甘やかな誤算



 台所からコーヒーの香りが漂ってくる。
 メンテナンスを終え、目を覚ますと其処にはジェットしかいなかった。
 ギルモア博士はかねてからの約束で、コズミ博士宅にジョーをお供にして将棋を打ちに出掛けたのである。それは、メンテナンスを行なう前から予告されていたことなので、別段驚きはしなかったのであるが、別の出来事で驚くことがいくつかあったのだ。
 それは恋人であるジェットについてであった。
 出会った頃の彼は何一つ日常的なことが出来なかった。
 食事のマナーはもちろんのこと、掃除洗濯料理すらも何一つ出来ず、まともなのはセックスぐらいという状況だったのだ。
 もちろん、普通の生活を送ったことのない彼にしてみればそれは仕方のないことかもしれないが、大勢の兄弟の長男として育ったアルベルトにしてみれば、自分ことは自分でする。それ以外にも弟妹の面倒を見るというのは当り前のことであった。
 特に一番下の妹などは、アルベルトが育てたといっても過言ではない。多忙な母親の代わりにオムツを替えたのも、夜泣きをあやしたのも、離乳食を作って食べさせたのもアルベルトだった。
 つまり、独りで生活していても何ら不便を感じない程度には身の回りのことが出来るアルベルトにしてみれば、日常生活が壊滅的に不器用なジェットの存在は不思議であったのだ。
 そんな日々の中、自分に足らないものを自覚したジェットは、家事全般に秀でたジョーに師事し、洗濯掃除、料理を学んだ。時折、張々湖にも料理を習っていた。
 更に嬉しいことに、折に触れてその成果をアルベルトに披露してくれたことがあったのだ。ジョーや張々湖とまではいかないが、到底食べられないものを提供する時期を通り過ぎ、取り敢えず人間が食べられるものを作るという境地に達するようになってきたのである。
 最近では、料理が楽しいのか二人で過ごす時間はジェットが台所に立つ回数が増えてきている。
 今朝も、メンテナンスから目覚めたアルベルトを迎えたのは、バターをたっぷりと使ったフランス風オムレツと、カリカリに焼いたベーコンとほうれん草とサラダ、ライ麦パンであった。オムレツは豊かな香りと湯気がたっていて、どう考えても今しがた作ったばかりにしか見えない。ということは、ジェットが作った以外のナニモノでもなかった。
 ゆっくりと口に運ぶアルベルトの姿をにこにこと笑いながら見つめていたジェットはいつもより可愛く見えたのはいうまでもない。
 以前より、かいがいしく自分の世話を焼こうとするジェットが、とみに可愛く見えて仕方がないのだ。
 以前は自分のアパートにやってきても、食べたら食べっぱなしだったのが、今では食事の支度や掃除をして、アルベルトの帰りを待っていてくれるのだ。何処か新婚さんのようで照れ臭くないというは嘘なのであるが、自分の為だけに一生懸命なジェットが愛しいのである。
 昼食は、ハムとレタスのチャーハンとワカメのスープをご馳走になり、アルベルトは日本へ向かう飛行機の中で読み始めた本の続きを、ジェットは雑誌を広げてリビングで静かな時間を過ごした。
 寄り添うようにしながらも、会話の一つもない。ただ互いのページを括る音と時計の針の音だけで静かなリビングを満たしていた。
 ジェットが意外とこういう静かな時間が好きだというのを知ったのも、最近であった。
 それまでは離れていた時間を埋めるように、会えば激しいセックスに明け暮れていたのだが、今ではそれだけではない時間も欲するようになっている。互いに自分がしたいことをしながらも、傍に居るそんな時間。
 アルベルトが新聞を見ている横で、ジェットがテレビゲームに興じていることもあれば、アルベルトがインターネットを楽しんでいる横でジェットが読書に勤しんでいることもある。別々のことをしながらも互いの存在を感じることで、安心していられる時間。
