濡れた肌



 雨が降り始めた。
 出掛けた時には太陽が顔を出していたのにと、ジェットは足を速める。やはり、グレートの忠告通りに傘を持ってこればよかったと少なからず後悔した。
 次の路地を右に曲がれば、グレートが住む家に辿り着くはずだった。
 その時、早朝に降った雨によって出来た水溜りを勢い良く直進してきた車が跳ね上げ、ジェットはちょうどその泥水を被ってしまった。
 ロンドンではお茶の時間なので人通りもなく、それを見ていた者ももちろんいない。ジェットは、過ぎた車に文句を言おうと拳を上げるが、既に車はおらず、溜息を吐いて、振り上げた腕をゆっくりと下ろした。
 ロンドンに来て一日、何度溜息を吐いたのか忘れてしまった。
 ジェットは濡れたままゆっくりと歩き始める。今更、走ったところで、どうなるわけでもないし、薄手のシャツ一枚ではやや肌寒いと思える気温だが、サイボーグである自分が風邪を引くことはない。
 こんな時は便利だよなと、自嘲めいた笑みを唇に貼り付けて路地を曲がった。
 五階建てアパートの間をすり抜けると、突然、視界が開けて、グレートの家が見えてくる。大きくはないが、庭もありガレージもある。
 明かりがついているからグレートは仕事から戻って来たのだろう。
 ジェットは胸の高さの蔦が幾重にも絡みついた門塀に手を置いたまま、その明かりを見詰めた。
 昨日の深夜、恋人のアルベルトと喧嘩をした。
 喧嘩はしょっちゅうするけれども、今回はアルベルトがジェット以外の人間に心を囚われたことが原因であった。
 長距離恋愛だし、ジェットも自分だけとは言わない。常にアルベルトの情欲を受け止められないから、そういった場所に行くのは否定しない。セックスフレンドがいるということぐらいなら、我慢しなければならないと思っている。
 けれども、躯だけの関係よりも、心を奪われた関係の方がジェットには辛い。
 その女性のことばかり考えていて、自分が傍にいることすら忘れてしまっているアルベルトを見るのが辛かった。
 それが原因で派手な喧嘩となり、ジェットは帰ると荷物を掴んでアルベルトのアパートを飛び出してきた。
 最初、フランソワーズのところに行ったのだが、彼女は不在であった。
 このままニューヨークに帰るのも癪だった。
 五日間の休暇をアルベルトの元で過ごす為にジェットはベルリンに行ったのだ。
 そして、ジェットはグレートを訪れることを思いついた。ロンドンとパリは遠い距離ではない。ドーバー海峡を越えればすぐロンドンは見えてくる。
 しかし、その行動の根底には、グレートが少ながらず自分に恋愛感情を抱いていることを知っていてことだったし、いっそ、グレートとそういう仲になっても構わないとの気持ちもジェットにはあった。
 けれども、出迎えてくれたグレートは紳士的で、そういった感情を欠片も見せはしなかった。
 ジェットは拍子抜けすると共に、安堵した。
 まるで、甥かずっと歳の離れた弟にでも接するようにグレートは優しくしてくれた。酒を呑みながら、様々な話しをしてジェットの心を慰め、愚痴ばかりのジェットの話しを嫌がらずに聞いてくれた。
 泊めてもらった礼に、何かをと買い物に出たのだが、これというものが見付からずに結局、手ぶらで帰って来たのだった。
 雨足は更に強くなったが、ジェットは濡れるのも構わず門塀から家を見詰めている。
 このままニューヨークに帰ってしまった方が良いのだろうかと、そう考えたりもしている。
 ここにいたら、グレートの好意を利用してしまいそうな自分がいて怖かった。確かに、グレートの好意を利用しようとロンドンに来たことは否定しない。
その上、ジェットはグレートのことが嫌いではない。アルベルトに出逢う以前にグレートに出逢っていたら、自分はグレートをそういう意味で愛していたのかもしれないくらいには好きなのだ。
 寂寥と不安を埋める為に、自ら誘ってしまうかもしれない自分を理解していたからこそ、ジェットは家に入れなかった。もし、グレートが自分に対する恋愛という感情をわずかにでも除かせていてくれたら、こんな気持ちにはならなかった。
 人影が窓際を過ぎる。
 それから、その人影は戻って来て、窓の外を見た。
 ジェットの姿を見付けると、驚いた顔をして、数秒後には濡れるのも構わずに玄関から飛び出して来る。
 部屋履き用のスリッパのまま飛び出して来て、ジェットの腕を掴む。
 そのスリッパはお気に入りだと言っていたのにと、引っ張られながらそんなことを考えるジェットを、その外見からは想像できない力強さで、家の中に連れて行ってくれたのだった。
 玄関ドアがぱたりと閉まり、雨音が小さくなった。
「風邪を引く」
 そう言って、タオルを取りに部屋の奥に行こうしたグレートの背後から、ジェットは抱きついていた。
 ジェットには見えていないが、グレートの顔が引きつっている。
「タオルを取ってくるから……」
「イヤ……だ」
 グレートは困惑した視線を宙に漂わせた。
 この歳若い仲間に年甲斐もなく恋をしたのだと自覚したのは、仲間で親しい友人であるアルベルトと彼が恋仲にあると知ってからのことだった。つい、ジェットの前でその気持ちを言葉ではないが、行動として吐露してしまったことが一度だけある。
 自分の好意に対して敏感なジェットは、おそらく何も言わないが、それが恋愛感情であることに気付いていたのだろう。だから、こうして、アルベルトと喧嘩したと訪ねて来た時には正直驚いた。
