道標は彼が識る



 アルベルトがグレートから手紙を受け取ったのは、ドイツの寒さがわずかに緩んで来たと感じさせる三月の初旬のことであった。
 どうにか予定を遣り繰りして、ギリシアに来た頃には既に三月も終ろうとしていた。
 手紙の差出人の住所はギリシア中部にあるアギア・トリアダ修道院、差出人名はアルバート・シナトラとなっていた。察するに、グレートはアルバート・シナトラという偽名でアギア・トリアダ修道院に滞在しているということになる。
 何故、彼が修道院などという場所にいるのか分からないが、自分を呼びつけるということは、何かがあると考えるのが普通であろう。
 手紙の最後の部分には防護服とパラライザーが必要かもしれないとそう書かれていた。
 もちろん、そう言った文面では書かれていなかったが、それを示唆する内容のことが綴られていたのだ。
 アギア・トリアダ修道院は世界遺産にも指定されたメテオラの中にある修道院の一つで、そそり立つ奇岩群の上に建てられていて、多くの観光客がやってくる場所でもある。その中でも、昔の生活を守り続けている修道院で、絵葉書などでよく見られる断崖に凛と佇んでいるのがアギア・トリアダ修道院である。
 アルベルトはつらつらとガイドブックに書かれていたことを頭の中で復習しながら、飾られているイコンを丁寧に見て回りながら、グレートが来るのを待っていた。
 美術品の数々を見ていると随分待たされているとは思えない。美術的価値や学術的な見解を持つわけではないが、古い時代を感じさせるものは、好ましく感じる。
 グレートを呼びに行ってくれた随分と若い僧は忙しそうにアルベルトが見学している場所を行ったり来たりしている。その度に、申し訳なさそうに頭を下げると、剃り上げた頭の天辺が見えて、微笑ましく思えた。
「おお、我が甥よ」
 グレートは灰色の修道服を靡かせた堂々たる歩き方で現れた。
 いつもながら芝居がかった男だとアルベルトは思うが、ここではどうやら自分はグレートいや、アルバート・シナトラの甥ということになっているらしい。その容貌もいつもの彼のものではなく、小太りの背の低い髭を蓄えた六十代の修道僧という外見であったのだ。
「叔父上、健勝なご様子で何よりです」
「今日は、天気が良い。歩きながら話そう」
 とさり気にアルベルトを外に連れ出した。
 外の風景は絶景である。
 麓から見上げるメテオラの奇岩群も圧巻だが、メテオラの寺院群から見下ろす世界もまたしかりである。
 人が立ち入ることが難しい場所を多く訪ねたが、この地にも他の場所同様に何か人智が及ばぬものが在るような気にさせられる。
「で、何の用なんだ」
 辺りに人がいないことを確認してからアルベルトはグレートにそう訊ねた。
「お前さんは、面識がないかもしれないが、グゴールという男のことは知っているか」
 覚えのない名前にアルベルトは首を横に振った。
「背の高い、ぎょろっとした目をした男で、昔、あそこで研究に必要な原料や資材を調達するセクションの責任者だった男だ」
 そこまで聞くとそれが誰のことを指しているのか分かったし、ちらりとしか見たことはないが、存在は知っている。
 自分で息の根を止めてやりたい元BG団幹部の一人である。
 グレートがロンドンの自宅で、メテオラの修道院を特集したドキュメンタリー番組を見ていた時だった。画面の端にちらりと映った男を見て、驚いた。昔、BG団の幹部だった男の姿が映っていたからだ。
 確かに、歳は取っていたけれども、彼に間違いはない。
 グレートは身を持ち崩す以前は一流の役者であった。もちろんクィーンズ・イングリッシュと呼ばれる上流階級で使われる英語から、地方訛りのある英語まで多岐に使いこなすことが出来る。その男の話す英語は、自分が生まれた地方のアクセントを持っていたから、ずっと記憶に残っていたのだ。
 慌てて、ギルモア邸に連絡を取り、BG団幹部のデータに照会し確認をすると、幾つか持っているパスポートの中から、アルバート・シナトラ名義のものを掴み、修道院へと向かったのだ。
 もちろん、グゴールがグレートの顔を覚えている可能性はある。何故ならグレートはその当時、様々な人物に成りきる為の訓練を受けていて、多くのBG団サイボーグ研究所の人間と接触させられていた時期があり、彼もそんな中の一人であったからだ。
 何せ、あの時から、グレートは全く変わっていないのだ。
 従って、グレートはその能力で顔と体型を変え、修道僧として、アギア・トリアダ修道院へと潜り込んだのである。
 そして、間違いなく彼がグゴールであることを確認した。もちろん、グゴールというのは本名ではなく、BG団の中で使っていた通称名にしか過ぎないから、本人であるかの確認は本人に接触しなくてはならなかった。
