花影



「今日は、随分と気分が良さそうだね」
 ジョーは珍しく半身を起こして、庭を眺めているフランソワーズに声を掛けた。
 ジェットが脳の病で死んだ後、誰もが戦いの中ではなく老化して死んで行く自分の未来の姿と対面せざるえない状況にあった。そんなある日、フランソワーズが奇妙なことを言い始めたのだ。
 今日は何月何日だったかしら?
 始まったそれは、食事をしたことを忘れたり、同じ場所を何度も掃除してみたりと極端に物忘れが激しくなった。
 心配したジョーがイワンに見てもらったところによると、それは脳の老化によるもので、それを食い止める方法はないのだということであった。
 躯がサイボーグ化された自分達の弱点は脳を始めとする生体機能にある。
 躯は幾らでも代えられるが、脳だけはどうしようもない。
 ジェットの次に古いサイボーグであるフランソワーズの脳が老化を始めても何ら不思議ではなかった。脳のかなりの部分を機械化されているフランソワーズにしてみれば、これだけ良く永らえたというのがイワンの冷徹な科学者としての見解であった。
 最近では、神経も麻痺を始め、歩くこともままならなくなり、ここのところベッドでの生活を余儀なくされていた。
 一日、ぼんやりと天上を眺めているだけの日々。
 時折、調子がよければジョー相手に話しもするが、それは今のではなく昔の話しばかりである。
「ええ、とても良い天気。ねえ、ジョー窓を開けてくれないかしら?」
 フランソワーズは珍しく口紅を差していた。
 ピンクのそれはフランソワーズに良く似合い。ジョーも幾度かプレゼントした銘柄のものであった。
「そうだね」
 ジョーは持っていた盆を置くと、窓辺に歩み寄りゆっくりと外の空気を部屋に取り込んだ。そして、再び、フランソワーズのベッドの脇に戻ると、ベッドの脇に置かれたテーブルに置いていたカップに紅茶を注ぎ、レモンを浮かべた。
 甘い春の香りにレモンの爽やかな香りが交じり合う。
 フランソワーズは笑いながら、それを受け取ると、再び、外に視線を戻す。
 その先には、桜の木があった。
 時折、海から吹いてくる風に乗ってゆらゆらと薄いピンク色のまるでフランソワーズの口唇のような色合いの花弁がひらひらと舞い踊る。
 緩い笑いを口元に浮かべたままのフランソワーズを見ていると、ジョーは哀しくなってしまう。
 毎日、こうしてお茶の時間にはフランソワーズが眠っていたとしても必ず枕元にお茶やコーヒーを運んだ。聞いていないとわかっていても、一日の出来事を話し続けた。時折、相槌を打ったり、話し相手になってくれることもあるが、毎日ではない。二人でいやイワンも一緒に暮らし始めてから長い年月が過ぎていった。
 いつまでもこんな暮らしが続くと思っていた。
 ひょっとして独りでジェットを看取ったアルベルトも自分と同じような気持だったのであろうか。近くに住んではいるが、見舞いメールと花を寄越しただけで一度もフランソワーズに会いに来ることはなかった。
 メンテナンスを受けにイワンの元を訪れても、フランソワーズに会わずに帰ってしまう。一度、会ってやってくれというジョーに対して、プライドの高いあのフランソワーズが老いた姿を俺に見せたいとも思わねぇよ。とだけ言い残していった。
 あれは、ジェットがおそらく同じことを言ったのだろう。
 ジェットとフランソワーズは良く似ている。最初は恋人同士と思うくらいに仲睦まじかった。でも、それは恋人のではなく姉と弟、いやそれ以上の家族としての絆を二人は持っていた。フランソワーズのことを理解してあげられるジェットを羨ましいと何度も、嫉妬した。
 それも昔の話しだ。
「ねえ、ジョー。昔ね。ジェットが、桜を見に連れていってくれたことがあったのよ。まだ、あたしとジェットと、イワンもいたけど、イワンは別の場所に居て滅多に会うことが出来なかったしね。そうジェットが、ある日、桜の花弁を持って来てくれたのよ。ここを出られたら一緒に桜を見に行こうって……。たかがと思うでしょうけど、窓もないコンクリートの壁で出来た部屋に訓練と実験以外ずっと閉じ込められていたあたしにとっては何よりの慰めだったわ。大切に、聖書に挟んでいたのに……、脱出の時に置いてきてしまって」
 フランソワーズは涙ぐんだ。
 幾度も聞かされた話しだ。
 フランソワーズは正気に戻ると、すぐにジェットとの話しをする。自分との楽しい思い出ではなくジェットと過ごしたBG団時代の話しがとても多かった。
「でも、もっと素敵な思い出をジェットはくれたんだろう」
 ジョーにはそう言うしかない。
「ええ、いつか桜を一緒に見に行こうって約束覚えていてくれてね。本当に、嬉しかったわ」
「ねえ、フランソワーズ」
 なあにと、昔のフランソワーズの笑顔でジョーを見る。その笑顔を見るのが今はとてもジョーには辛くてならない。じわじわと老化はフランソワーズを苛みやがて、死に至るのだ。幸いなことに傷みはなく眠るように死ねるということだけだ。
 それを看取ることしか自分に出来ることはない。
「桜を見に行こうか。ほら、君がジェットと一緒に見に行ったっていう桜、買い物の帰りに見たら、綺麗に咲いていたよ」
 ええ、何を着ていこうかしらと、フランソワーズは無邪気に笑った。
 そして、ゆっくりと紅茶で喉を潤す。さわさわと窓から海の香りを含んだ春の風が白い頬を撫でて髪をふわりと乱していった。
「温かくしていった方がいいね。陽が陰ると冷えるから……」
「ふふ、あたし、そんなジョーが大好きよ」
 その台詞にジョーは自嘲した。
 ジェットのことは愛していると言ったのに、夫婦にも近い関係を持った自分には対しては大好きなんだと、でも、いつもの笑みを変えることなくジョーはフランソワーズの洋服を取る為にクローゼットを開けた。
 ジェットを愛しているのよ、と静かに泣きながら囁くようにそう告げたあの場所に行く為に……。





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