情欲の香り
5階建てアパートの階段をリズミカルに最上階まで駆け上がった。 仕事の帰りはいつも足取りが重たいと感じられるのに、今日は部屋に明かりが点いているというだけで足取りも軽くなる。 部屋の前で薄手のジャケットの襟を直し、軽く埃を払い、乱れた髪を撫で付ける。 小さく咳払いをしてからジャケットのポケットから鍵を取り出して、室内へと入った。 入ってすぐの壁に阻まれて部屋の中を見ることは出来ないが、中途半端な形で突き出ている壁を迂回すると部屋全体が見渡せる。 アルベルトが住んでいるアパートはワンルームタイプである。ちょうど玄関ドアから入ってすぐの壁の向こうに納戸がある。わりと新しいアパートでロフトもあり、ダイニングテーブルと二人掛けのソファー、冷蔵庫に電子レンジ、エアコンが完備された新しいアパートであった。 アルベルトの趣味ではないのだが、たまたまここしかスグに借りられる部屋がなく、新しいアパートであるにも拘らず家賃はかなり割安であった為、新しい部屋が見付かるまでの繋ぎとして入室したのである。 キッチンは広くはないが対面式で、そこからは鼻歌が聞こえてきた。 それは部屋の明かりをつけておいてくれた恋人のものであった。 アルベルトが対面式のキッチンへと顔を覗かせると、おかえりという嬉しそうな声が向けられる。 「ただいま。美味そうな匂いだな」 ジェットが掻き回しているどう鍋の中身を肩越しに覗き込むと、首筋に息が掛かるのかジェットはくすぐったそうに首を竦める。 「ミネストローネだぜ。ジョーに教えてもらったんだ」 くつくつと音を立てているミネストローネの野菜達は原型を留めぬくらいに煮込まれていることから考えるとジェットが来たのはかなり前ということになる。ずっと独りでこの部屋で待っていてくれたとのかと思うと面映い気持ちになった。 「何時、来たんだ。結構作るのに時間かかっだろう?」 アルベルトの問い掛けにジェットは、実はさと、これまた嬉しそうに言葉を続ける。実際、2ヶ月振りの逢瀬なのである。このアパートにアルベルトが引っ越して来てからジェットが訪れるのは初めてのことなのだ。 合鍵を渡し、住所は教えてあったものの、ちゃんと来られるか心配だった。 「まあね。あんたさ。今、俺がここに来るのに迷ったと思っただろう」 ジェットに考えていたことを読まれて、ぎくりとするが何でもない素振りをして、わずかに湿り気を含んだジェットの髪にキスをする。 「いや」 「前のアパートに始めて行った時、半日迷った俺を散々馬鹿にしたじゃねぇか」 そんなこともあったかなと、そう返しながらアルベルトはジェットの細い腰を抱き寄せ、肩に顎を乗せて今度は首筋にキスをする。 「まあ、いいさ。けど、今回は迷わずに来れたぜ」 ジェットは自慢そうに言うとアルベルトがその経緯を聞いていれるのを待っていた。アルベルトもぜひに聞きたいと思う。ジェットは飛行型サイボーグであるが、そのせいなのか方向感覚が普通とは異っている。戦場ではーそうでもないのに、街中に来ると途端に方向感覚を失うのだ。 NYのように住み慣れた街ならば、経験でなんとか出来るけれども、初めて来た場所では髭を切られた猫のようなものである。前のアパートの時は上空からでも目視できるような建物を目印にして、そこからの地図を書いて渡してあったにもかかわらず、ジェットはアルベルトのアパートに着くのに半日を要したのだ。 最後には脳内通信でアルベルトに泣き言を言って、迎えに来てもらったという経緯がある。 「で、どんな魔法を使ったんだ」 「魔法じゃねぇ、数字だよ。あんたのアパートの住所から緯度と経度を割り出して、緯度と経度を目指して飛んで来たんだ」 ああ、その手があったかとアルベルトは納得した。ジェットの補助脳は緯度や経度、高度、気候、天候、様々な飛行条件を計算し最もその場合に適したコースを計算してくれるシステムが組み込まれている。 だから、ジェットは飛行している限りは迷わないのだ。 地上は空とは勝手が違い過ぎるのだというのだが、戦場では地上だとしても迷ったことはない。確かに、戦場ならば、待ち合わせ場所は緯度と経度で示唆されるから、迷うことはないのだ。 「で、何時頃着いた」 「10時頃かな?」 その後はおそらく買い物をして、アパートに戻りミネストローネを作ってくれていたのだろう。 恵まれない幼少期を送ったジェットは家事全般について常識的なことすら出来なかったし、知らなかった。しかし、団体生活を営む上でそうはいかずに、少しずつ手伝っているうちにコツを覚え、料理人の張々湖や主婦のジョーの手ほどきもあって、最近では料理の腕もめきめきと上達し、こうしてアルベルトに食事を作ってくれるようになったのだ。 仕事から帰るとこうして恋人が夕食を作っていてくれる。 何とも、幸せな光景であろうか。 BG団に捕らえられサイボーグとなり、実験と改造手術、訓練だけの日々の中では二度と、仮初めであったとしても当り前の日常に帰れるとは想像することすら出来なかった。 