幸せにしてくれる魔法
アパートの玄関ロビーや階段、廊下に散らばった新聞とビールの空き缶や空き瓶などを避けて、軽いフットワークでジェットは階段を上っていく。エレベーターもあるのだが、引っ越しして来て3日目に派手な音を立てて止まり、サイボーグの自分といえども出るのに一苦労した経験があるのでそれ以来エレベーターは使わないようにしている。 ジェットの部屋は最上階にある。 肩に自転車を担いだまま、階段を上がるリズムに合わせて左手に持っている帰宅途中で立ち寄ったイタリア料理のテイクアウト専門店で購入したピザの匂いが立ち上り、空腹の胃袋を刺激する。 ウエストポーチから鍵を取り出し、部屋を開けると、少し錆びた匂いがした。 玄関脇に商売道具の自転車を置き、夕食用にと購入したピザとサラダとスープ、そして郵便受けから出してきた手紙をテーブルに置いた。 ヘルメットを取り、商売用の制服を脱ぎ、そのまま洗濯機に放り込むとシャワールームへと消える。 ジェットはNYはマンハッタンのオフィス街にある自転車便の会社で働いている。事務所に篭もっての仕事は元来自分の性格に合わないことを自覚していたジェットにとってある意味天職ともいえる職業であった。最近では、ジェットを指名してくれる企業やビジネスマンも増えて入社当時に比べたら、収入も格段に上がり、貯蓄をする余裕も出てきた。 単調ではあるけれども、当り前な日常をジェットは愛しいと思えるようになっていた。 乱暴な動作で躯や髪を洗う音が室内に響く、そして、これも仕事から帰ったジェットの日常そのものであった。 窓からはNYの夕陽が差し込んでいる。 埃が溜まって汚いというわけではないが、人が住んでいるという乱雑さがこの部屋にはある。 簡易キッチンを背にして、二人掛けのソファーがあり、その正面のテーブルには先刻買った夕食代わりのピザの入った袋と、数日間溜まったままの新聞や手紙、ビールの空き缶、煙草に灰皿が乱雑に置かれている。 テレビの向こうには扉があり、そこは元々物入れになっていたが、物入れが必要なほど私物を持っていないジェットはその部屋をベッドルームとして使用していた。ちょうどセミダブルのベッドを入れるには程よい広さであるのだ。 裸のまま髪をバスタオルで拭きながらバスルームから出てきたジェットは、水の足跡を残しながら冷蔵庫へと向かった。 長身を屈めて冷蔵庫に頭を突っ込むような体勢で、ビールを取り出すと、プルトップを引き、立ったままごくりと一口ビールを味わう。そして、ゆったりとした笑みを零すと、ソファーへと歩いて行く。 あちこち何かを探しているかのように視線を彷徨わせていたが、その視線はソファーの上で止まった。ここにあったのかと得心した表情を浮かべると、テレビのリモコンを取り上げ、電源をONにする。 ソファーの上に躯を投げ出すように座ると、テレビのブラウザが明るくなり、落ち着いた女性の声が聞こえてきた。ちょうど夕方のニュースが始まる時間だった。いつも、こんなに早く帰ることは出来ないのだが、誕生日ということで同僚や上司が気を利かせていつもより早い帰宅となったのである。 ジェットはチャンネルを変えずにリモコンをテーブルの上に置き、煙草と灰皿を手繰り寄せた。 慣れた仕草で煙草を一本取り出すと日本でジョーから借りたまま忘れていて、NYに持ち帰って来てしまった100円ライターで火を点けた。 辺り一面に愛しい香りが広がっていく。 ジェットはぼんやりと紫煙とその向こうに映るニュースを眺めていた。 今日のトピックスが終ると、ジェットは紙袋からピザとサラダ、スープの入った容器を取り出した。 煙草を灰皿に置いて、スープの入った容器の蓋を開け、付いているプラスティックのスプーンでその店でのお気に入りのクラムチャウダーを一口食べると、躯をぶるぶるっと震わせた。 そして、テーブルに置いてあったエアコンのリモコンを取ると、暖房をつける。 ぶぁん〜と、奇妙な音がしてエアコンにスイッチが入ったことを伝えてくる。ジェットはそんな随分と年季の入ったエアコンを頼もしげに眺めると、再び、テレビに視線を戻した。 視線はテレビに置いたまま、今度はピザを手に取り、口に運んだ。 大きな口を開けて、ピザを放り込むと元気良く租借し、最後にビールで流し込む。サラダの蓋を開け、不器用な手付きでドレッシングの袋を破ると案の定、ドレッシングが裸のままのジェットの胸に飛んだ。 指でそれを拭いペロリと舐める。 しかし、自分の唾液がついている指が気になるのか、頭を拭く為に持っていたバスタオルで指と胸を拭う。 さすがに自分が裸でいることに抵抗を感じたのか、ソファーに掛かっていたバスローブを座ったままの腕を通した頃には、灰皿に置いたままの煙草は既に灰になっていた。