帰らざる日々



 朝の家事を一通り終えた島村ジョーは、ギルモア博士をお茶に誘おうとするが、姿が見当たらない。天気の良い日はテラスに出たり、海岸に下りていることの多いギルモア博士を探して、テラスに出た。
 一陣の風が吹き抜け、視界を鮮やかな色彩が通り抜けて行く。
 何事だろうと視線を固定させるとそれは大きな鯉のぼりであった。風を孕んで大きく胸を張り、雄々しく泳ぐ姿があった。切り取ったような青い空に浮かぶ、絵に描いたような日本の風物詩にジョーは眉間に皺を寄せる。
 本当に、何も分からなかった小さな頃は鯉のぼりが泳ぐ姿を見るだけで、楽しかった。1日中、飽きもせずに、空を泳ぐ鯉のぼりを見て、自分もあんなに空を自在に泳げたらと、そう思っていたけれども、歳を経ることに節句の日はジョーにとって、イヤな日になっていった。
 ジョーの育った施設は、教会の中にあり神父が経営していた。
 一応、国や自治体の認可は下りていたが、決して、懐事情は裕福ではなかった。でも、神父の寄せる自分達の愛情には、名誉欲や同情が含まれていないことぐらい、十二分に理解出来ていた。けれども、子供の日になると、寄って来るボランティアの人々の親に捨てられた可哀想な子供達との視線がジョーには至極嫌であった。子供の日だけでない。ひな祭りや、クリスマスと言った様々な行事が好きになれなかった。他の子供達に虐められるよりもそんな大人の視線にこそ子供心が傷付けられたそんな思い出ばかりだ。
 鯉のぼりを見るとそんな思い出しか浮かんで来ない。
 どんなに嫌な思い出でも、ジョーはもうそんな自分には戻れないのだ。
 生身の人間ではなくなった。それに、自分という人間は戸籍の上では存在していない。生活して行くのに不便だからと、裏から手を回して、戸籍を作ってはもらったけれども、父の名も母の名も分からぬ、施設で育ったあの島村ジョーは、警察に連行される途中、逃走を計り、育ての親を殺した罪の意識に苛まれ海へ身を投げて死亡したことになっている。
「すごいじゃろ」
 鯉のぼりを見詰めながら、思い出したくもない過去に触れてジョーはついギルモア博士を探すことを忘れてしまっていた。
「博士。どうしたんです」
 無理に笑みを作って、自慢気に鯉のぼりを指差す博士にいつもの自分を装って答えた。
 ギルモア博士はシャツの袖を捲り上げて、額の汗を手の甲で拭っている。仕事をやり遂げた充実感で満たされた顔に影を差させたくはなかった。
「コズミ君が、君と、ジェットと、イワンにと送ってくれたんじゃよ」
「イワンはともかく、僕とジェットにですか?」
 外見が赤ん坊のイワンだけならともなく、自分もジェットももう18歳なのだ。今更、節句を祝ってもらって嬉しい歳でもない。
「そうじゃよ。ジェットはアメリカ人だから、節句の祝いをしたことないだろうし……」
 とギルモア博士は海原を泳ぐ、鯉のぼりを見上げる。はたはたと布地が風にはためく音に耳を済ませ、流れる色彩をまるで、子供のような瞳で見詰めている。初老と言ってもよい年齢にも関わらず、ギルモア博士は時折、邪気のない子供のように瞳を輝かせることがある。
 それは些細なことばかりなのだけれども、そんな顔が見たくて色々とジョーは世話焼きをしてしまうのだ。
「君は、ワシが祝ってやりたいんじゃよ。たいしたことはしてやれんがな」
 と博士は苦笑いをする。
 もちろん、ジョーの生立ちを知ってのことであろうが、博士から欠片の同情も伝わっては来ない。ただ、自分達の行く末を祈ってやりたいとのだと温かな心だけが伝わってくる。
「コズミ君によるとな。黒いデカイのがワシなんじゃそうじゃ。後、赤いのがジョーで、オレンジがジェットで、青がイワンなんじゃと、普通の鯉のぼりと少し違うが、いいじゃろ。」