 そういう時間を持つことも必要なのだと、ようやく最近になってそれを知ることが出来たのだ。
 もちろん、激しいセックスもする。
 何もせずに抱き合うこともある。
 様々な過ごし方を習得しつつある二人なのだ。
 最後のページにちらりと目を通して大きくアルベルトは伸びをした。
 そのタイミングを見計らっていたかのようにジェットが盆に乗せた湯気の立つコーヒーを運んできた。ちらりとアルベルトに流した視線に、頷いて立ち上がるとダイニングテーブルに座る。
 誰がどの席とは決められていない、全員で食事の取れる大きなダイニングテーブルの2番目にキッチンに近い席に腰を下ろした。一番近い席の傍にはジェットが立っていたからだ。
 ジェットは黙ったままマグカップをテーブルに置き、続いて竹の籠に盛ったクッキーをその脇に置いた。
 甘いクッキーの香りが、コーヒーの苦い香りと混じってなんとも懐かしい気持ちにさせられる。
 ドイツ人であるアルベルトは決して甘いものが苦手ではない。
 欧米では料理に糖分を使うことはあまりなく、その分糖分を補うのはもっぱらデザートの役目であるのだ。男性でも食後のデザートを頂くのは、決して珍しいことではなく当り前のことなのである。
 もちろんアルベルトも例外ではない。
 子供のように菓子類を進んで買い求めるわけではないのだが、それなりに甘いものを食べることは少なくない。
 こうしてお茶請けに出される甘い物にも残さずに頂いている。
 今日は、何なのだろうと覗き込むと、ふんわりと甘いピーナッツの味が鼻腔に広がった。不揃いで、歪な形をしたクッキーは手作りだということをアルベルトに教えてくれる。
「ピーナッツクッキーか」
「ああ、ジョーに教えてもらったんだ」
 ジェットは手作りなのだと気付いてもらったのが嬉しいのか、にこにこ笑いながらアルベルトの隣の席に座った。
「食べてみてくれよ」
 照れ臭そうに勧めるジェットを無碍にはもちろん出来なかったし、ジェットの料理の成功も失敗もアルベルトは見てきているのだ。昔に比べたら格段に上達したものの、砂糖と塩を間違えたり、大さじと小さじを間違える失敗も時折はする。
 でも、一生懸命のジェットを見るのが楽しくて仕方がない。
 その一生懸命は誰の為でもなく、自分の為だとわかっているから尚のことであった。
「昔さ、料理なんてロクにしない母親が気紛れで時々作ってくれたんだ。母親の母親、オレのばあさんが良く作ってくれたって……、何となく食べたくなってさ。作ってみたんだ」
 ジェットは何処か照れ臭いと鼻の頭をかきながら、そう昔の話しをしてくれた。以前は思い出したくもないというようにサイボーグになる以前の出来事を話そうともしなかったジェットだが、自然に大切な思い出をアルベルトに伝えて寄越すようになった。
 両親に愛されて育った人間なら誰しも持っている当り前の母親の味に対する思い出だが、家族に恵まれなかったジェットにとっては本当に大切なものなのだろう。
 アルベルトには少なくとも母親の味と呼べるものが沢山記憶に残っている。大勢の兄弟の食い扶持を稼ぐ為に働き、そんな忙しい合間を縫って大家族の食事を手際よく作っていた。
 大きな皿に盛られた食事をみんなで分け合って食べた。
 全員で食べるだけで、質素な食事でもご馳走になったという温かな記憶があったし、特別な日には奮発して、甘いクッキーやケーキを焼いてくれたことも覚えている。
 その時の香りと、ジェットの焼いてくれたクッキーは同じ匂いがする。
「じゃあ、毒見させてもらうか」
 アルベルトの台詞にジェットは、胃薬は用意してあるぞと返してくる。
 指先でクッキーを一枚摘んで、アルベルトはゆっくりと口に運んだ。
 口の中に甘い味が広がった。
 鼻の穴から舌が出てきそうなくらい甘い。