きちんと火種を消すとジェットは再び、食事を続けた。 食べ物を租借する音とテレビの音しか聞こえては来ない。 あらかた食べ物を片付けるとジェットは徐に今日届いた手紙の束に手を伸ばした。 色とりどりな上に、サイズのバラバラの封書に入ったそれはジェット宛のバースディカードである。世界各国に住む同じ枷を背負った仲間達からの自分の誕生日を祝うカード。 最初、誰が言い出したのか忘れてしまったけれども、誕生日にプレゼントを贈るのはやめよう。その代わり、毎年、カードを送ろうとそう言ったのだ。仕事やその他の事情でせっかく誕生日に贈り物を贈ったとしても受け取れるか保障はない。そして、万が一の場合、それを置いてこなくてはならなくなったとしても、カードならば心に仕舞っておけるからだと……。 もし、どうしても渡したいものがあるなら個人の裁量でという不文律が彼等の間にはあった。 一番早くに届いたのはジョーとギルモア博士からのバースディ・カードだった。郵便事情とはいえ一週間前に届いていたのだ。 三日前には、フランソワーズとグレートのヨーロッパ組から、昨日はジェロニモから届いていた。 さくら色の綺麗な封書からカードを取り出すと、そこからは東洋的な香りがした。可愛らしい中国娘のキャラクターが描かれたカードには中国語と英語でジェットの誕生日を祝う一文が書かれていた。 青い封筒はピュンマからのカードだった。 青いカードにはピュンマが描いたと思われるサバンナの風景があり、英語でジェットの誕生日を祝う言葉が添えられていた。 最後に白い封筒をジェットは大切そうに手に取った。 鼻に当て、ゆっくりと匂いを嗅ぐ。 ジェットが吸っていた煙草と同じ匂いがした。 ゆっくりと殊更丁寧に封書を開けると、白いカードが入っている。 誕生日おめでとうとだけ書かれたカード。 白いカードには何も飾られてはいない。 ただ、ドイツ語でそう書かれていただけだ。 ジェットは大切そうにそのカードに口唇を寄せた。 皆の気持ちも嬉しいけれども、恋人であるアルベルトからのそれはまた格別なものであるのだ。 NYとベルリンの距離ではジェットの飛行能力を駆使したとしても一ヵ月に一度会うのがやっとなのだけれど、多分、人生の中で一番、ジェットは華やかな恋愛をしているといっても過言ではないだろう。 色とりどりのカードの中にある一枚の白いカード。 ジェットははんなりと笑うと、そのカードをテーブルの中央に置いた。 そして、左から順番にジョー、ギルモア博士、フランソワーズ、ジェロニモ、張々湖、グレート、ピュンマに貰ったカードをアルベルトのカードを取り囲むかのように時計回りに並べた。 各自の人柄が表れたバースディカード。 どれも全て大切なたった一枚のカードだ。 サイボーグにされるまで誕生日カードなんて送られたことなんてなかった。だから、どんなカードを送れば良いのか自分はとても悩んだのだ。仕事場の同僚に聞いたり、フランソワーズに相談したりして、どうにかカードを送る為のノウハウを最近習得してきたように思える。 皆がどんな顔をして、カードを送ってくれたのか想像がつく。 だから嬉しさも倍増する。 仲間達に愛されているのだと、そう実感できる。 それは、欲しくて得られなかった家族の愛情だ。 そして、白いカードの持ち主は、恋人だ。 家族にも恋人にも恵まれた自分は、サイボーグになったとしても幸せなのかもしれないとジェットは最近そう思える。 自分には帰れる場所がある。 愛する人達が居る。 この雑多な街で生活していると愛も持たず、帰る場所もない人達に沢山出会う。いや、自分もかつてはそんな一人であったのだ。 でも、今は違う。 そう、週末には休みが取れる。 ベルリンに飛んでいくのだ。 恋人であるアルベルトが誕生日を祝ってくれると言っていた。 自分と二人っきりで何処にも行かずに今週末の休暇はベッドで過ごすのだと、電話越しにそう強請ったジェットに対して、アルベルトは困惑した声で返答を寄越し、下半身がガタガタになっても知らんぞと、付け加えてくる。 それはジェットにとって嬉しい一言であった。 毎年、送られてくる色とりどりのカードがジェットの大切な宝物である。 実は、去年まで送られてきたカードはジェットの僅かな財産と共に貸し金庫に入れられているのだ。 大切な大切なたった一枚しかないカード達。 ただの紙切れがジェットをとても幸せにしてくれる。 ジェットはテーブルに並んだカードをいつまでも眺めていた。 それらは全て、自分がこの世に生を受けたことを祝福してくれるものだった。 『Thank you for Dear……』 |
The fanfictions are written by Urara since'05/01/09