 誘われているのかと都合の良いことを考えなかったわけではない。
 けれども、どうしたら良いのかわからなかったから、他の仲間から見た自分とジェットの関係というものを演じていただけだった。
 背中越しに濡れたジェット肌の感触が伝わって来る。
 役者時代、ベッドの相手には困らなかったし、男も女も関係したことはあるから、ジェットが男であることに対しての戸惑いはほとんどなかった。それよりも、友人の恋人であり仲間であるということに対しての拘りの方が強かったのだ。
「ジェット……」
 背後から回された手の甲を優しく撫でると、子供を宥めるような声で名前を呼んだ。
「グレート」
 震えるジェットの声がまるで、密着している部分から伝わってくる雨のようにグレートの心を浸食していくようだった。
 この気持ちは仕舞っておくと、そう誓ったのだ。
 誰にも報せずに、奥底に秘めておこうと、例え、ジェットがアルベルトと恋人という関係を解消したとしても、ジェットに自分の気持ちを告げるつもりもなかった。
「ほら」
 優しく巻きついた腕を外して、向かい合うと、まるで叱られた子供のように俯いてジェットは立っていた。
「グレート」
 何で泣けるのかグレートには分からなかった。
 泣き声を上げずに、涙だけを零すような泣き方は好きではない。何故なら、心が痛くなるからなのである。
 ある意味、仲間の中で最も社会の荒波にもまれていないのはジェットなのかもしれない。確かに、彼の今までの生き様は普通に人生を歩んで来た人間からすれば、凄まじいものであるのかもしれないが、普通の人間の心の奥に隠している汚泥のようにドロドロとした感情についてジェットは知らない。
 グレートのどろどろとした心の汚泥にも似た感情の中で、ジェットへの想いが浮かんだり沈んだりしているのだ。初恋のようにただ好きという純粋な気持ちだけではない。格好つけた言い方をすれば、大人の事情というものが、少なくともジェットに対する気持ちには付随してくるのだ。
「雨に濡れたぐらいで泣くもんじゃない」
「違うよ」
 なりは大きいのに、子供のような仕草をするジェットと濡れた髪を優しく撫でてやった。ジェットが慰めて欲しいと思っているのが、自分でないことは十分に承知していたとしても、そうするしかグレートには術がない。
「あんたが優しすぎるから、強引に、俺を抱けばいいのに。そしたら、俺は……」
 台詞はやがて嗚咽の中に埋没してしまった。
 グレートはだから、ジェットが愛しいと思う。といって抱きたくないわけではないし、そういった欲望も存在している。
 しかし、そこに踏み込めない事情もまた存在する。
 アルベルトという友人を裏切りたくはないという気持ちだ。
 それと、二人の間には決して余人が立ち入ることが出来ない絆が存在しているということに対する嫉妬もある。
 アルベルトに黙ったままジェットと躯を繋いで、関係を続けたとしても、この嫉妬はなくなるどころか肥大していくのが見えている。やがて、その嫉妬で身を滅ぼすことは分かっていた。
 役者として成功していながら、酒で身を持ち崩したのは、決して、酒に溺れたからではない。役者として嫉妬という感情に身を焦がし、それから逃れる為に酒を呑んだだけなのだ。
 自分はそういう人間なのだ。
 しかし、二度も同じ轍を踏むほどの馬鹿にはなりたくはない。
 ただ、ジェットの前では良き理解者でありたいという見栄っ張りな部分が、グレートを紳士でいさせてくれたのだろう。
「もしそうなったら、誰よりも苦しくなるのは、ジェット……なんじゃないのか」
 その台詞にジェットの顔が更に歪んだ。
 たまらなくなってグレートは頭を引き寄せ、何度も髪を優しく撫でてやる。それ以外に自分が出来ることなど思いつかなかったからだ。
 濡れた躯ごと抱き寄せることは出来なかった。
 もし、抱き寄せてしまったら、ここで留めていた自らの決心が揺らいでしまうかもしれないという危惧がある。
 濡れたシャツは白い肌に張り付いて、グレートを甘美な夢へと誘おうと手招きしているようだけれど、グレートは踏みとどまることしか、自らを守る方法を知らない。
 ジェットを苦しませない為にも、自分という弱い人間を守る為にも、この関係を壊してはならない。アルベルトには連絡してあるから、今夜にでも迎えに来るだろう。
「さあ、ジェット。シャワーを浴びるといい。そうしたら、とっておきのワインで食事にしよう」
 グレートはそう言うと、まだ泣いているジェットをバスルームへと押し込めた。
 扉を閉めて、大きく溜息を漏らす。
 そして、じっと掌を見詰めた。
 そこにはまだ、あの濡れた肌に触れた感触が残っている。
 濡れた肌はまるで東洋の陶磁器のように皇かであった。
 グレートは自分でもどうしたいのか、分からなくなっていた。しかし、ジェットをこの腕に抱くわけにはいかない。何故なら、自分の気持ちは純粋な恋ではないということぐらいは、理解できる大人であったからだ。
「当分、忘れられそうにないな」
 グレートはそう呟いた。
 濡れたジェットの肌の感触は、長い間、グレートの掌に残っていた。





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