 屈託なく笑う笑顔が神父とオーバーラップする。
 初めて、大きなのぼりを立てるような鯉のぼりが教会にやって来たのは、ジョーが幼稚園の時であった。それは、子供が成長して要らなくなったものだと、寄付されたものであったが、庭に汗だくに成りながらポールを立てて、鯉を上げてくれた。無邪気に喜ぶ自分達を見て、また、神父も博士と同じように邪気のない笑みを零していた。
 あの時は、本当に嬉しかった。
 鯉のぼりが上がったことよりも、神父が自分達の為に汗を流してくれたことが嬉しかったのだ。毎朝、保育園に出掛ける前に鯉のぼりを上げるのを手伝った。その度に、ジョーは良い子だと頭を撫でられる感触が好きだった。歳を経る毎に自分を取り巻く社会環境を理解するうちに、随分ひねてしまったものだが、毎年神父は鯉のぼりを上げて、ささやかだけれども節句の祝いをしてくれ続けていた。
 長じてからは自分の為ではなく神父の手伝いだと割りきっていたけれども、神父はそんな自分をも祝ってくれていたのだ。
 そう思うと、ほろりと涙が零れてくる。
「どうしたんじゃ、ジョー。鯉のぼりはいかんかったかのぉ」
 心配そうに寄せられるギルモア博士の温もりが嬉しくてならない。背中に触れるごつごつとした年老いた手の感触からは人工皮膚を通してでも心の温かさが伝わってくる。
 神父は死ぬ時にきっと自分の心配をしてくれていたのだ。
 死ぬ少し前、何かをジョーに告げたそうにしていた。それは、これだったのだ。自分に向けられる温かな想いはあるのだ。それを受け止められる人になって欲しいと、人の好意に対して懐疑的であったジョーに伝えたかったのだろう。
 『ジョーは笑った方がハンサムですよ』としきりにそう言っていた。
 人の好意を受け取るには、受け取る側にも受け取れるだけの余裕がなくてはならない。サイボーグなって、生身の頃には見られなかった沢山のものが見れるようになった。人の心も、今の方がずっと理解出来る気がする。
 どんなに自分が頑なに心を閉ざしていたのかが、仲間を得て始めて理解出来た。
「違うんです。博士。僕の育ての親の神父様が、いつも、節句が近くなると博士みたいに鯉のぼりを上げてくれたんです。博士と同じように笑いながら……」
 歪んだジョーの顔を隠すように博士はジョーを抱き締める。
 抱き寄せられ肩口に顔を埋めると、博士の匂いがした。汗ばんだ、でも、何故にだが落ち着ける。母の温もりも、父の温もりも知らぬジョーだけれども、ギルモア博士の温もりはジョーにとってのそれらと同じぐらい大切なモノになっているのだ。
 しばらく博士の温かな抱擁に身を任せていたが、子供じゃないのだしと気恥ずかしさも手伝ってジョーは顔を上げた。そこに博士の自らに心の恵みを齎す笑みがある。決して、自分が甘えることを嫌がっていないどころか嬉しいとすら思ってくれているのだ。困らせようとは思わないけれども、こうして時折、甘えさせてくださいとジョーは心の中でそう博士に告白する。どんな形であっても、愛することを許してくださいと。
「皆は仕事があるだろうから、ジェットを呼んで、4人で祝いでもするかの?」
 そう言うギルモア博士にジョーは頷いた。
「はい。僕、柏餅とお寿司作ります」
「柏餅は、確か、節句に食べるお菓子じゃな。楽しみにしておるよ。ジョーの作るものは美味しいからのぅ」
 ギルモア博士はそう言うと鯉のぼりを見上げるジョーの視線を追い掛けて、共に空に上がる鯉のぼりを見上げた。





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