 世俗に生きているのならば、軌跡を辿るのは容易いが、こういった特殊な場所では、過去を持ち出すことを良しとしない人々が多い。
 グゴールであることを確認出来たから、こうしてアルベルトを呼んだのだ。
「……ば、いいんだな」
 アルベルトの顔は既に戦いの顔になっていた。
「我輩が……」
 と言いかけると、アルベルトは俺が殺るとグレートの言葉を遮った。
「そう言うと思っていたから、呼んだんだ」
 それ以降会話は途切れ、眼前に広がる風景を見詰めるだけであった。何故なら、言葉は不要なものであると二人とも感じていたからだ。二人は歳が離れてはいるが、互いに良き理解者であり、友人であるのだ。
 グレートにはアルベルトの頭の中にあることを理解していたし、理解してもらっていることをアルベルトは知っていた。
 グゴールはBG団にいた頃、ジェットを性的な玩具にしていた幹部達の一人でもあった。ジェットは戦闘用としてだけでなく、性的な目的の為のサイボーグとしての実験台でもあり、その成果を試す為と、幹部達の歪んだ欲求の捌け口でもあった。
 ジェットとグゴールの間に何があったかまでは知らないが、グゴールに呼び出されて、何度も、資材調達関連のセクションがある場所に出向いて行ったことをアルベルトは知っていた。
 グゴールに声を掛けられて、項垂れるように頷いたジェットの姿を一度だけ見たことがある。
 アルベルトはBG団を逃げ出して以来、ジェットを性的な玩具にしていた幹部達をその手で抹殺していた。
 BG団幹部を引退していたとしても、組織への影響力がないわけではない。事実上、BG団が崩壊したとしても、生き残った幹部達が新しい組織を構成しないという保障はない。
 だから、彼等は自分達を守る為に、幹部達の暗殺を繰り返していた。
「我輩達は、そのような手段を取ってでも、そこまでしてでも、生きていくことに固執してしまうのだな」
「あの日から、それを考えないことにしたはずだろう」
 BG団を脱出する時に、何を犠牲にしても生き残る。そして、生き延びると誓いあい、それ以外は考えないと、そう全員で決めたことだった。
 アルベルトはポケットから煙草を出すが、ここは禁煙だぞとドイツ語でそう言われて、慌てて内ポケット戻す。
しかし手持ち無沙汰で、仕方なく観光客らしい格好をする為に肩から掛けていたデジタルカメラを構えてみた。
「ここは、地上ではない。だから、ついいらんことを考えてしまうらしい。いや、考えなくなるという方が正しいのかもしれない」
 アルベルトは何も答えずに、シャッターを切っている。
「祈りを捧げるだけの日々。何を祈っているのかすら分からなくなり、我輩がグレート・ブリテンであり、サイボーグ007であることを忘れてしまいそうになる。ひょっとして、それは誰か他人の生き様を夢としてみているだけで、自分はアルバート・シナトラで、アギア・トリアダ修道院の修道僧なのではないのかと……」
 そう思いたい気持ちは分からないでもない。
 皆に紛れて日常生活を送っていたとしても、世間と自分との間には見えない壁が存在している。それは常に自分を取り囲んでいて、孤独感に苛まれることも少なくはないし、自分を見失いそうになってしまうこともある。
 けれども、自分と同じサイボーグの仲間がいるという意識が辛うじて、彼等の人格を守っているのだ。
 特に恋人を目の前で失ったアルベルトの心の傷は深く、それを救ったのがジェットという存在だから、アルベルトはジェットを人として扱わなかった連中が赦せない。殺人という手段を選んだとしても、この世から抹殺してしまいたいという激情を彼の中に育んでいった。
 それをグレートは否定はしなかった。
 むしろ、積極的にそういった幹部連中を見つけるとグレートの能力を使えば、抹殺するのはたやすいことなのに、逃げられるというリスクを犯してでもわざわざアルベルトに連絡を寄越してくれるのだ。
「しかし、グレート・ブリテンでサイボーグ007であることは変えられない事実なのだと、ふと我に返る。その繰り返しが、我輩の日常なのだよ」
「随分と、弱気だな。神に跪いて、今までの殺戮の全てに対して赦しを請うのか」
 いつもの皮肉っぽい口調でアルベルトは、笑った。
 神という存在を信じない男の発言である。
「いや、赦しを請いたいとは思わないさ。ただ、静かな空間に居ると自分が見え過ぎてしまうことが苦痛であり、快楽であると言っているだけだ」
 神という存在は信じていても、神を信仰しない男はそう言う。
 幼少の頃は父や母と週末毎に教会へ通い、洗礼も受けた。けれど、長じてロンドンに生活の拠点を移してからは、教会にも通うことはなくなった。そして、人生の流転を経て、神は存在するのかもしれないけれども、自分は神に縋る人生を良しとはしないことを選んだのだ。