 甘いものが決して嫌いでも苦手でもないが、ちょっと勘弁と思うほどに甘い味に、ついに苦いコーヒーに助けを求めてしまったとしても責められないだろう。
「アル?」
 いつもと違うアルベルトの様子にジェットは慌てる。自分で作ったクッキーが原因だというのは明らかで、慌てて一つ口に放り込んでみる。
「うえ」
 いくら甘いものが大好きでケーキを1ホールくらい軽く平らげられるとはいえ、ちょっと2枚目は勘弁してもらいたいという甘さにジェットは眉間に皺を深く寄せる。
 確かに、分量は間違えなかったと思う。電話でジョーに分量を教えてもらって、メモをした通りにちゃんと砂糖もグラニュー糖ではなくしっとりとした質感を出す為に、上白糖を使用した。
 だとすれば、砂糖の量のメモの取り違えか、聞き間違えということになる。
「ごめん」
 今までに幾度も失敗作をアルベルトに試食させてきた。今回の失敗など失敗のうちに入らないというほどの失敗を幾度も重ねて現状に至っているのだ。それをジェットも自覚していたのだが、今回のはやや自信があっただけに、その反動は大きかった。
「ごめん」
「気にするな。まあ、ちと甘い気がするがな。幸い俺は甘いものが嫌いじゃない」
 そう言いつつも、次の一枚に手を出さないアルベルトにやはりという気持をジェットは抑えられない。取り返しのつかないミスという程のことではないが、やはり、好きな人の前での失敗は恥ずかしい。
 何も知らなかった頃より、ある程度物事を理解できるようになってからの方が恥ずかしさは増すというものだ。
「でも、もっと好物な甘いものがあるんだが……」
 その台詞にジェットは汚名を挽回しようと、それは何だと意気込んで質問をアルベルトにぶつけてきた。
 落ち込みから一転するジェットがアルベルトには可愛くて仕方がない。
 自分の為に本当に一生懸命な姿に、更に惹かれていくことを止められない。出会って、恋人として長い年月を重ねたにも関わらずジェットの自分に対する反応は瑞々しさを湛えた新鮮そのものなのである。
「お前の口唇さ。こいつよりも更に甘いけどな。俺の大好物だ。ご馳走してはくれないか」
 ジェットはその台詞に頬を赤くする。
 どうして、アルベルトはここぞという時にすぐに臭い口説き文句を機械仕掛けのハ心臓に撃ち込んでくれるのだろうか。
 それでなくとも、アルベルトを知れば知るほどにその奥深い世界を持った男に惹かれていく自分がいる。そうでなくとも、こんなロマンティクな台詞で自分を口説いた人などいなかったし、誰もが躯が目的の即物的な誘い方しかしなかった。長い年月の間、幾度もロマンティクな台詞で愛を囁かれたけれども、それでも未だにジェットは慣れることはない。
 それに自分の失敗を気遣ってくれているということも理解できるから、余計にアルベルトの自分に寄せる好意が面映い。
「あんたってさ」
それ以上、ジェットは何も言えなかった。
 答えを聞く前にアルベルトの口唇がジェットの口唇を塞いだからだ。
 口唇が軽く触れ合い、離れる。
 その度に、愛の囁きを繰り返されるのだ。
 嬉しくて恥ずかしくて、それこそがジェットにとってのスィーツに他ならない。
 でも、そのスィーツはジェットの大好物であった。
「もっと」
口唇だけを動かして、呼気だけでその言葉を伝えるとアルベルトは小さく笑った。
 額を引っ付けて、互いの瞳を覗き込むようにして、アルベルトはジェットのシフォンケーキより柔らかな頬を手で優しく包み込む。
そして、もう一度、触れるだけの口づけを交わす。
口づけという甘いスィーツを二人は静かなギルモア邸のリビングで堪能していた。
「ねぇ、もっと……」




 その日のティータイムはいつもより長かったということは言うまでもないことだろう。





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