ひとしずく
「寒いな」 002は小さく呟くと、隣で微動だにせず敵地を窺う004の肩に頭をそうっと預けた。 「寒いって……、上空の方が寒いだろう」 とにべもない恋人の一言に002は口をへの字に曲げる。 確かに、への字にも曲げたくなるのは仕方のないことだった。 クリスマスから新年の3日まで休みを強奪して来たジェットは、アルベルトに27から三日間外せない仕事が入ってしまったとはいえ、ベルリンのアルベルトのアパートで甘い時間を過ごしている最中だった。 クリスマスを祝うというよりは抱き合っていたという方が正しいかもしれないという時間を過ごした後、仕事に行っているアルベルトの為に掃除をしたり、洗濯をしたり、材料を買い込んで料理を作ってみたりと、まるで新婚夫婦のような生活を楽しんでいたのだ。 明日から休みだと浮かれて帰宅したアルベルトがディナーの前菜としてジェットの口唇を味わっている最中に、電話が鳴った。 その音を聞いた二人は嫌な予感に囚われるが、鳴っているのは緊急連絡用のGPS携帯であったし、電話番号表示はギルモア邸となっているから無視もできない。おそるおそる電話に出てみれば、相手はジョーで、イワンがBG団の残党に関しての情報を入手したから確認及び作戦行動を行う為に出向いて欲しいというものだった。 指定場所はスイスのインターラーケンから車で一時間程度の林の中に一軒だけ建っている別荘であった。 その日の最終便でスイスに向かった二人は、チューリッヒ空港近くのホテルで一泊し、翌日の早朝にインターラーケンへと電車で向かう。インターラーケンで車をレンタルし、食料等の必需品を買い込むと現場へ向かった。 到着したのは昼に近い時間で、二人は車内でサンドウィッチと温かなコーヒーで食事を済ませると、雪を使ってレンタカーをカモフラージュし、後は徒歩で別荘が見渡せるこの場所に陣取ったのである。 もちろん、火を使うことは出来ない。 温かな食事はもちろん、コーヒーの1杯も飲むことはできない。 確かにサイボーグだからこの程度の寒さで凍死することはないのだが、寒いという感覚を脳内から払拭することは無理なのだ。 何故なら、ジェットは飛行型サイボーグである。 上空はここよりも更に冷たいが、彼が凍えることも飛行中に寒いと感じることもないのは、寒いと感じる感覚をオフにしているからなのである。 けれども、皮膚はそれらを何度くらいの気温で、どの程度の湿度があって風向きはどうであるかと計測し、そのデータを元に補助脳として組み込まれたAIが適切な空路を計算するのである。 だから、寒いという体感はしないのだが、脳は皮膚からもたらされた情報から寒いということを感じていて、其処で生身の人間では理解できない感覚のずれが生じるのである。 慣れてはいるのだが、あまりキモチの良いものでもないのだ。 特に戦闘している最中ならばともかくとして、このようにじっと相手の動きを窺うという状況では意識が其処に集中してしまいがちになる。 「けどさ、一面雪で視覚的に寒く感じる。感覚切ってても……さ」 「ああ」 アルベルトはジェットが言わんとすることを理解した。 アルベルトも感覚をオフにする機能は搭載しているし、どのような場所でも戦えるように、寒冷地にも対応した構造にはなっているが、ジェット程には、そのような感覚が強くはない。おそらく、アルベルトの皮膚の触感は普通の生身の人間よりもかなり鈍く出来ている。いや、その構造上、現段階以上の触感を得ることは技術上無理なのである。 反対にジェットは、皮膚で状況を感知している部分も多い為、その皮膚は生身の人間よりもかなり敏感に作られている。 その差異が彼等の感覚の違いをも生み出しているのだ。 「俺には、わかりにくい感覚だがな。それよりも、さっさと、済ませて帰りたいもんだ」 二人がこの場所に移動してきて、一日半が過ぎていた。 山肌に張り付くように立っている別荘を端から見ると極普通の別荘に見えなくはないが、戦闘の経験が豊富な彼等から見ればそれは要塞にも成り得る造りをしていることはわかる。 一見、テレビ用のアンテナと見えるそれは決して家庭用のものではなく、カモフラージュしているが、イギリス軍が地上戦の指揮車に装着しているアンテナだし、窓は強化ガラスで、出入りしている人間の数からすると地上部分で生活するにはかなり手狭なはずである、とすれば地下があるのは間違いないであろう。 イワンが入手した情報によれば新年を迎える騒ぎに乗じて、ここから過去BG団で研究されていた薬が残党達により運び出されるとのことだった。 それは、薬によって筋肉を増強させ、一時的ではあるがサイボーグを上回る戦闘能力を身につけることが出来る。だたし負荷が掛かり過ぎる為、一度使った後は時間を置かなくてはならないが、数十分程度ならかなりの能力を発揮できるのだそうだ。 更に、副作用として数回使用した後に、神経系統が崩壊する可能性が大であるという。 