「何時から、自虐的になったんだ」
 アルベルトも精神的に自虐的な部分があるという自覚はあるが、これはまたグレートの持つものとは違ったものがあるのだ。
「昔からさ。でなけりゃ、アル中にならないさ」
 修道僧という外見には似合わない、吐き捨てるような口調でグレートは言う。互いに、このような話しをするのは精神衛生上よろしくないことは理解している。どちらとも、傾向は違うが後ろ向きな思考を巡らせてしまう体質なのだ。
 その上、このメテオラという特殊な場所の磁場に当てられていてはロクな考えが浮かんでこないことは目に見えていた。一人で思考のループにはまり込んでいるだけならいいが、誰かを巻き込むと二重のループは複雑に絡み合い、解すことが難しくなってしまうだろう。
 いつまでも、こんなことを話しているよりも、早々にここを降りて、麓のカランバカで評判のラムチョプでも食べに行った方が人間らしいかもしれないと、アルベルトはそう思い直す。
「グゴールは、明朝、アテネに向かう。そして、この修道院に多額の寄付してくれる人物に独りで会いに行くらしい」
「先に言えよ」
 アルベルトは苦笑する。
 グレートらしいといえば、らしいのだけれども、もし自分が今日までにここに来なかったらどうするつもりなのだろう。次の機会が訪れる時まで、この修道院に篭もっているつもりだったのだろうかと、アルベルトはついそんな詮索をしてしまっていた。
「ここでは、何かと、煩いだろうしな。警察にどうこうという心配はないけれど、出来れば関わり合いになりたくない」
「ああ、分ってるさ。しかし、さっさと降りて来いよ。グレート」
 グレートは静かに笑う。
 自分の中にある諸々に蹴りをつけられるわけではないが、今暫くはそう言った思考のループを登ったり降りたりするのも悪くないと感じている。
「もうすぐ夕方の礼拝が始まるから、見学していくといい。そうすれば、誰がグゴールだか一目で分かるさ」
 当分、グレートはここから降りてくるつもりはないようだ。
 すっかり、アルバート・シナトラという人物に成りきることを楽しんでいるのだろうか。役者の本能だから仕方がないのかもしれないが、グレートであって、グレートでない人物と話すというのは落ち着かないものなのだ。
「ああ、分かった。明日は、あんたの誕生日だろう。日本でね、ちょっとばかり変わったワインを手に入れたのさ。だから、さっさと出てこねぇと、一緒に飲めねぇだろうが」
 グレートは顎の辺りを撫でた。
 グレートの嬉しいけれども、照れている時の癖だ。
 そういう場合のグレートは、嬉しさをどうやって誤魔化そうかと考えているのだ。
 長い付き合いだから、それくらいのことは分かる。
 アルベルトに酒や煙草の楽しみを教えたのは、グレートで、そのお陰で生活することに自棄になっていたアルベルトは救われた一面もあるのだ。限られた平和な生活を楽しむ術によって、アルベルトの生活はただ働くだけの日々から変わっていった。
 煙草もただ煙を吐き出すような吸い方はしなくなったし、酒に酔えないことに自棄になって、捨てるような飲み方もしなくなった。
 時折、変わった酒を入手したりした時は、落ち合って、二人でひっそりと酒や煙草を楽しむのである。ただ、取り留めのない話しをして、酒を呑んで別れるだけだ。
「そうだな。ロンドンに初夏が訪れる頃には戻るつもりだ」
「ああ、待ってるぜ。叔父上」
 アルベルトはそう言うと、グレートに背を向けて建物の中へと歩いて行った。
 鐘が鳴り響き、夕方の礼拝の時間が近付いていることを告げていた。観光客達も帰り、本来あるべき静寂がこのメテオラに戻って来た。
 グレートは、多分、それが言いたくて、わざわざ三月三十一日に訪ねて来てくれたアルベルトの気遣いが嬉しく、面映い気持ちを持て余している。
 そう自分はグレート・ブリテン以外の誰でもない。
 この道を行けば良いということも識っているけれども、路地裏のような抜け道を開拓してみたい気分の時もあるし、寄り道をしたいこともあるのだ。
 グレートは今一度、ここ数ヶ月で見慣れた風景に視線を転じると、やや茜色に染まりつつある岩肌が、やけに生々しく感じられてならなかった。
 それは、生きている証拠なのだろうと、グレートは微笑む。
 生きているから、誕生日はやって来る。
 正確な歳など忘れてしまったけれども、生きている限りこの日はやって来るのだ。
 毎年、毎年、誕生日が来ると、まるで道標の如くに誕生日と書かれたプラカードを持ったアルベルトが立っている姿を想像して、グレートは少しだけ表情を和らげた。





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