抱きしめれば逆らわずに腕の中に収まっている恋人がいる。 自分と同じサイボーグであるし、男であるけれども、それは全く気にならない。こんな自分を愛してくれるのであれば性別など些細な問題であったし、何よりもジェットとの躯の相性は今までセックスを経験したどの女性よりもマッチするものがある。 「なあ、シャワー浴びて来いよ。ガソリン臭いぜ」 「ああ」 アルベルトは生返事をするだけで、ジェットから離れない。 腰を抱き寄せて、肩に顎を乗せたまま耳朶や首筋、顎のラインに小さなキスを戯れるように落としている。ジェットの髪が時折鼻先を擽っていく。その香りは自分が使っているシャンプーの香りで、まるで自分がジェットにマーキングしているような動物的興奮を覚える。 生身の男のようにアルベルトには体臭が然程ない。最もサイボーグであるからして他のメンバーにも言えることなのだが、外見は普通に生活を営むのに不自由はなくとも、それについてだけは未だ克服できぬ問題点の一つでもあるのだ。 だから、アルベルトは整髪料を使い、煙草を吸う。 そうすれば、それを体臭の一部として誤魔化すことが出来るからである。 フランソワーズが香水をよく使うのもそんな理由が隠されているのだ。現にジョーですらコロンを愛用している。 体臭がほとんどないサイボーグの躯だからこそ、匂いが移りやすいのである。特にアルベルトのシャンプーはやや香りがきついものを使用しているから尚のことであった。 匂いを嗅ぐように鼻をジェットの髪に埋めると、戯れるようなキスには反応を示さなかったのに、擽ったいと肩を竦めようとする。それが楽しくて、今度は頭髪の中に息を吹きかけると皮膚が粟立っていた。 やめてくれと小さく抗うが、本気で嫌がっているのではないと時折漏れる小さな笑いから窺えた。当り前の恋人同士の戯れ合いを自分が経験出来るだけで、アルベルトは幸せを感じる。 「シャワーの後でメシにしようぜ」 ジェットは背後から懐いて離れようとしない恋人にそう提案するけれども、アルベルトは恋人と触れ合う心地良さを離したくなくなっていた。 耳の後ろに鼻頭を突っ込んで匂いを嗅ぐと、シャワールームに備え付けてあるボディシャンプーの匂いもするし、ジェットが羽織っているシャツはアルベルトの物で彼が愛飲している煙草や愛用している整髪料の匂いが染み込んでいて、まるで自分がジェットを動物の如くにマーキングした気持ちになってきてしまう。 自分のテリトリーを主張する牡みたいだなと、アルベルトは自分の行動に苦笑する。 「なあ、その前に、小腹が空いた真面目な労働者の為に何か食べさせてくれないか」 アルベルトの言葉の意味をその口調からジェットは察することが出来てしまう。それくらい長い付き合いだし、持って回った言い方をする時のアルベルトはよからぬことを企んでいることがあるのだ。 よからぬことというのは、ジェットに対する愛を肉体によって確かめ合う行為に関連することなのだが、困ったことにそのやや行き過ぎた行為がジェットの躯には染み付いていて、欲しいと思ってしまうのだから始末が悪い。 「仕方ねぇな。何が欲しい」 ジェットはあくまでも仕方がない、自分が望んでいるわけではないという態度を崩さないけれども、アルベルトの要求には応えるつもりはあるようで、ミネストローネをくつくつと煮ていた火を落とし、鍋に蓋をした。 「そうだな。2ヶ月振りに味わうフレッシュなミルクが……」 その台詞が終る前にジェットの羽織っているシャツの裾から皮の手袋をしたままの手が忍び込んでくる。もちろん、ジェットもそれを期待していたのだからこそ、素肌にアルベルトのシャツを一枚羽織っただけの姿でいたのだし、下着すらも身に着けていなかったのだ。 やすやすと侵入を許したジェットは皮の手袋のまま弄られる感触に甘い吐息を漏らす。 その姿がまたマーキングしてやりたいと思えるアルベルトの牡の本能をどうしてなのか擽るのである。支配する対象ではないし、出来るとも思ってもいないのだが、自分のもたらす快楽によって悶える姿に支配しているとの錯覚してしまいそうになる。 そのような感覚が恋愛を享受している自分というものと直結して、幸福感をアルベルトにもたらすのである。 「っあ、アル」 ジェットの躯が甘えるようにしな垂れかかってくる重みが、更にそんな感覚を強くしていくのだ。 もっと、ジェットにマーキングをして自分のテリトリーに内在するモノとして認識させたいと、アルベルトはそんなことを考える。実際に出来ないのであるが、錯覚によるものであったとしても幸福感を味わいたくておそらく今夜もジェットに過ぎた快楽を与えることに終始してしまう自分がいることは確かなことであった。 「ジェット」 アルベルトは自らの匂いが全てジェットに移るようにと、快楽を追い始めたその躯をしっかりと抱き締めた。 |
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