しかし、使い捨てにしようと思えば、何処からでも人間は連れてこられるとのBG団の体質は健在で、そういう人間を使って一儲けしようと企んだのである。 市場に出回れば厄介な相手である。 出回る前に押さえたいというのが正直なところであった。 現在、009は加速装置のメンテナンスで動くことが出来ないし、006と007は同様の用件で原材料を供給している中国の福建省に出かけている。008はイスタンブールでこの薬をばら撒くのに協力している元BG団の武器商人の殲滅に当たっているし、005と003は万が一の場合に備えて、陣頭指揮をとっている001と共に何処にでも駆けつけられるようにドルフィン号で待機していた。 年の瀬に全員が世界各国で、この作戦に従事している。 004と002に与えられた任務は、この薬を運び出そうとした瞬間に攻撃を加え、全て焼き払うこととサンプルとデータの回収である。 だから、二人はじっと雪の中で待ち続けている。 既に、夜の帳は下りていて別荘の明かりが雪に反射しその周辺だけ、紫色に染まっていた。 寒冷地対応のシトロエンが5台、別荘に隣接している車庫に吸い込まれていってから数時間が経っている。 30分もすれば年が新しくなる。 ここから一番近い都市、インターラーケンは観光地だ。 冬でも、スキーや冬山を楽しむ沢山の人で賑わう。 新年を迎えた瞬間ともなれば、祝砲が鳴り響き、花火が上がり、教会の鐘が鳴る。 このような騒ぎの中で移動するのは絶好のチャンスだ。少しの物音やトラブルは全て、これらのめでたい祝いの音だと誰もが思ってしまうだろうからだ。 確かに車道を経由してインターラーケンからこの別荘までは1時間の時間を要するが、直線距離したらそう遠くないのだ。爆破音でも響けば、それは確実にインターラーケンの町まで届くだろう。 「ほんとだな」 002は小さく溜息を吐いた。 これは自分達が生きていく為に必要な戦いであることは知っているし、004がこの状況を喜んでいないことだって理解しているけれども、戦いというモードに突入した004はいつもの自分に愛を囁く004とは別人になってしまう。 002に対する愛情がなくなるわけではないのだが、それでも戦闘モードの004と一緒にいると一抹の寂寥感が過ぎるのだ。 「終ったらな」 まるで、ジェットの心を見透かしたようなタイミングでの呼びかけに何だと鼻水を啜りながら答えた。 「少し、奮発して、ホテルにでも泊まってゆっくりしよう。雪を見ながらディナーも悪くないだろう。時間があれば町を散策してもいい。インターラーケンは俺も始めてだしな」 今までの戦いの中にあった004とは違う彼を見せられて、002はただただ戸惑うばかりであった。 「あんた」 「何、驚いた顔してるんだ。俺がそんなことを考えるのは変か」 いやそうじゃないと言おうとした002だが視界の端に捉えていた別荘から慌しい気配を感じ取った。002の表情の変化に気付いた004は別荘へと視線を戻した。 二人とも其処で会話を打ち切ると、腰のホルスターに入れていたパラライザーに触れた。 移動しようと身体の向きを変えようとした002のその腕を掴んだ004はぐいっと自分の方に抱き寄せる。 そして、そのまま何か言おうとした002の口唇を塞いだ。 口唇と口唇が触れるだけのキス。 決して、長い時間のキスではない。 でも、その触れた一瞬から、互いにとても温かいものを感じる。 白い雪の世界の中で何一つ温かなものを感じることなく潜んでいた彼等にとって、この場所に来てから味わった唯一の温かさであった。 冷たいはずの口唇が、何よりも温かく感じられるのだ。 これは皮膚がもたらす感覚ではなく、心がもたらす感覚なのであろう。 「004」 「気をつけて行けよ」 「ああ」 触れるだけのキスから、ひとしずくの温かさを手に入れた。 でも、004の態度がいつもと違う。 「でも」 どうしてという言葉を飲み込むと、004は困惑したような顔をした。 「俺にもわからないさ。けれども、温かさを感じたかったのかもしれんな」 004はそう言うと視線で行けと002を促し、そして002は何事もなかったかのように雪の上を移動し始めた。 それ以来、004は何も言って寄越さなかった。 002も何も言わない。 でも、二人の心にはひとしずくの温かさがあって、それが支えにもなっている気がした。 温かさは皮膚だけで感じるものではなく、心や脳内でも感じられるものなのだと、二人はそう感じることが出来た。 002は作戦行動が可能な場所に移動をすると、別荘へと視線を転じた。一台目の車がゆっくりと車庫から出てくるのを確認してから、別荘の背後にある崖から身を躍らせるようにして、宙へと舞った。 『寒くはないな』 『ああ、寒くはない。あんたが居れば……』 |
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