がささくれ立っていくことが止められない自分もここにいる。
「アル」
 背後から声が掛かる。
 その声の主の姿など見なくても分かっている。自分の今の恋人で、ここに来たいとせがんで相手でもある。この行き場のない感情が摩擦を起こして、まるで躯が帯電するような感覚に包まれ肌がパチパチと音をたてそうなくらいに感情が高揚していく。
「アル」
 困惑したような口調に、アルベルトは背を向けたまま肩越しに後を振り返る。すると其処には、手に白い薔薇を持ったジェットが立っていた。そして、ちょっと待っててくれと言うと、壁の近くまで走っていって白い薔薇をまるでこの壁によって命を奪われた人達を追悼するかの如くに花を供えて、数十秒頭を垂れた。
 アルベルトは、肩越しにその姿を見詰めていた。
 行き場のない感情の昂ぶりが、まるで水でも掛けられて簡単に沈静化してしまうボヤの如くに、沈静化していくのがわかる。
 ジェットの視線が自分に戻ったことを確認してから、再び歩き始めた。
 聞き慣れた足音は、どんな雑踏の中でも自分は見つけ出すことが出来るくらい彼の存在は近いものになっている。この場所に連れてきて欲しいと言ったのが、彼でなければおそらく自分は断っていたはずだ。
「ごめん」
 後から掛かる声に気にするなとしか答えてやれない。自分が行き場のない感情をもて余していたことぐらい聡いジェットは気付いているはずだ。だからこそ、恥ずかしくてまともに顔を見られないだけなのだ。
 あそこにいる連中にとっては歴史的事実であったとしても自分は、あの壁を超えようとした人間なのだ。歴史の1ページでは済まされないものであるのだ。
 もちろん分かっている。
 自分達の存在が既に、時間に取り残された存在であることすらも認識出来ている。アルベルトが生きていた頃に同世代であった連中は孫の一人二人いたとしてもおかしくない年になっているだろうし、下手をしたら鬼籍に入っている連中もいるだろう。
 外見上は年を取らない自分達の存在は、決して社会とは相容れないものなのだ。
「あんたにとって辛い場所なのは知ってる。でも、見ておきたかった。あんたとちゃんと向き合う為にも、あんたとずっと一緒に歩いていく為にも」
 アルベルトは知っていると答える。
 けれど、ジェットの方を振り返ることはない。
 そう、ベルリンの壁が崩壊した事実を受け止められなくて、あの時、自分の中に閉じ込めていた全ての感情をジェットにぶつけた。少しでも抗おうとするジェットを殴り、接近戦では決してそのサイボーグとして能力の差から力という点では敵わないのを知っていいて、押さえ込んで手荒に抱いた。
 そして、それ以来BG団を逃げ出すまでそんなずっと仕舞いこんでいた感情をジェットにぶつけ続けてきたのだった。でも、ジェットは逃げなかった。今、後ろから黙ったままジェットのアルベルトの背後から付いてくるように、いつも自分の傍らに居た。「アル」 立ち止まったアルベルトの隣にジェットは立った。 厳しい表情の横顔を覗きこむと、ブルーグレーの瞳が小さく触れているように、ふと感じられた。その視線の向こうには古めかしい大きな建物が二人の行く手を阻むように存在している。
「わかっているさ」
 彼はそう呟いた。
「わかっている。俺達はサイボーグだ。どんなに願ったとしても外見上年を取ることは出来ない。そして、おそらく普通の人よりは長く生きるだろう。様々な歴史的な瞬間に立ち会いながらも、それでも、そんなことすら時間という観念が生身の人間とは違う俺たちにとっては」
 とそこで言葉を切った。
 ジェットはそっと手を伸ばして、黒い革に包まれた右手を握る。
「すり抜けていく風のようなものなんだろうな。もう、二度との同じ風が吹くことはない」
「でも、風は誰にでも感じられる。人それぞれが違う感覚だとしてもそれは風だ。違うかアル?」
 ジェットの触れた指に力が篭もった。
 言葉と握った指から伝わる想いが、憂鬱なアルベルトの気持ちを少しだけ癒してくれる。どんなに無体な人としてすら扱わない日々の中でも、いつもジェットは自分を愛し続けていてくれたのだ。
 理性では理解出来ているのだけれども、未だ感情がついていけない部分がある。多分、まだ、時間はかかるのだろう。でも、ジェットがくれた自分に対する想いを無駄にはしたくはないとアルベルトは思う。
 そして、自分を愛してくれたもう一人のこの地で息絶えた彼女の為にも、失ったことに対することに惑い迷いながらも全てを無駄にはしたくない。生き長らえたのではなく、生き長らえさせられたのだ。それにどんな意味があるのかは、きっと死ぬ時ですら理解は出来ないのだろうが、自分はきっとどんな形であったとしても、この空の下で生きることを運命に嘱望された存在であったのだと、少しは思える気がする。
「ああ、そうだな」
 そう答えて、アルベルトはジェットの指をしっかりと握り返し、そのまま駅に向かって歩き始めた。





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